第2話:付け焼刃

「いいですか、レナート様。…いえ、『エルゼ姫様』。あなたの目標はただ一つ。帝国に着くまで、そして着いた後も、絶対に『男』だと悟られないことです」

 

 離れの薄暗い一室で、姉上の筆頭侍女であるマーサが、俺の鼻先にピシッと扇子を突きつけた。

 姉上の身代わり計画が決まってから、俺の生活は一変した。

 カビたパンを削る時間はなくなり、代わりに早朝から深夜まで、地獄の猛特訓が進められることになったのだ。


「まずその歩き方! なんですかその、獲物を追いかける猟師のような大股は! 膝を擦り合わせ、内股で、地面から三センチ浮いているような優雅さで歩きなさい!」

「無理ですよマーサさん。人体の構造的に無理があります」

「黙りなさい! 返事は『はい』か『うふふ』だけです!」

 

 俺は必死に内股で小刻みに歩いてみる。膝が笑い、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げている。

 …これ、帝国に着く前に俺の足が壊れるんじゃないだろうか。


「次は声です。お出しなさい、裏声を。喉に小鳥を飼っているつもりで!」

「…お、おーっほっほ、ごきげんよう?」

「低い、低すぎます! それじゃあ喉に小鳥どころか、野太いカラスが住み着いています。いいですか、基本的には喋るな、口を開くな、どうしてもという時は咳き込んで誤魔化しなさい!」

 もはや王女の定義が『喋らない置物』になりつつあるが、俺は素直に頷いた。


「次にカーテシー(お辞儀)です! 背筋を伸ばし、裾を優雅に持ち上げて、重心をゆっくりと落としなさい!」


 言われるがままに膝を折るが、男の筋肉で構成された俺の足は、優雅さとは程遠い挙動を見せる。

 膝からは「パキィッ」と、およそ淑女から鳴ってはいけない乾いた音が響き、プルプルと震える大腿四頭筋(太ももの筋肉)が限界を訴える。


「……あ、あの、マーサさん。重心を落とすと、どうしてもっ、獲物を狙う獣の構えに、なってしまうのですが!」

「足の筋肉を殺しなさい! 生まれたての小鹿になりきるのです!」

 

 無理を言わないでほしい。俺はこれまでの極貧生活で、ネズミや鳩を捕まえるためにこの脚力を鍛えてきたのだ。

 

 さらに食事のマナー。これが一番の苦行だった。


「いいですか、食べ物を口に運ぶ際は、豆粒一つを分けるような繊細さで。歯を見せてはいけませんし、音を立てるなどもってのほかです」

「マーサさん、これ、食べてる気がしません」

「『食べている』のではなく『宝石を慈しんでいる』と思いなさい!」


 目の前の一欠片のパンを、まるでお守りのようにちまちまと弄(もてあそ)ぶ。

 口を開けば、待っているのは「はしたない!」「もっと淑やかに!」という扇子の洗礼だ。


(……俺、帝国に行ったら山盛りの肉を食うんじゃないのか? こんな食べ方をしていたら、一口目の肉を飲み込む前に日が暮れるぞ……)


 帝国でのご馳走を夢見て耐えているのに、その食べ方すら制限されるという矛盾。

 俺は心の中で「ガツガツ食わせろ!」と叫んでいたが、それを必死に「うふふ」という微笑みの下に押し込めた。


 それから数日間、俺は文字通り磨き上げられた。

 全身の産毛を容赦なく毟(むし)り取られ、肌が荒れないようにと得体の知れない泥のようなパックを顔面に塗りたくられた。

 さらに、コルセットという名の拷問器具で内臓を押し潰され、胸には大量のパッドが詰め込まれる。


「見て。意外といけるじゃない」

「おお…!」


 鏡の中にいたのは、豪華なドレスに身を包んだ、見知らぬ「美女」だった。

 金髪のウィッグを被り、濃いめの化粧を施された俺は、確かに遠目で見れば姉上にそっくりだ。

 ……いや、よく見れば肩幅が微妙に広いし、首筋のラインが逞しい気がするけど。


「いい、レナート。帝国に着いたら、常に俯いているのよ。恥じらっているフリをして顔を隠すの。向こうは野蛮な連中だから、女の細かい造作なんて気付きゃしないわ」


 姉上のエルゼが、優雅に茶を飲みながら無責任なアドバイスを飛ばしてくる。

 ちなみに姉上は俺のふりをして、この離れで『透明人間』として過ごす予定だ。今のところ、彼女は「一日中ダラダラできるなんて最高じゃない!」と喜んでいる。数日後、ここに出てくる食事がカビたパンだと知った時にどんな顔をするのか、今から少し楽しみである。


「マーサさん、これ、本当にバレないと思いますか?」


 俺は鏡の中の自分に問いかける。

 近くによれば、どう見てもドレスを着た男子王子である。

 女装のクオリティが低いわけではない。マーサたちの技術は神がかっている。だが、立ち振る舞いや、ふとした瞬間に漏れ出る『男』の気配を隠しきれていない気がしてならない。


「バレません。いえ、バレてはいけないのです! いいですか、あなたは今日から『可憐で控えめ、少し喉が弱くて無口な王女』なのです。いいですね!」

「……うふふ(これ、無理だろ……)」


 俺は精一杯の裏声で応えた。

 胃袋は美味しい肉を求めて鳴っているが、心の中では「帝国に着いた瞬間に処刑台行き」という最悪のシナリオが、鮮明なカラー映像で再生されていた。


 だが、もう止まれない。


(…肉…ステーキ、ローストビーフ、フォアグラ…)


 死ぬ前に一度でいいから、贅沢なご馳走を口にしたい。

 その一心だけで、俺はコルセットの苦しみに耐え、ベールの下で必死に『淑女の微笑み』を作り続けたのである。


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