第18話 泥濘(でいねい)の騎士、あるいは神の介入


 汲み取り屋の臭気と、クロスボウの弦が指に食い込む痛み。それが、ぼくの日常になって半年が過ぎた。すっかり生活の中にルーティーンが染み付いていた。


 朝日が昇る前に目が覚める。体が勝手に動き出す。


 腕立て伏せ——まだ20回が限界だ。腹筋——50回で息が上がる。走る——街の外周を、息を切らしながら。


 強くなれたかって? そんなに甘くないよ。ぼくはそんなに愚かじゃない。筋力も毎日の努力でようやく人並み以下だ。


鏡に映る自分の体——少しだけ、肩に筋肉がついた。少しだけ、腹が引き締まった。


でも……筋トレの量と負荷は少しずつ、少しずつ上げていっている。


 こんなに何ぜがんばれるのかって? 自分の弱さ……。それとアイツ……イリスを犯した男騎士が許せなかったからだ。


 夜、眠れない日が続いた。イリスの泣き顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。


「助けて……」あの日、彼女は何度そう叫んだのだろう。


 誰も助けなかった。


 ぼくも……逃げた。


 拳を握りしめる。爪が手のひらに食い込む。痛みが、怒りを呼び起こす。


 あの後…ふと気になったんだ。アイツ(男騎士)はイリスに賠償金、慰謝料を払えと求めたという。そして……金を稼ぐために売春させた……って。


 ぼくは、この事件をルーティーンワークの合間に少しずつ調べてた。


 汲み取りの仕事中、街の噂を聞く。酒場で、冒険者たちの会話に耳を澄ます。ギルドで、遺族の情報を集める。


 そして——遺族たちを突き止めれたんだ。


 薄暗い路地裏。古びた木造の家の前に立つ。ドアをノックする音が、静寂に響く。


「突然すみません……少しお話を聞きたいんです……」


 ドアが開く。疲れ果てた顔の男が現れた。目の下には深い隈。髪は乱れている。


「なんだ?」 「あの件でのお子さんの不幸にはお悔やみ申し上げます」


 男の顔が歪む。


「遠回しなこと言わなくていいから……何が聞きたい? もう息子は帰らないんだ」


 声が震えている。怒りか、悲しみか。


「同じパーティーでの生存者が男騎士とイリスだとお聞きしたのですが、イリスから慰謝料は届いてるのでしょうか?」


「そんな金をあの女が持ってるわけがないだろ! アイツめ。のうのうと自分だけ生き延びやがって」


 男は吐き捨てるように言った。ドアが、バタンと閉まる。


 ぼくはそれを聞いたとき、やっぱり……そう思った。男騎士は慰謝料と言いながらイリスに売春させて、そのお金を着服している。拳を握る。体が震える。


 何よりも、ぼくが最初この話を聞いたのは冒険者ギルドにいる一般的な男だった。


つまり……男騎士は……この件を周りに言いふらしている。イリスの名誉を。尊厳を。踏みにじっている。


 許せない! 絶対に許せない!


 まだまだアイツには敵わないだろう……でも、いつ男騎士が死ぬとも限らない。


ぼくは決闘を挑むことにした。死んでもいい。いや、死ぬ覚悟で行くんだ。一発だけでもいいからアイツを殴りたい。


好きな女の子のために……なにかやってあげれるなら、ぼくの存在なんて元々無いようなものだったんだから。


 でも決闘……それだけじゃダメだ。ぼくは恐らく……いやほぼ100%に近い確率で負けるだろう。そして何よりも怖い。正直に言えば逃げたい。


何の解決にもならない。クソっ。


 ぼくはここでも自分の無力さを痛感した。部屋の壁を殴る。ドンッ! 痛みが手に走る。でも……心の痛みに比べれば……。


 そんなある日、転機が来る。酒場でロジャーの噂を聞いた。


「決闘裁判で勝ったらしいぜ」 「代理人として、か?」 「ああ。相手の代理人もかなりの使い手だったらしいが、一瞬で終わったとか」


 心臓が跳ねた。決闘裁判—— ぼくは走った。


「ロジャー! 聞いたよ。決闘裁判ってどうしたの?」


 酒場の隅で酒を飲んでいたロジャーが、面倒くさそうに振り返る。


「ちっ! 相変わらず騒がしいな。ああ。代理人を引き受けた。相手も貴族の旦那だったが、かなりの腕の立つ代理人を用意してきた。だがオレの相手じゃねえ」


 ロジャーは淡々と言う。まるで朝飯の話でもするかのように。


「違うんだ! 決闘裁判って何?」


「はぁ? お前……そんな事も知らねえのか?」


 ロジャーは呆れたように溜息をついた。


「この国では揉め事が起きたら全知全能の神イナンナ様の前で審判を受ける。決闘をして勝ったほうが正義だ」


 勝ったほうが正義—— その言葉が、胸に響く。


「今回のオレのように依頼者は、か弱き一般人の女だった。こうして代理人をお願いすることもできる。報酬次第だがな」


「決闘裁判……ありがとう!」


 マリオの目は輝き出し走り出した。心臓が激しく鳴る。これだ——これしかない。


 翌朝。まだ暗い空。星がまだ輝いている。ぼくは早朝に身支度をすると、冒険者ギルドに向かうことにした。


「行くのかえ?」


 振り返ると、フレイがいた。小さなリスの姿で、でもその目は深く……悲しげだった。


「うん。フレイ……いろいろありがとう。友として……何もやってあげれなかったけど、キミと友になれて本当に良かった」


 フレイは何も言わない。ただ、じっと見つめている。まるで……最後の別れのように。ぼくは歩き出した。


 冒険者ギルドの門。朝日が昇り始める。待つこと1時間。街が目覚め始める。人々の足音。馬車の音。商人たちの声。


 そして——男騎士があらわれた。


 身長は180cm以上あるだろうか。肩の筋肉が盛り上がり厚い胸板、血管の浮き上がった逞しい腕。堂々とした足取り。


鎧が朝日を反射してキラリと光る。自信に満ちた表情。まるで、これから遊びにでも行くかのように。


「決闘をしたい。イナンナ聖教会にはもう伝えてある。お前にもお達しは来てるはずだ」


 ぼくの声は震えていた。


「ぷーっ! あーっはっはっはっはwww」


 男騎士ヨハンは笑い転げた。周囲の人々が振り返る。笑い声が、広場に響き渡る。


「お前が? 誰だ?と思っていたが相手がこんなやつだったとはな」


 ヨハンは涙を拭いながら、ぼくを見下ろす。「得物は何を使う? 剣か? 剣でオレに勝てるとでも?」


「得物はいらない。拳でやろう」


「ぷっ……ははははw 面白い。いいだろう」


 ヨハンは勝ち誇った顔でついてくる。


 イナンナ聖教会。荘厳な建物。高い天井。ステンドグラスから差し込む光が、床に七色の模様を描く。静寂。そして——中央の広間に、人々が集まっていた。


 野次馬たちのざわめき。「あの汲み取り屋が決闘だってよ」「相手は男騎士ヨハンだろ? 瞬殺だな」「賭けるか? 何秒で終わるか」


 笑い声。ぼくは……見世物だ。


 イナンナ聖教会の司祭が、荘厳な声で宣言する。


「では……決闘裁判をはじめる」


 静寂が訪れる。「神の名において宣言する。正しきものに神は手を差し伸べる」


 正しきものに—— ぼくは……正しいのか? 「はじめ!」


 その瞬間——


 ぼくは渾身の力を込めてダッシュした。足が地面を蹴る。風を切る。一発当てれれば……それでよかった。ヨハンの顔が目の前に迫る。拳を振りかぶる——スッ


 避けられた。あっけないほど、簡単に。


 バランスを崩す。体が前に傾く——その瞬間—— 「ぐはっ!」


 ヨハンの蹴りが、ぼくのお腹に突き刺さった。ドスッ!


 吐き気がするほどの衝撃と痛み。肺から空気が全て吐き出される。視界が白く染まる。地面に倒れる——ドサッ!


 そして——マウントポジションで馬乗りになられる。


「おらおらおらっ!」


 拳が顔に降ってくる。ドカッ! バキッ! ゴスッ!


 痛い——痛い——痛い——。


 鼻から血が流れる。口の中が血鉄の味で満たされる。意識が遠のきかけた


——でも——


**イリスの顔が浮かぶ。**


ダメだ——まだ——。ぼくは必死に腕を振り回す。何とか——何とか振り払えた。


「はぁ……はぁ……」


 息ができない。体中が痛む。


「なんだ? ケンカしたことねぇのか? そんなことでよく決闘だなんて言えたな」


 ヨハンの嘲笑が響く。周囲から笑い声。「やっぱりな」「30秒もたなかったぞ」


 でも——まだだ。まだ……終わらせない。


 ぼくはもう一度、渾身の力を込めてダッシュする。足がもつれる。視界がぼやける。でも——走る。


「だから当たらねぇよ」


 その時——


 殴られ続けて足に来てたのが幸いした。バランスを崩して右によろける——ヨハンが避けようと左に動く——軌道が—— 一致した。  ガスッ!


「ぐはっ!」


 拳が——顔面に入った。ヨハンの顔が歪む。あ、当たった!


 手が痛い——でも——人生で一度も感じたことのない心地よさだった。やった——。しかし……ぼくにできた抵抗はここまでだった。


 体勢を整えたヨハンの顔が——変わった。怒り。殺意。


「てめぇ……」


 容赦なく襲いかかってくる。 フルボッコだ。ドカッ! バキッ! ゴスッ! ズガッ!  腹に。顔に。胸に。何度も何度も何度も。


 イリスに申し訳ない気持ちで抵抗を試みるが、力が入らなかった。血が目に入る。視界が赤く染まる。そのまま……意識は遠のいていく。


 それでも——最後まで爪痕だけでもいいからと必死でしがみつく。ヨハンの鎧を掴む。離さない——離さない——。


「離しやがれ! ゴミが!」


 蹴り飛ばされる。ドサッ! 体が地面を転がる。もう——動けない。


「勝負は見えたな」


 ヨハンの足音が近づく。そして——剣を抜く音。シャキン。


「死にな!」


 剣が——振り上げられる。光が——刃を照らす。


 これで——終わりか——


 その瞬間——


「そこまでじゃ!」


 静寂。 全てが止まった。


 その声は——小さいのに、圧倒的だった。空気が変わる。周囲のざわめきが消える。


 そこには——リスではない、普段の姿のフレイがいた。


 小さな体。でも——その存在感は、巨大だった。神々しい光が、フレイを包む。黄金の瞳が光る。


「フ、フレイさま……な、なんでだ? こ、これは決闘でして……」


 ヨハンの声が震えている。剣を持つ手が、震えている。


「そこまでじゃ!というのが分からんか?」


 フレイの声が、響く。「ならばワシが相手してやる」


 言い放った瞬間、フレイの長い銀髪の毛先が、目に見えぬ魔力の奔流に乗り、わずかに跳ね上がった。


たったそれだけのことが、ヨハンには死神の鎌が首筋に触れたかのような、絶対的な死の予兆として伝わった。


ヨハンが一歩、また一歩と、膝を震わせながら後ずさる。剣を持つ手からは、もはや戦う意志が完全に消失していた。


「それまで!」


 司祭の声が、聖堂に響き渡る。


「マリオの申し立ての正当性を認める! 男騎士ヨハンよ。今後一切のイリスに対する関わりを禁ず!」


 厳かな宣言。絶対的な——裁定。


「な、なぜ? フレイさまなんか反則だろ」


 ヨハンが叫ぶ。


「聞いておらんかったか? 正しきものに神は手を差し伸べる」


 司祭が静かに言った。


「それが不服ならばフレイさまと闘え。そして勝つがいい」


 沈黙。 ヨハンは——逃げた。足音が遠ざかる。周囲の野次馬たちも、静かに去っていく。


 そして——ぼくの意識も、ここで途切れた。


 どれくらい時が経っただろうか。


 温かい——何かが、ぼくの頭を支えている。


 ゆっくりと目を開ける。フレイが——倒れてるぼくの頭を抱えてくれていた。


「ようやったの。ヌシの勝ちじゃ」


 優しい声。


「フレイ……そう言えば言ってたね……何があっても守ってくれるって」


「いいや。ヌシは自らの力で守ったのじゃ。イリスと男の誇りをな」


 フレイは優しく微笑んだ。


 夕日が差し込む。ステンドグラスが、七色の光を作る。その光の中で——フレイは、神々しく見えた。


「ほんに見事じゃった。さすがはワシの友じゃ」


 そう言って、軽い回復魔法をかけてくれた。温かい光が体を包む。痛みが——少しずつ引いていく。


「ありがとう。これなら歩いて帰れるよ」


 ぼくは立ち上がる。体中が痛む。でも——心は、軽かった。


 宿屋に戻ると、一気に全身の力が抜けた。ベッドに倒れ込む。そして——眠りにつく。


 成し遂げた誇りを胸に。


 宿のベッドに倒れ込み、ぼくは深い眠りに落ちた。夢の中で、あの暗い瞳をしていたイリスが、初めて少しだけ――笑ってくれたような気がした。

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