触れたら全部、鯵の南蛮漬けになるんだが。

@TK83473206

第1話 触れたら南蛮、考えたら終了

 その朝、南波恒一は確信していた。

 今日はツイてない。


 目覚ましは鳴らなかったし、レポートは未提出だし、冷蔵庫には賞味期限が三日前に切れた牛乳しかない。

 大学生としてどうかと思うが、人生としてはまあ普通だ。


「……遅刻確定だな」


 独り言を言いながら、玄関に向かう。

 アパートのドアノブに手を伸ばした、その瞬間――


 じゅわっ


 音がした。

 揚げ物が油から上がるときの、あの音だ。


「……?」


 南波は、手を止めた。


 ドアノブが、ない。


 代わりに、床の上に透明なプラスチック容器が置かれていた。

 中には、見覚えのある料理が詰まっている。


 黄金色の甘酢。

 刻まれた玉ねぎ。

 赤唐辛子。

 そして――


「……鯵の南蛮漬け?」


 五秒、固まる。


「……いやいやいや」


 周囲を見回す。

 誰もいない。

 玄関は静かだ。


「俺、まだ寝てる?」


 頬をつねる。痛い。

 もう一度、容器を見る。


 いい匂いがする。


「なんで……?」


 混乱したまま、南波は考えた。


 ――ドアノブに触った。

 ――その瞬間、「ドアノブだな」って思った。


 次の瞬間、これだ。


「……え?」


 試しに、慎重に手を伸ばす。

 今度は、考えないようにする。


 触れる。

 何も起きない。


「……触れるだけじゃ、ない?」


 少し安心して、気が緩んだ。


「じゃあ、これは……」


 容器に触れながら、つい思ってしまう。


「南蛮漬けだな」


 ――じゅわっ。


「増えた!!」


 隣に、もう一つ容器が出現した。


「待て待て待て待て!!」


 南波は後ずさる。


「触れて、意識したらアウト!? なにその地雷能力!!」


 とりあえず外に出ようと、ドアを見た。


 ドアノブがない。


「……あ、そうだった」


 床には南蛮漬けが二つ。

 開かないドア。

 時間は刻一刻と過ぎていく。


「……講義、無理だなこれ」


 南波は、人生で初めて真顔でそう判断した。


 仕方なく、南蛮漬けを持ち上げる。

 ずっしり重い。


「量保存の法則は守るんだな……」


 誰に向けたのか分からない感想を漏らし、キッチンへ運ぶ。

 テーブルに置いた瞬間、ふと思った。


「……これ、食えるのか?」


 箸で一切れつまむ。

 見た目は完璧だ。


 少し迷ってから、口に入れた。


「……」


 咀嚼。


「……うまい」


 普通に、うまい。


「いや、うまくても困るんだが!?」


 叫んだ拍子に、テーブルに手をつく。


「……このテーブル、安物だよな」


 ――じゅわっ。


「だから考えるなって俺!!」


 テーブルは消え、南蛮漬けが増えた。


 南波恒一は、その場に座り込んだ。


「……これ、どうすんだよ」


 床には南蛮漬け。

 テーブルも南蛮漬け。

 玄関も南蛮漬け。


 そして、頭の中に浮かぶ一つの結論。


「……触れて、意識したら、終わる」


 あまりにも扱いづらい能力だった。


 その日、南波恒一は外出しなかった。

 正確には、外出できなかった。


 世界は、思った以上に触るものでできている。



□□□□

32話で最終回です。

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