まだ名前のない歌

桃里 陽向

まだ名前のない歌

駅前の小さな広場には、夕方になると決まって一人の青年が立っていた。

ギターケースは擦り切れていて、弦も何度も張り替えた跡がある。それでも彼は、誰に頼まれたわけでもなく、毎日そこに立った。


歌は、聞き覚えがないのに懐かしかった。

通り過ぎる人の足を、ほんの一瞬だけ止める力があった。


青年は、歌っている相手を探していなかった。

探していたのは「覚えていてくれる誰か」だった。


その日、広場の端に座り込む少女がいた。

制服の袖は長く、視線は地面に縫い止められている。青年は彼女を見て、歌の調子を少しだけ変えた。


派手な旋律ではなかった。

ただ、失くしたものを否定しない歌だった。


「それでも、ここに残っている」

そう言われている気がして、少女は顔を上げた。


歌が終わると、青年は何も言わなかった。

少女も、拍手をしなかった。

それでも、二人の間には確かなやり取りがあった。


「……どうして、歌ってるんですか」


少女の問いに、青年は少し考えてから答えた。


「忘れないためかな。あと、思い出せるように」


「何を?」


「自分が、ここまで来た理由」


少女は黙り込んだ。

彼女にも、手放した理由があったから。


別れ際、青年は言った。

「今は何もできなくてもさ。

 ちゃんと息して、立っていれば、それでいい」


その言葉は、励ましというより約束に近かった。

それから数日後、広場に青年はいなかった。

代わりに、少女が立っていた。

ギターは持っていない。ただ、震える声で、言葉を紡いでいた。


それは歌と呼ぶには不器用だったけれど、

確かに誰かの足を止めた。


少女は気づいた。

あの日、青年が渡してくれたのは希望ではなく、

「続けてもいい」という許可だったのだと。

夕焼けの中で、少女は小さく笑った。

終わらせない、と決めたから。

まだ名前のないその歌は、

今日もどこかで、誰かの心に水を注いでいる。

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