卵
hibana
卵
「卵を見ていると、不安になるの」
教室のベランダに巣を作った鳩を見ながら、陽菜乃は言った。巣の中には、白い卵が二つ並んでいた。
「割れそうだから?」と尋ねれば、陽菜乃は「たぶんそう」と頷く。
「割れやすくて、そのうえ割れたら取り返しがつかないから、苦手」
俺は想像する。普段食べている鶏の卵でなく、たとえばいま目の前にある鳩の子が、今にも孵化しかけているなか外からの衝撃で割れるさまを。
出来かけの小鳥が液体とともに流れ出し、不可逆の破壊によって息絶えるさまを。
その取り返しのつかなさは、確かに身震いするような心地がした。
陽菜乃が死んだのは、高校一年の夏だった。
公園の公衆トイレに捨てられた陽菜乃は、ひどく穢されていた。犯人は逃げ、そして、見つからなかった。
陽菜乃には、陽茉莉という名の双子の姉がいる。
妹の陽菜乃は明るく社交的な少女で、姉の陽茉莉は穏やかで少しおっとりした少女だった。
姉妹は母子家庭で育ったが母と折り合いが悪く、普段からお互いをたった一人の家族と呼んでいた。
そんな陽茉莉が、己の片割れを殺した犯人を許すはずもなく、人が変わったかのように全てを憎んだ。
俺も同じ気持ちだった。俺は姉妹の隣に住む幼馴染で、中学の時から陽菜乃と付き合っていた。
大人になった俺は刑事になり、独自に陽菜乃の事件を調べた。陽茉莉も執念深く聞き込みやビラ配りをし続けて、二人でようやく容疑者逮捕まで漕ぎ着けた。容疑者は簡単に自白し、事件は解決した。
犯人は、事件当時陽菜乃より二つ下の、少年だった。
『取り返しのつかないことをしてしまった。ごめんなさい』と犯人は、泣きながら言った。
俺は陽茉莉を宥めるように、言った。
「もうやめよう。終わったんだ。事件に真っ当な形でけりをつけたんだ。誇るべきことじゃないか」と。
陽茉莉は「真っ当な形?」と鼻で笑った。
見透かされたような気がした。
陽菜乃を忘れたがっていること、過去にしたがっていること。
犯人を逮捕したという言い訳で、終わったことにしたがっていると。
だが、俺からすれば陽茉莉は逆に、陽菜乃を忘れないことで己の人生を省みないでいる、己の人生を取り戻す努力を怠っているようにしか見えなかった。
かたや事件が解決したことを言い訳に自分の人生を取り戻そうとする者と、かたや妹への愛を言い訳に自分の人生に対する責任から逃げ続けている者と。
どちらがより不誠実なのかはわからなかった。しかし俺が、その時点で陽茉莉を見限っていたことは確かだった。
「もうやめろ、陽茉莉」
そう言いながら、俺は疲れていた。
ここはビルの屋上で、風に吹かれながら陽茉莉が縁に腰掛けている。「見える? あれがあいつの住む部屋だよ」と陽茉莉は指さした。
陽菜乃を殺した犯人はとっくに自由の身となっており、更生支援で手に職をつけ、今では妻子がいるはずだった。
俺はもう一度「やめろ」と言う。
陽茉莉はといえば手に持った端末に目を移し、何かを操作している。
『爆弾を仕込んだの。あいつの最後は君にも見る権利があると思うから、一緒に見ませんか?』
そのようなメッセージが送られてきてすぐ、俺は指定されたこの場所にやってきていた。
陽茉莉は屋上の縁から足を投げ出すような形で座っていて、俺が来てからずっと姿勢を崩してはいない。
喫煙所として使われているのか、スタンド灰皿が二つ置いてある。灰皿を支える細長い金属の脚がついており、洒落ている。ふと煙草が吸いたいなと思ったが、何が陽茉莉を刺激するかわからないのでやめた。
「終わったんだよ、陽茉莉。犯人を捕まえて、あの事件は終わったんだ」
「事件はね。私たちの人生は終わってない」
「こんなことをして、これからどうするんだ」
「じゃあ、こんなこともせずにこれからどうしろって言うの」
陽茉莉の声は穏やかだった。その声に俺は学生時代の、あの穏やかでおっとりした陽茉莉の影を見た。
「すごいんだよ、これ。ボタン一つであいつを吹っ飛ばすの」
「あいつには嫁さんと子供がいる。罪のない人たちまで殺す気か?」
「そうだよ」
穏やかながらもはっきりと、陽茉莉はそう言った。俺のことをじっと見て、「止めたら?」と小首を傾げる。
「殺してでも止めたら? なんのためにあなたのこと呼んだか、わかってるくせに」
短く息を吐いた。それからうなづいて、俺は近くの灰皿を掴む。
「あなた本当に可哀想ね」と彼女は言った。言いながらも彼女はずっと妹を殺した男が住む部屋の方を見ていて、殴られる瞬間まで俺を見ることはなかった。
俺は自分の顔に飛び散った血を拭いながら、陽茉莉が落とした端末を拾う。そして迷うことなくそこにあったボタンを押した。
空気が揺らぎ、眼下で何か爆ぜた。遅れて音が響き、やがて黒い煙が立ち上り始める。
それを見た彼女が笑った。おかしくてたまらない様子で笑った。
しばらくして陽茉莉は沈黙する。血溜まりの中で二度と笑いはしなかった。
煙草を咥え、風から守りながら火をつける。肺を煙でいっぱいにして、呼吸を止めた。
なぜこんなことをしたのかはわからないが、一時の気の迷いでないことはわかっていた。俺は、もしこのような舞台に立たされたなら、自分はこうするだろうことがわかっていた。
短い間だが刑事をやってきて、色々な事件と犯人を見てきたが、動機というものが人の思うほど確かであったことはない。
まず人間の中には、それをできる人間とできない人間がいて、できてしまった人間がその行為に理由を後付けで付加するにすぎない。
この場合、後付けの理由は一体何なのか。煙を吐き出しながら俺は考えていた。
陽茉莉を殴って殺したところまでは慈悲だったかもしれないが、では爆弾のスイッチを入れたことは? やはり俺もあの男を恨んでいたのだろうか。あるいは義憤にかられて? 理屈に合わない。今の俺とあの男を天秤にかけたら、俺の罪の方が重いだろう。
冬の風は冷たいが、煙草が美味い。
たぶん────
俺は顔を上げて、静かに結論を出した。
俺は俺の人生を取り戻したかった。人生の、操縦席のようなものにもう一度座りたかった。
なぜだか俺は安堵していて、陽菜乃が死んで初めてこんなにも、心が穏やかだった。
「取り返しのつかないことをしてしまった。ごめんなさい」
そう呟くと、微かに胸の奥が痛む。口に出したことでようやく罪悪感が芽生えたような。かつて少年だったあの男も、同じ気持ちだっただろうか。
命の消える音がする。それはどこか、卵が割れる音に似ていた。
卵は、取り返しのつかないさまでずっとそこにあって、腐った臭いをさせていた。
卵 hibana @hibana
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