クローゼットの中で息をする者-間宮響子-
江渡由太郎
クローゼットの中で息をする者-間宮響子-
間宮響子は、電話口の沈黙の向こうにある“気配”を、言葉より先に嗅ぎ取っていた。
「……二階、寝室ですね」
電話の向こうで、淳(あつし)は息を呑んだ。
「まだ何も話していないのに……」
「いいえ。あなたの声の奥に、閉じられた空間の湿り気がある」
響子はそう言って通話を切った。
その家は、郊外の古い住宅地にひっそりと建っていた。
遠縁の親戚が亡くなり、相続権者はなぜか淳一人だけ。
理由は不明だが、弁護士も「偶然でしょう」と片付けた。
家族四人で内見に訪れた日、家具はすべて生前のまま残っていた。食器棚には指紋の跡があり、ソファのクッションは、誰かが今さっき立ち上がったように沈んでいた。
違和感を覚えたのは、二階の寝室だった。
壁紙は黄ばんでいるのに、クローゼットの扉だけが妙に新しい。
淳が扉に手をかけた、その瞬間――中から、腕が伸びた。
人のものとは思えないほど冷たく、異様に長い腕だった。
指は五本ではなかった。六本、いや、七本。
「うわあああっ!」
体を掴まれ、淳はクローゼットの中へ引きずり込まれそうになる。
中は闇ではなかった。
生ぬるく、湿っぽい呼吸していた。
必死に腕を振りほどき、階段を転げ落ちるように一階へ逃げた。
家族に事情を話した、その直後だった。
二階から――。
獣とも老人ともつかない、悪魔のようなうめき声が響いた。
ギィ……と、寝室の扉が、ひとりでに静かに閉まる。
それ以上、誰も二階へ上がろうとはしなかった。
「その家は、“住むため”に残されたのではありません」
間宮響子は、玄関に立った瞬間に断言した。
彼女の霊視は、目に見えないものだけでなく、過去の感情の残骸を映し出す。
「クローゼットは入口です。閉じ込めるための、棺」
寝室に入った瞬間、空気が重く歪んだ。
クローゼットの中から、あのうめき声が再び聞こえる。
「出たい……代わりを……」
響子は印を結び、低く唱えた。
「――お前は、人ではない」
扉がガタガタガタと激しく震え、中から無数の腕が叩きつけられる。
しかし、外へは出られない。
「この家の主は、生前、自分の“罪”をここに閉じ込めた。それはやがて形を持ち、次の宿主を待つようになった」
響子は最後の言葉を放つ。
「だが、選ぶ権利は――もう……ない」
強烈な霊圧が走り、クローゼットは沈黙した。
数日後。
家は取り壊され、跡地は更地になった。
「これで、終わりですよね?」
淳の問いに、響子は首を横に振る。
「いいえ。閉じられた空間を、無闇に開けないこと。それが、唯一の対処法です」
去り際、響子は振り返った。
更地の中央に、クローゼットの取っ手だけが、土の上に残っていた。
それは――。
内側から、静かに叩かれていた。
――(完)――
クローゼットの中で息をする者-間宮響子- 江渡由太郎 @hiroy
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