異世界に召喚された息子へー母さんより

@M-yama-1105

第1話


 町の郵便局に、異世界召喚局の赤い封筒が届いたのは、雨の降る朝だった。


 古いポストに押し込まれたその封筒は、まるで肉に滲む血のようで、嫌になるほど鮮やかだった。


 配達員が玄関先で帽子を押さえながら言った。




「……タカナシさんのお宅に、召喚令状です」


 


私はそれを手に取った瞬間に理解した。


 指先が震え、息が浅くなる。


 宛名にはこう書かれている。


 ――召喚対象:ユウト・タカナシ


 私の息子の名前だ。


 


異世界召喚。


 それは国家が定めた制度であり、拒否権はない。


 昔の戦争で使われた「赤紙」と同じだと、人々はひそひそ話していた。


 来たら終わり。返事も選択肢もなく、人は戦場へ送られる。


 台所で皿を洗っていたユウトが、タオルで手を拭きながら出てきた。


「……来たのか?」


 私は封筒を握りしめたまま、うなずくしかできなかった。


 ユウトは、それをひったくるように受け取ると、さっと目を通し、ふっと笑った。




「やっぱ、俺か。


 剣の腕なら、そこそこだしな」


 強がりの笑みだった。唇がわずかに引きつっている。




「断れないのよ」と、私はかろうじて声を出した。「体調が悪いって、言えば……」


「査察が来るって、学校で聞いた。どうせバレる。


 それに――」


 ユウトは一瞬、視線をそらした。




「俺、行かないとさ。


 誰かが代わりに行くの、気分悪いし」


 


言葉の選び方は不器用だが、その中にある真面目さを、私はよく知っていた。


 抱きしめたいのに、腕が動かない。


 引き止めたいのに、口が開かない。


 私は母親である前に、この国の大人として、子どもの背中を押すべきなのだろうか。


 それとも、ただ一人の息子として、泣きながら縋りつくべきなのだろうか。


 答えは最後まで出なかった。


 


出発の日の朝、空はよく晴れていた。


 こんなときに限って、いい天気になるのだと思った。


 玄関に立ったユウトが、革のブーツの紐を締めながら言った。




「母さん」




「なに」




「帰ってきたらさ……味噌汁。あれ、また飲ませてくれよ」


 


私は笑ったつもりだった。


 だが、それは笑いではなく、喉の奥で砕けた声だった。


「冷めないように、温めておくわ」


 自分で言って、自分で嘘だと思った。


 冷めないわけがない。


 火から下ろせば、どんなものでも冷めていく。


 ユウトは「頼んだ」とだけ言い、扉に手をかけた。


 ふり返りはしなかった。


 扉の閉まる音。


 次いで、遠ざかる足音。石畳を踏む靴音が、ひとつひとつ数えられるほどにはっきり聞こえた。


 私は力が抜けて、膝を床についた。


 冷たい板の間が、現実を容赦なく伝えてくる。




 ――もし、時間が巻き戻るなら。


 言うべき言葉は「行かないで」ではない。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 育ってくれて、ありがとう。


 あなたが私の息子で、私は幸せだった、と。


 そういう言葉を、何ひとつ渡せなかった。


 その日の夜、私は机に向かった。


 震える手でペンを持ち、初めて息子へ手紙を書いた。


 届け先など分からないままに。




『ユウトへ


 そちらの世界には雨は降りますか。


 こちらは今日も寒いです。


 食べられそうなものは、ちゃんと食べてください。


 眠れる夜がありますように。


 母さんより』




 書き終えた封筒をポストへ落とした。


 意味などない、自己満足の儀式だと思いながら。


 だが――


 封筒が底へ触れた瞬間、小さな音がした。




 ――コトン。




 返事を期待するような、聞き慣れない音だった。


 私はしばらく立ち尽くした。


 雨音と、その小さな音だけが、世界を支配していた。


 その夜、私は気づいてしまった。


 手紙とは祈りなのだ。


 届くかどうかではなく、書くことで、自分が崩れずにいられるのだと。


 だから翌日も書いた。


 その次の日も書いた。


 息子の帰りを信じる母としてではなく――


 息子を失ったかもしれない人間として、私は書き続けた。




 季節は、容赦なく巡っていった。




 春。


 田畑の手入れを手伝ってくれていたユウトの姿を思い出しながら、私は一人で鍬を振るった。


 土を返すたび、背中が軋む。




『ユウトへ


 田んぼの土をひっくり返しました。


 あなたがいつも文句を言いながら手伝ってくれた仕事です。


 正直、あなた一人分の力がないと大変です。


 母さんは相変わらず元気です。


 でも少し腰が痛いです。あなたのせいです。


 小さいころから抱っこばかりせがんだからです。


 帰ってきたら、文句を言わせてくださいね。


 母さんより』




 ふざけた文面を書きながら、インクの滲みを誤魔化すように笑ってみせる。


 封筒を閉じ、ポストに落とす。


 コトン。


 あの音は、いつも同じだ。




 夏。


 蝉の声が、やけに耳につく。


 汗が額を伝い、ユウトが「暑い、暑い」とうるさく言っていた夏を思い出す。




『ユウトへ


 そちらは暑いですか。


 こちらは蝉がうるさいです。あなたより少し静かです。


 今日はスイカを食べました。


 半分はあなたの分だと思って残しました。


 気づいたら全部食べてしまいました。ごめんなさい。


 母さんより』




 封筒を落とすたびに、小さな音が鳴る。


 コトン。


 まるで、「確かに預かった」と誰かが告げているかのようだ。




 秋。


 街の広場に、帰還兵のための旗が掲げられた。


 異世界からの帰還者たちを迎える式典があると、役場からお触れが回ってきた。


 隣の家の奥さんが、興奮した声で言う。


「聞いた? うちの甥っ子の友達がね、戻ってきたんだって。


 向こうの世界はすごかったって。魔物とか、ドラゴンとか――」


 私は笑って相槌を打ちながら、心のどこかで距離を置いていた。


 帰還者。戻ってくる人が、確かにいるらしい。


 なら、ユウトも――


 そう考えてはいけない、と同時に思う。


 期待すれば、そのぶんだけ壊れる。


 それを私は、人生の中で何度も学んできた。


 それでも、人は期待してしまう生き物だ。


 


式典の日、私は町の広場には行かなかった。


 代わりに、風呂敷に包んだ小さなおにぎりを持って、丘の上の小さな神社に向かった。


 そこからは、遠くに広場の喧騒が見えた。




『ユウトへ


 今日、帰還者の式典があったそうです。


 私は行きませんでした。


 もしあなたがそこにいたなら、きっと背の高い列の中で目立っていたでしょう。


 私は遠くからでも見つけられたと思います。


 見たかったな、と少しだけ思いました。


 でも、見なかったことにします。


 母さんは、ずるい大人です。


 母さんより』




 手紙を書き終え、丘を下りて家のポストに向かう。


 いつものように、封筒を落とす。


 コトン。


 その音だけが、世界と私を繋いでいた。




 冬が来る前、役場から分厚い封筒が届いた。


 茶色の紙に、黒い判子が重く押されている。




「殉職者および消息不明者名簿」




 丁寧すぎる字が、気に障った。


 私は封を切る手を、一度止めた。


 開かなければ、何も確定しない。


 紙切れ一枚で、息子の生死が決まってしまうことが、理不尽だった。


 それでも、私は開いた。


 逃げてばかりではいられない。


 細かい字で、名前が無数に並んでいる。


 一行ごとに、誰かの人生が終わっている。


 タカハシ、タナカ、タムラ――。


 指で追っていくうちに、視界が滲んだ。


 ユウト・タカナシの名前は、そこになかった。


 私は息を吐いた。


 安心と、別の形の不安が入り混じる。


 殉職者でもない。


 だが、「帰還者名簿」にも、彼の名はなかったと聞いた。


 生きているのか、死んでいるのか。


 私には分からない。


「中途半端だな」と、声に出してみた。


 笑いとも涙ともつかぬものが込み上げる。


 その夜、私はいつもと少し違う手紙を書いた。




『ユウトへ


 役場から名簿が届きました。


 そこにあなたの名前はありませんでした。


 母さんは、安心していいのか、覚悟を決めるべきなのか分かりません。


 でも、少なくとも一つ分かったことがあります。


 母さんは、あなたの生死よりも、


 あなたが「どう生きているか」の方が気になっているということです。


 会えなくてもいい、とまでは言いません。


 でも、どこで、誰と、何を思っているのか――


 それを知りたいと、勝手に願っています。


 ずるい母でごめんなさい。


 母さんより』




 封筒を閉じ、いつものようにポストへ落とす。


 コトン。


 あの音は、何も答えてはくれない。


 ただ、確かにそこにあると告げるだけだ。




 数年が過ぎた。


 私は少しずつ、体を壊していった。


 腰の痛みは増し、冬になるたびに咳が出るようになった。


 医者は「年相応だ」と笑ったが、それだけではないことを私自身がよく分かっていた。


 毎日書いていた手紙は、いつの間にか週に一度になり、月に一度になり、やがて季節ごとに一通になっ た。


 ポストの前で立ち尽くしながら、私は自分に問いかける。




 ――この手紙は、まだ必要なのだろうか。




 ある晩、冬の風が窓を揺らしていた。


 息をするたび、胸がじんと痛む。


 布団の上に座り込み、私は最後のつもりで手紙を書いた。




『ユウトへ


 今日は少し、素直なことを書きます。


 母さんは、あなたが異世界に召喚されたあの日から、


 ずっと後悔ばかりしてきました。


 本当は、行かないでと言いたかったです。


 抱きしめて、泣きつきたかったです。


 でも、あなたの目を見たとき、


 あなたはもう「誰かを守ろうとしている顔」になっていました。


 その顔を、私は止められませんでした。


 あなたがどこでどんな最期を迎えるとしても、


 どうか、自分を責めないでください。


 生まれてきてくれて、ありがとう。


 あなたを息子と呼べることが、


 母さんの一生の誇りでした。


 返事はいりません。


 これは、母さんのわがままな独り言です。


 どうか、どこかで笑っていますように。


 母さんより』


 


書き終えたとき、インクが少し滲んでいた。


 手の震えのせいだけではない。


 私はコートを羽織り、深夜の冷えた空気の中、ポストへ向かった。


 吐く息が白く、街灯の光に溶けていく。


 封筒を差し込む。


 ゆっくりと手を離す。


 コトン。


 あの音を聞くのは、これが最後かもしれないと思った。


 胸の奥に空洞ができたような感覚が広がる。


 家に戻り、布団に潜り込む。


 体が重い。


 瞼の裏に、まだ少年だったころのユウトの顔が浮かんでは消える。


 ――どこかで、聞こえていないだろうか。


 そんなありえないことを考えながら、私は眠りに落ちた。




 目を覚ましたとき、外はまだ青白かった。


 窓の外に、粉雪が舞っている。


 喉が渇いていた。


 湯を沸かそうとしたとき、ふと、玄関の方から微かな音がした。


 ポトン、と何かが落ちるような、違和感のある音。


 私は胸騒ぎを覚えながら、ゆっくりと廊下を歩いた。


 扉を開けると、冷気が入り込んでくる。


 足元を見る。


 古びたポスト口から、一通の封筒が半分だけ覗いていた。


 赤くはなかった。


 見慣れぬ、淡い青色の封筒だった。


 紙の質も、この国のものとはどこか違う。


 私は封筒を取り出し、震える指で宛名を見た。




 ――タカナシ・ミサキ様




 私の名前だ。


 裏返す。


 差出人欄には、不格好な字でこう書かれていた。


 ――ユウト・タカナシ


 膝から力が抜け、その場に座り込んだ。


 心臓がうるさいほどに脈打っている。


 夢かもしれない。


 幻覚かもしれない。


 それでも、私は封を切った。


 中には、ぎこちない筆圧の紙が一枚、折りたたまれて入っていた。


 インクがところどころ滲んでいる。


 焦げたような跡もある。


 ゆっくりと、目を走らせる。




『母さんへ


 手紙、読んでるよ。


 ちゃんと届いてる。


 焚き火のそばでも、雨の塹壕の中でも、読んでいました。


 母さんが書いてくれた日付と、こっちの空の色を、


 いつも比べていました。


 そっちは雨か、とか、寒いのか、とか。


 こっちは、ときどきすごく暑くて、ときどき信じられないくらい寒いです。


 魔物は、正直あんまり可愛くないです。


 母さんの手紙を仲間にも読ませました。


 みんな笑いました。


「うちの母ちゃんも、こんなんならな」と言って泣いたやつもいました。


 母さん。


 俺は、帰れるかどうか分かりません。


 正直に言うと、多分、難しいです。


 でも、帰りたいと思って生きています。


 毎日、母さんの味噌汁を思い出しています。


 それを思い出せるだけで、ここは少しだけ家になります。


 だから、もう無理に手紙を書かなくていいです。


 母さんの手は、きっともう、前より疲れやすいはずだから。


 ちゃんと届いたってことだけ、覚えていてください。


 生んでくれて、ありがとう。


 世界で一番、母さんが好きです。


 ユウトより』




 文字が、視界の中で滲んだ。


 どこまで読んだのか分からなくなり、同じ行を何度もたどる。


 届いていたのだ。


 私の愚痴も、冗談も、情けない後悔も――全部。


 焚き火のそばで。


 雨の塹壕の中で。


 異世界のどこかで、息子はそれを読んでいた。


「ばかだねえ……」


 気づけば、声が漏れていた。


「そんなこと言われたら……書かないわけに、いかないじゃないの」


 笑いながら、涙が頬を伝う。


 胸の奥にあった、長い長い緊張の糸が、音もなくほどけていく。


 帰れるかどうか分からない、と彼は書いた。


 多分、難しい、とも。


 それは、事実上の別れの手紙なのかもしれない。


 それでも、そこには「生きている今」が確かにあった。


 息子は、今、どこかで空を見ている。


 味噌汁の味を思い出している。


 自分以外の誰かのために、笑ったり、泣いたりしている。


 それだけで、もう十分だった。


 私は手紙を胸に抱いた。




 布団に戻り、仰向けになって天井を見つめる。


 息がゆっくりと落ち着いていく。


 涙は止まらないが、不思議と苦しくはなかった。


「……ユウト」


 声に出して呼んでみる。


 どこまで届くかは分からない。


 けれど、それでいいと思えた。


 世界のどこかで、彼はきっと、同じように私の名前を呼んでいる。


 そう信じられた。


 瞼が重くなっていく。


 胸の中にある手紙の感触が、やさしく体温を伝えてくる。


 私は目を閉じた。


 そのまま、静かに眠りに落ちた。


 二度と、目を覚ますことはなかった。




 後に、近所の人々は言う。


 タカナシさんは、穏やかな顔で寝ているようだったと。


 胸の上には、一通の青い封筒が大事そうに握られていたと。


 役場の者が首をかしげるほど、その封筒はどのルートからも説明がつかなかった。


 郵便局の記録にも、そんな差出人の名前はない。


 異世界召喚局も、「こちらの世界からあちらへの送信記録」しか持っていないと言った。


 


ただ一人だけ、それを知っている者がいる。


 二つの世界の境目を行き来し、


 失われた言葉と祈りを拾い集める、名もなき配達人である。


 彼は言う。


「この世界から異世界へ送られる手紙は、数えきれないほどある。


 そのほとんどは、返事をもらうことなく、ただ祈りとして積もっていく。


 だが、ごく稀に――


 祈りと祈りが、互いの世界で届き合う瞬間があるのだ」と。




 タカナシ家のポストから響いていた、小さな音。


 ――コトン。


 あれは、単なる紙切れが落ちる音ではない。


 世界の片隅で、ひとつの想いが受け取られた証の音である。


 息子は戻らなかった。


 母もまた、その手紙を胸に旅立っていった。


 けれど、二人の言葉は、確かに届き合っていた。


 それは、この世界のどんな法令にも記録されない。


 異世界召喚局の帳簿にも載らない。


 ただ一つ、


 青い封筒の中のインクだけが、静かにその事実を証明している。




「生んでくれて、ありがとう」


「生まれてきてくれて、ありがとう」




 二つの言葉は、もうこれ以上どこへ届けられる必要もない。


 それはもう、


 互いの胸の中に、永遠に届いてしまったのだから。

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