帝国少女と反逆のタイムパラドックス

朝霧 露

第1話「夜を奏でる少女」

西暦2145年。


かつて「日本」と呼ばれていたこの国で、「東京」という都市は、すでにその名を失っている。


今、その地に与えられている呼称は――

東亜第七管理区域・第一帝都。


国家ではない。

都市でもない。

そこに存在するのは、管理のために定義された区画と、統制の名だけだった。


かつて存在した23区も、例外ではない。

それらは再編され、ひとまとめに《エリア23》と呼ばれるようになる。


そして、その内部はさらに細分化された。

エリア1。

エリア2。

エリア3――。


人が暮らす場所は、もはや固有の名ではなく、

番号によって識別される時代となっていた。


――そして、その管理番号の一つであるエリアの片隅。


無機質な高層構造物が連なる区画の狭間、

建物の縁や看板に残されたネオンが、淡く、頼りなく光を滲ませている。


その下を、ひとりの少年が息を切らしながら駆けていた。


「逃げろ! 逃げろ!」


必死に叫ぶ声は、

コンクリートに囲まれた通路に反響し、やがて薄れていく。


その少し後方――

もう一人の少年が、同じように走りながら、前を行く背中へ声を投げた。


「遂にやったな!」


追われている状況とは裏腹に、

その声には、抑えきれない高揚が混じっていた。


だが、その二人のさらに後ろから――

重い足音を響かせながら、

一人の大人の男が、確かに距離を詰めてきていた。


薄暗く、霧がかる夜の帝都。


二人の少年は、並ぶようにして走っていた。

そのすぐ脇には、道路のようにも見える、異様に広い通路が伸びている。


左右には、巨大なビルのような建造物が壁のように立ち並び、

視界を塞ぐほどの圧迫感を放っていた。


だが、その通路に車の姿はない。

人影も、ほとんど見当たらない。


広さに反して、あまりにも静かだった。

不気味なほどに、音がない。


その沈黙を引き裂くように、

背後から荒い男の怒鳴り声が響く。


「待てー!」


叫び声は、無人の都市に反響し、遅れて追いかけてくる。


少年たちは振り返らない。

速度を落とすことなく、追ってくる男を振り切るように、

通路脇へと逸れ、一本の路地裏へと飛び込んだ。


道幅は一気に狭まり、

周囲の景色が、別の顔を見せる。


路地の両側には、レンガ造りの古い建物が前後に連なり、

その壁面には、上階へと続く鉄製の階段が取り付けられていた。


その階段のすぐ下――

二人は、そこでようやく足を止めた。


「……はぁ……はぁ……」


荒い息が、静かな路地に落ちる。


すると、後ろを走っていた少年が、

肩で息をしながら、前に立つ背中へ声をかけた。


「やっと手に入れたな! ソラ!」


その名は、

前を走っていた少年の名前らしかった。


それに応えるように、前を走っていた少年が振り返る。


「だな! 早くやろうぜ、ハル!」


声を弾ませてそう言った。


白とグレーが入り混じったショートヘア。

黒のインナーに白いパーカーを羽織ったその少年――ソラは、

逃走の最中だというのに、どこか楽しげな表情を浮かべている。


一方、その少し後ろに立つハルは、赤茶色のセンター分けの髪を揺らしながら肩で息をついていた。

黒を基調とした服装は街の暗がりに溶け込み、

その眼差しだけが、異様なほど鋭く輝いている。


二人が「手に入れた」と言っていたものは、

今、ソラの手の中にあった。


掌に収まる大きさの、折りたたみ式の端末。

外装はエメラルドグリーンに近い色合いで、鈍く光っている。


ソラは待ちきれない様子で、それを開いた。


「これか! これが昔のゲームか!!」


ハルが身を乗り出す。


だが――

展開された画面は、何の反応も示さなかった。


光は灯らず、文字も映らない。

ただ黒い画面が、二人の期待を静かに受け止めているだけだった。


「あれ? 画面つかねーな。壊れてるのか?」


ソラが不満そうに眉をひそめると、

隣で覗き込んでいたハルが首を傾げた。


「……ここじゃね?」


そう言って、右下にある小さな突起――

電源ボタンのようなものを、指先でポチッと押す。


次の瞬間、

暗闇だった画面が、ぱっと明るく光った。


簡素な背景に、いくつかのアイコン。

ホーム画面のようなものが立ち上がっている。


それを見たソラの顔が、一気に輝いた。


「おぉー! でかしたぞ、ハル!」


その言葉に、ハルは視線を逸らし、

照れくさそうに肩をすくめる。


明るく灯った画面を眺めながら、

ソラは今度は不思議そうに首を傾けた。


「……なんだこれ?」


その声につられるように、

ハルも身を寄せ、ソラの手元を覗き込む。


画面に映っていたのは、

どこか間の抜けた、丸い妖怪だった。


赤い猫のような姿で、

語尾を伸ばすように、気の抜けた鳴き声を上げている。


――懐かしい。


かつて、子供たちが放課後に集まり、

夢中になって追いかけていた存在。


そんな画面を前に、

ハルは流れるような動作で、

おもむろにボタンへと指を伸ばした。


そのとき。


静まり返っていた路地の奥から、

にじむように、一本の音が滲み出す。


ギターの音だ。


そして、それに重なるように――

透き通った歌声が、そっと流れ込んできた。


幼さを残した、澄んだ声。

霧を切り裂くでもなく、押しつけるでもなく、

夜の静けさに溶け込むように、旋律だけが広がっていく。


誰かが――

すぐ近くで、爪弾きながら、歌っている。


二人は、ほぼ同時にその音に気づいた。


互いに目線を交わし、

言葉を交わすことなく、小さく頷く。


音は、確かにそこから聞こえている。

階段の奥――誰かがいる。


そう確信した二人は、足音を殺しながら、

恐る恐る階段の下まで近づいていった。


そして、見つける。


階段の二、三段目に腰を下ろし、

ヘッドフォンを首にかけたまま、ギターを抱えた一人の少女。


霧の向こうから、月の光がわずかに滲み、

その淡い白が、少女の輪郭を静かに浮かび上がらせていた。


近づいてきた二人の気配に気づき、

少女は、ゆっくりと顔を上げる。


視線が合った。


少しだけ首を傾け、

少女は、静かな声で問いかけた。


「何してるの? こんなところで」


思いもよらぬ問いかけに、二人の少年は一瞬、言葉を失った。


「えっ……」


間の抜けた声が、ほぼ同時に漏れる。


だが、すぐにソラが我に返り、言い返す。


「いや、こっちのセリフだよ!」


その勢いに、少女はわずかに目を見開いた。

ほんの一瞬だけ驚いたような表情を浮かべ――それから、ふっと肩の力を抜く。


「私ね、この静かな夜の空気の中で、ギターを奏でるのが好きなの」


そう言って、膝の上のギターに視線を落とす。


「だから、いつもこうして弾いてる」


あまりにも自然で、悪びれもしない口調。

その答えに、二人は言葉を詰まらせた。


――どう返せばいい?

そんな空気が、路地に落ちる。


すると少女は、気まずさを気にする様子もなく、続けて問いかけた。


「あなた達、名前は?」


その一言に、ソラははっとして背筋を伸ばす。


「俺はソラで……」


名乗りながら、隣に視線を向け、続きを促す。


それを受け、ハルも自分の番だと理解したように、小さく頷いた。


「僕は、ハル」


二人が名を告げ終えると、

少女は「そう」と短く頷き、納得したように微笑む。


そして、ごく自然に――


「私は、シオリ」


そう名乗った。


少しの沈黙のあと、

少女はぱっと表情を明るくした。


「ね! うち寄っていってよ!」


そう言って、ギターを抱えたまま立ち上がる。


あまりにも唐突な提案に、

二人の少年は反応が遅れた。


「……えっ」


思わず、声が漏れる。


立ち上がった少女の淡い水色の髪が、

夜風に揺れていた。


長く伸びた髪は、月光の加減でほのかに色を変え、

そのまま背中へと流れている。

大きな瞳は澄んだ青で、

向けられるたびに、どこか無邪気な輝きを宿していた。


「いいでしょ? 暇そうだし!」


そう言いながら、少女は階段の上を指さす。


「私の家、すぐ上だから」


状況を飲み込めないまま、

二人は互いに顔を見合わせた。


やがてソラが、意を決したように少女へ向き直り、

少し声を落として言う。


「でも俺たち……女の子の家とか、上がったことなくて……」


その言葉に、少女――シオリは振り返る。


一瞬きょとんとしたあと、

少女は、にこっと屈託のない笑顔を浮かべた。


そして、迷いも躊躇もない明るい声で言った。


「じゃあ、私の家が初めてだね」

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