第4話 ゴミ捨て場の草と灰で「神の奇跡」を捏造したら、愚民たちが財布を投げつけてきた

スラムの広場は、腐敗と汚物の臭いが充満している。  そこは、明日の食事すら保証されない貧民たちが、ただ時間を浪費するためだけに集まる吹き溜まりだ。


 彼らは皆、死んだような目をしている。  希望などない。あるのは、富める者への妬みと、自分たちの不幸を嘆く諦めだけ。


(最高の客層だ)


 私は、広場の隅に設置した即席の「祭壇」の裏で、口元を歪めた。  祭壇といっても、廃材を組み合わせて布を被せただけの粗末なものだ。だが、演出次第でこれは黄金の玉座に変わる。


「おいルシアン、本当にこんなので金が集まるのかよ?」


 元騎士のガルフが、不安げに囁いてくる。  彼は私の指示で、ボロボロだが洗濯された清潔な服を着ている。強面の大男が神妙な顔をしているのは滑稽だ。


「心配するな、ガルフ。人間というのは、パンよりも『物語』に金を払う生き物なんだ」 「物語だぁ?」 「ああ。特に『自分たちの不幸には理由がある』という物語にはな」


 私は手元にある「小道具」を確認した。  ガラスの瓶に入った、紫色の液体。  別の小瓶に入った、酸っぱい匂いのする液体。  そして、灰を溶かした水。


 準備は整った。  私は、横に控えるアリアを見た。  彼女もまた、私が調達した白い布を巻き付け、スラムの塵一つないように磨き上げられている。  その銀髪と紫の瞳は、この薄汚いスラムにおいて、異質すぎるほどの輝きを放っていた。


「アリア。手順は覚えているな?」 「……うん。ルシアンが合図したら、祈る真似をする。……それだけ?」 「それだけだ。言葉はいらない。ただ、お前はこの世の全ての悲しみを背負ったような顔で立っていればいい」


 アリアが小さく頷く。  私の「最高傑作」が、舞台へと歩み出した。


          


「――さあ、寄ってらっしゃい! 迷える子羊ども!」


 ガルフの怒鳴り声(本人は呼び込みのつもりらしい)が、広場の空気を震わせた。  何事かと、虚ろな目をした貧民たちが集まってくる。


 彼らの視線は、すぐに祭壇の中央に立つ少女――アリアに釘付けになった。  泥の中の宝石。  圧倒的な「美」は、それだけで暴力的なまでの説得力を持つ。


 ざわめきが広がる中、私は祭壇の前に進み出た。  子供の姿だが、胸を張り、堂々とした態度で民衆を見渡す。


「お集まりの皆さま。……辛いでしょう?」


 私は静かに、しかしよく通る声で語りかけた。


「毎日働いても暮らしは楽にならない。病気になれば薬も買えない。なぜ、自分たちだけがこんな目に遭うのか。……そう思ったことはありませんか?」


 民衆が顔を見合わせる。  当然だ。全員が思っていることだ。


「それは、貴方たちが悪いのではありません」


 私は断言した。


「貴方たちの魂に、目に見えない『けがれ』が溜まっているからなのです!」


 「穢れ」。  実体のない、便利な言葉だ。  私は祭壇の上のガラス瓶を高く掲げた。中には、毒々しいほどに濃い、紫色の液体が入っている。


「見なさい。これが、魂の本来の色です」


 もちろん嘘だ。  これは、スラムの裏に生えていた雑草――紫色の葉を持つキャベツの一種――を煮出しただけの、ただの煮汁だ。  だが、この世界に化学教育はない。この毒々しい紫色は、十分に神秘的に見える。


「ですが、日々の苦しみや、他人からの悪意を受けることで、この魂は汚染されていきます。……試しに、ここにある『嘆きの水』を入れてみましょう」


 私は、もう一つの小瓶を手に取った。  中身は、腐りかけの果実から絞った汁(酢酸)だ。


 私は、民衆が見守る中で、紫色の液体に、果実の汁を数滴垂らした。  そして、軽く瓶を振る。


 ――その瞬間。  劇的な変化が起きた。


 紫色の液体が、一瞬にして鮮血のような赤色に変色したのだ。


「う、うわぁっ!?」 「血だ! 血の色になったぞ!」


 最前列の老婆が悲鳴を上げ、後ずさる。  民衆の間に動揺が走る。


(ククッ……いい反応だ。高校の化学室ならあくびが出る実験だが、ここでは『魔法』に匹敵する)


 これは《酸塩基指示薬(pHインジケーター)》の原理だ。  紫キャベツなどに含まれる色素「アントシアニン」は、液性が中性のときは紫色だが、酸性になると赤色に変化する性質を持つ。  たったそれだけの、単純な化学反応。  だが、文脈コンテキストを与えれば、意味は変わる。


「見なさい! これが貴方たちの魂の状態です! 赤く、ただれた、苦しみの色だ!」


 私は畳み掛ける。  恐怖を煽る。不安を掻き立てる。  人は、得体の知れない不安よりも、目に見える恐怖の方に反応する。


「このままでは、貴方たちに救いはありません。貧困も、病も、全てはこの赤い穢れが引き寄せているのです!」 「そ、そんな……」 「どうすればいいんだ坊主! いや、司祭様!」


 客が食いついた。  恐怖で思考力が低下した人間は、すがれるものなら何にでも飛びつく。


 私は一呼吸置き、静かにアリアの方を振り返った。


「ですが、安心なさい。ここにいる聖女アリア様の祈りだけが、その穢れを浄化できる」


 アリアが、伏し目がちに両手を組んだ。  ただそれだけの動作が、絵画のように美しい。  彼女が唇を動かし、音のない祈りを捧げる。


 そのタイミングに合わせて、私は最後の小瓶を手に取った。  中身は、焚き火の灰を水に溶かして上澄みを取ったもの――つまり、強いアルカリ性を示す「灰汁あく」だ。


「聖女様の祈りを、この水に宿さん……!」


 私は叫び、赤い液体の中に、灰汁を一気に注ぎ込んだ。


 ――奇跡トリックの第二幕だ。


 血のような赤色は、瞬く間に消え去った。  そして次の瞬間、液体は透き通るような鮮やかな青緑色へと変化した。


 アントシアニンは、アルカリ性と反応すると青や緑に変色する。  赤(酸性)から、中和を超えて、青(アルカリ性)へ。  その色の変化は、まさに「浄化」のイメージそのものだ。


 広場が、静まり返った。  誰もが目を見開き、口を半開きにして、瓶の中の青い水を見つめている。  血の赤が、聖なる青へ。  目の前で起きた「現実」を、脳が処理しきれていないのだ。


(さて……ここが勝負どころだ)


 彼らは驚いているが、まだ「財布を開く」までには至っていない。  貧しい彼らにとって、なけなしの銅貨は命そのもの。そう簡単には手放さない。  「すごい見世物だった」で終わらせないためには、最後の一押しが必要だ。


 私は目配せをした。  舞台の袖に控えていたガルフが、大袈裟に足を引きずりながら飛び出してきた。


「おおおぉっ!?」


 ガルフは野太い声を上げ、自分の左足をバンバンと叩いた。


「痛みが……消えた!? 古傷の痛みが消えたぞ!?」


 大根役者だ。見ていられないほど白々しい。  だが、この場の空気の中では、その「白々しさ」すらも興奮の材料になる。


「俺はずっと足が痛くて眠れなかったんだ! でも、あの青い光を見た瞬間、スーッと痛みが引いていきやがった! すげぇ……これは本物の聖女様だ!!」


 ガルフは懐から、数枚の銅貨を取り出し、祭壇に叩きつけた。


「俺の全財産だ! 受け取ってくれ! こんな奇跡に会えるなんて、安いもんだぜ!」


 ジャラリ、と硬貨の音が響く。  その音が、凍りついていた民衆の心理的ブレーキを破壊した。


 これは心理学でいう《バンドワゴン効果(Bandwagon Effect)》だ。  人間は、他者の行動を判断基準にする。「みんながやっているなら正しい」「乗り遅れたくない」という群集心理。  特に、誰かが最初にリスクを取って行動し、その結果「利益(ここでは治癒)」を得たのを見た瞬間、傍観者は我先にと列に並び始める。


 一人の男が叫んだ。 「お、俺もだ! 最近、背中が痛くて……!」  チャリン。銅貨が投げられる。


 それが引き金だった。


「私の子供の熱も治してください!」 「俺の不運を祓ってくれ!」 「聖女様! こっちを見てくれ!」


 小銭の雨が降り注いだ。  先ほどまで「明日の食い扶持がない」と嘆いていた連中が、狂ったように金を投げ入れてくる。  赤から青へ変わった水。  ただそれだけの現象に、彼らは勝手に「万能の治癒」や「幸運」という幻想を重ね、対価を支払っているのだ。


 アリアは驚き、少し怯えたように私を見ている。  私は彼女に、小さく頷いて見せた。「そのまま、慈悲深い顔で立っていろ」と。


 足元に積み上がっていく薄汚い銅貨の山。  それは、ただの金属ではない。  この世界を支配するための「力」であり、愚か者たちから搾り取った「税金」だ。


(……笑いが止まらんな)


 私は表情を引き締め、聖職者の顔を崩さないように必死に耐えた。


 宗教とは、究極のビジネスモデルだ。  原価はタダ同然の雑草と灰。  商品は「救い」という名の幻想。  在庫リスクもなく、言葉巧みに演出するだけで、利益率は無限大に跳ね上がる。


「さあ、祈りなさい! 信じる者は救われます!」


 私の声に、民衆がひれ伏す。  その光景を見下ろしながら、私は確信した。


 いける。  この調子なら、スラムを掌握するのに一ヶ月もかからない。  そしてその先には――この腐った王国そのものが、私の「顧客」として待っている。


 祭壇の裏で、ガルフが私にウインクを送ってきた。  私は心の中で、最高の相棒たちに拍手を送った。

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