第2話 泥だらけの少女を洗ったら、傾国の美少女が出てきたので「聖女」に採用しました

「――グルルッ……!」


 私が一歩足を踏み出すと、少女は喉の奥から獣のような唸り声を上げた。


 ゴミ捨て場の隅。腐敗した野菜と壊れた木箱の隙間で、彼女は身を固くしている。  全身泥まみれ。髪はボサボサで色は判別できず、着ているのは麻袋に穴を開けただけの粗末なボロ布だ。


 人間というよりは、手負いの野良犬に近い。  普通の人間なら、このきたならしさに眉をひそめ、憐れみを向けるか、あるいは石を投げて追い払うだろう。


 だが、私は違う。  私の目は、彼女の「現状ビフォア」ではなく、「将来性アフター」を見ている。


(警戒心レベル、マックスか。……いい反応だ)


 簡単に人を信じるような馬鹿は、教団の幹部には向かない。  虐げられ、裏切られ、世界を呪っている人間ほど、一度懐に入れた時の《依存度》は深くなる。


 私は、ボロ切れのポケットを探った。  中から出てきたのは、先ほどスラムの裏道で拾った(正確には、死にかけた浮浪者の懐から拝借した)パンの欠片だ。  カビが生えかけ、石のように硬くなっている。  この世界の基準でも、もはや「ゴミ」に分類される代物だ。


 だが、今の彼女にとっては、これが黄金に見えるはずだ。


「……食うか?」


 私は短く問いかけ、パンを放り投げた。  放物線を描いて、少女の目の前にカツンと落ちる。


 少女の視線がパンに釘付けになった。  喉がゴクリと鳴る音が、この距離まで聞こえてくる。  しかし、彼女はすぐには飛びつかなかった。罠を疑っているのだ。


(賢い。だが、本能には勝てない)


 数秒の葛藤の後、飢餓感が理性を凌駕した。  彼女は痩せこけた手でパンを鷲掴みにし、泥がついているのも構わずに口へ運んだ。  ガリガリと硬い音を立てて、必死に咀嚼する。


 私はそれを見下ろしながら、冷ややかな計算ソロバンを弾く。


 これは「施し」ではない。  《投資》だ。


 心理学には、《返報性の原理(Reciprocity)》という言葉がある。


 人間は、他人から何かを受け取ると、無意識のうちに「お返しをしなければならない」という強烈な心理的圧力を感じる生き物だ。  スーパーマーケットの試食コーナーで、ウィンナーを一本食べただけで、買う予定のなかった商品を買ってしまった経験はないだろうか?  あれこそが、この原理の力だ。


 受け取った恩の大きさは関係ない。  重要なのは、「相手に貸しを作られた」という事実(負債感)を脳に刻み込むこと。  特に、彼女のように社会から切り捨てられ、誰からも優しさを受け取ってこなかった人間にとって、このパン屑一つの価値は計り知れない。


(食え。食って、その小さな胃袋と心臓に、私への『負債』を刻み込め)


 パンは、彼女の魂を縛り付ける鎖となる。  彼女がパンを飲み込んだ瞬間、主従関係の第一歩イニシアチブは私のものとなった。


 私は、近くの水瓶(雨水が溜まってボウフラが湧いている)に、手持ちの布を浸した。  そして、まだパンを必死に頬張っている少女との距離を一気に詰める。


「ひっ……!?」


 少女がビクリと震えた。  逃げようとするが、口の中のパンが惜しくて動きが鈍る。  その隙を見逃す私ではない。


「動くな。汚すぎる」


 私は有無を言わせぬ力で彼女の細い顎を掴み、濡れた布を顔に押し当てた。  ゴシゴシと乱暴に泥を拭う。  まるで、骨董品屋が埃をかぶった壺を検品するように。


「……ぅ、うぅ……」


 少女は抵抗しようとするが、パンをくれた相手に対する《返報性の原理》がブレーキとなり、強く拒絶できない。  予想通りだ。  さあ、見せてみろ。お前の本当の価値スペックを。


 泥が落ち、本来の皮膚が露わになる。  その瞬間。


 薄暗い路地裏が、一瞬だけ明るくなったような錯覚を覚えた。


(――ッ!?)


 私は思わず、布を持つ手を止めた。  そこにあったのは、もはや芸術と呼べる造形だった。


 泥の下から現れたのは、雪のように白い肌。  ボサボサの髪も、汚れを落とせば月光を織り込んだような美しい銀髪だった。  そして何より、私を見上げるその瞳。  深淵のような、それでいて吸い込まれるほどに透き通った、アメジスト(紫水晶)の瞳。


 美しい。  いや、そんな陳腐な言葉では足りない。


 儚げで、今にも壊れそうで、だからこそ男たちの「庇護欲」と「加虐心」を同時に煽る、魔性の美貌。  もし彼女が綺麗なドレスを着て微笑めば、国中の男が全財産を投げ出すだろう。


 私の背筋に、ゾクゾクとした震えが走った。  性欲ではない。  金脈を掘り当てた山師の興奮だ。


(勝った……! これは、核兵器級の素材だ!)


 宗教において、最も重要なのは「教義」ではない。  「アイコン(偶像)」だ。  大衆は、難しい理論など理解しない。彼らが求めているのは、分かりやすく、美しく、自分たちを救ってくれそうな「象徴」なのだ。


 薄汚いスラムの孤児が、実は女神のような美少女だった。  このギャップ。この悲劇性。  完璧なストーリーだ。  彼女を磨き上げ、神の言葉を代弁させれば、王族ですらひれ伏す最強の「聖女」が完成する。


 私は、震える指先で彼女の頬に触れた。  少女は怯え、涙を溜めた瞳で私を見つめている。


「……名前は?」 「…………」 「ないのか? それとも言いたくないのか?」


 少女は答えない。  ただ、小動物のように震えている。  彼女は今、混乱しているはずだ。  なぜこの少年は、自分に食料を与え、顔を拭き、そしてギラギラとした目で見つめてくるのか。  逃げるべきか、従うべきか。


 その迷いを、私が断ち切ってやる。  もちろん、私の都合の良い方向に。


 私は彼女の瞳を覗き込み、低く、威厳を持って告げた。


「いいか、よく聞け」


 ここで私が使うのは、《ダブルバインド(二重拘束)》というコミュニケーション技術だ。


 相手に二つの選択肢を提示する。  一見、相手に選ばせているように見えるが、実はどちらを選んでも「仕掛け人の目的」が達成されるように設定された、論理の罠。


 例えば、勉強しない子供に対して「勉強しなさい!」と怒るのは三流だ。  一流はこう言う。  『算数の宿題を先にやる? それとも国語からやる?』  子供は「国語からやる」と答える。  「勉強をしない」という選択肢は最初から排除され、自ら「勉強する」ことを選ばされた子供は、やらされている感覚が薄くなる。


 私は、その極大化バージョンを彼女に突きつける。


「お前には二つの道がある。選ぶのはお前だ」


 私は右手を路地裏の暗闇へ、左手を自分の方へと向けた。


「一つ。このままこのドブ川の中で、ゴミのように野垂れ死ぬか」


 少女の肩が跳ねた。  「死」という直感的な恐怖。


「もう一つ。……俺の手を取って、お前を見捨てたこのクソったれな世界を見返してやるか」


 私は左手を、ゆっくりと彼女の前に差し出した。


「俺についてくれば、パンも、温かいベッドも、そしてお前を蔑んだ連中への復讐も、全て約束してやる」


 さあ、選べ。  「死」か、「服従」か。


 実質的に、選択肢などない。  だが、ここで重要なのは、私が命令して連れて行くのではなく、「彼女自身が、私の手を取ることを選んだ」という事実を作ることだ。  「自分で選んだ道」である限り、人間は過酷な運命にも耐えようとする。  その責任感コミットメントを利用するのだ。


 少女の視線が、私の手と、暗闇を行き来する。  呼吸が荒くなる。  パンの恩義(返報性)。  死への恐怖。  そして、現状を打破したいという渇望。


 全ての心理条件が整った。


「……あ……」


 少女が、掠れた声を漏らした。  そして、泥だらけの小さな手が、恐る恐る伸びてくる。  私の手に触れた。  氷のように冷たい手だ。


 だが、その手は確かに、私の指を強く握りしめた。


「……い、きる……」 「賢明な判断だ」


 私は、口の端を吊り上げて笑った。  その笑顔は、聖人のように優しく、そして悪魔のように邪悪だっただろう。


 契約は成立した。  これで彼女は、共犯者であり、私の所有物だ。


 私は彼女の手を引き、立たせた。  驚くほど軽い。風が吹けば飛びそうなほどだ。  だが、その瞳に宿った光は、先ほどまでの「死んだ目」とは違う。  私への依存と、微かな希望の光が灯っていた。


「行くぞ。まずはその身体を洗い流すところからだ。……商品に傷がついたら大変だからな」 「……?」


 最後の言葉の意味は分からなかったようで、少女は首を傾げた。  無垢だ。あまりに無垢で、染め上げ甲斐がある。


 私は、銀髪の原石を連れて歩き出した。  目指すは、スラムの奥にある廃屋――我々の最初の「聖堂アジト」だ。


 こうして、国を崩壊させる最強の「聖女」プロデュース計画は、静かに、しかし確実に動き出した。

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