プロローグ

 段ボールの山に囲まれたワンルームで、桜庭小華は両手を広げてくるりと回った。


「やっば〜! マジで一人暮らし始まっちゃったんだけど〜!」


 明るい茶髪のロングがふわりと揺れ、派手なネイルが春の光を反射する。

 今日からここが、小華の新しい生活の拠点だ。


 誰にも口出しされない。

 誰にも邪魔されない。

 完全に“自分だけの空間”。


「最高〜! 自由ってこういうこと〜!」


 段ボールを開けるたびに、胸が弾む。

 メイクポーチ、コテ、アクセサリー、香水。

 どれも“小華としての自分”を作る大切なアイテムだ。


 床に広げたカーペットの上に座り込み、

「どこに置こっかな〜」

と独り言を言いながら、コスメを並べていく。


 鏡台はまだない。

 でも、段ボールを積んで即席の台にして、そこに手鏡を置けば十分だった。


「ん〜、やっぱ鏡台欲しい〜。あと全身鏡も〜」


 小華はスマホを取り出し、通販アプリを開く。

 お気に入りに入れていた家具を眺めながら、にやにやが止まらない。


「白のやつ可愛い〜。でもピンクもいいな〜。どうしよ〜」


 悩む時間すら楽しい。


 窓を開けると、春の風がふわりと吹き込んだ。

 カーテンが揺れ、まだ何もない部屋に新しい匂いが広がる。


「はぁ〜……マジで楽しみ。家具も買わなきゃだし、ベッドも欲しいし〜」


 スマホを取り出し、ギャル友達のグループに写真を送る。


『引っ越し完了〜! 今日から一人暮らしデビュー♡』


 すぐに返信が返ってきた。


『ハナ、マジでやったじゃん!』

『遊び行くから部屋片付けとけよ〜』

『てかパーティしよパーティ!』


「来て来て〜! てか片付け終わってないけど〜!」


 笑いながらスマホを置き、小華は窓の外を覗こうとして――

 ちょうどその瞬間、風でカーテンが大きく揺れた。


「うわっ、ちょ、カーテン飛んでく〜!」


 小華は慌ててカーテンを押さえ、窓から視線を外す。

 そのわずかな間に、アパートの前の道を一人の男子が通り過ぎていった。




 そのアパートの前の道を、コンビニ袋を両手に抱えた男子が歩いている。

 黒髪で、少し猫背で、どこか控えめな雰囲気。


 この話の主人公こと相沢直人である。

 彼は袋を持ち替えながら、ため息をついた。


「……なんで俺が行くんだよ。姉ちゃん、自分で行けばいいのに……」


 どうやらコンビニのパシリに出されているらしい。


 直人は袋を揺らしながら歩き続ける。

 アパートの二階の窓が開いていることにも、そこに新しい住人がいることにも気づかない。


 ただ、姉の追加注文が来ないことを祈りながら、家へ向かうだけだ。





「ふぅ……カーテン落ち着いた〜」


 小華は窓を閉め、軽くスキップしながら部屋の中央に戻った。


「よーし、家具買いに行こっかな〜。鏡も欲しいし、ラグも欲しいし〜!」


 未来の予定を考えるだけで、胸が弾む。

 ギャルとしての自分を思い切り楽しむための部屋。

 誰にも邪魔されない、自分だけの生活。


 小華は段ボールを開け、服を取り出してクローゼットにかけ始めた。

 ミニスカ、パーカー、カーディガン、厚底サンダル。

 どれもお気に入りだ。


「ん〜、クローゼット狭い〜。でも可愛いからいっか〜」


 服を並べながら、ふと鏡のない部屋を見渡す。


「やっぱ鏡台買お〜。てか今日買いに行こ〜」


 小華はバッグを手に取り、玄関へ向かった。

 鍵を閉め、階段を降りる。


 その頃、直人はというと――


「ただいまー……って、うわ、やっぱり追加あるのかよ!」


 相沢家のリビングで、姉・真由が腕を組んで待ち構えていた。


「直人、アイス買ってきてって言ったよね? なんで買ってないの」


「いや、そんなの言ってなかっただろ!」


「言った。心の中で」


「知らねぇよ!」


 そんなやり取りが、相沢家の日常だった。

 騒がしくて、適当で、でもどこか温かい。


「ほら、行ってきなさい。ついでに雑誌も買ってきて」


「……俺、今日三回目なんだけど」


「弟はパシられてこそ弟なの」


「そんな理論あるかよ……」


 直人は再びコンビニ袋を持って家を出た。

 その背中は、どこにでもいる“普通の男子高校生”そのものだった。




 小華は駅前の家具屋に向かって歩いていた。

 春の陽気に誘われて、気分は上々。


「鏡台どれにしよ〜。白もピンクも可愛いし〜」


 スマホで家具の写真を見ながら、にやにやが止まらない。


 そのすぐ近くの道を、直人がコンビニ袋を揺らしながら歩いていた。


「……雑誌ってどれだよ……姉ちゃんの好み分かんねぇ……」


 小華は直人に気づかない。

 直人も小華に気づかない。


 ほんの数メートルの距離を、二人はすれ違う。


 でも、互いの存在はまだ知らない。


 ただ同じ街で、同じ時間に、すれ違っただけ。


 けれど――

 このすれ違いの先で、二人の物語が始まることになる。

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