第2話

 高校3年の、ついでに言えば特にモテない男にとって、異性の同居人なんて空想の産物に過ぎない。だから母から『従姉妹がルームシェアを提案してきた』と聞いた時、琢磨は大いに戸惑った。その子が可愛い顔をしていれば尚更だった。


 友達の反応はきっぱり2つに分かれた。『羨ましい』と『大変だな』。男所帯で育ったものと、そうでないもの。後者の感情を理解できたのは同居が始まった後だった。


 とかく、天地 三咲あまち みさきは理解不能だった。些細なことで怒るし、忘れたような昔を引き合いに出すし、自他の感情を過剰に重んじる。それがありがたい時もあったけど、9割方は困惑していた。


 憧れはあっという間に慣れへと変わり、気苦労だけが残った。当然期待したような展開が起きることもなかった。大学2年になってもお互い浮いた話もなく、課題をこなすだけの日々――


 そんな日々を引き裂いたのは、3日前の深夜に響いた凄まじい悲鳴だった。


「……三咲?」


 琢磨は寝ぼけ眼をこすって起き上がる。またゴキブリでも出たのか、とうんざりと思った。だけど2度、3度と尋常でない声で呼ばれるのを聞けば、眠気も内側から吹き飛ぶ。


「三咲!? おい、どうした!?」


 三咲の部屋のドアは開かなかった。琢磨はドアノブをガチャガチャ鳴らしながら呼びかけた。


「琢磨!? 助けて、早く!」


 なかば金切り声じみた叫び声だった。琢磨は怒鳴った。


「開かないんだよ!」


「壊して!」


「無茶言うな!」


 切羽詰まった言葉が余計に焦りを掻き立てた。ドアを蹴り飛ばし、殴り、叫ぶ。手の皮が剥けてようやく正気づく頃には、悲鳴はもう聞こえなくなっていた。


「……三咲? おい?」


 しん、と静まり返った室内。自分の呼吸音が酷くうるさく聞こえる。急かされるように思考は加速する。何が起きた? 強盗か何かか? 火でもついた? でも、窓の割れる音も何も……窓?


「……!」


 呼吸も整えぬままにベランダに飛び出す。いくら言っても直らない不注意が、今なお直っていないことを心の底から祈りながら。乱暴に窓に手をかけ、思い切り開く。鍵は……掛かっていない!


「三咲! ……?」


 琢磨は当惑した。部屋の中は普段とまるで変わらなかったからだ。掛け布団が膨らんでいるのは見たことがなかったが、裏を返せばその程度のものだ。


 後ろ手に窓を締め、ベッドへおそるおそる近づく。心臓はまだ高鳴っている。あの叫び声がまだ鼓膜に染み込んで離れなかったから。そして、その予感は正しかった。


「たく……ま」


 弱々しいうめき声。飛びつくように覗き込む。そこには三咲がいる。見たことがないほどに弱々しい表情を浮かべて。その奥に何かが蠢いている。しゅるしゅると音を立て、這うように動き回るそれは――


「……蛇?」


 間の抜けた声が出た。無数の蛇が三咲の膝から下に纏わりついている。あまりにも荒唐無稽な現実に思考が追いついてこなかった。しゅるしゅると、何百も重なり合った不快な音が、本能的に彼の足を遠ざけた。


「……たす……け、て……」


「……!」


 消え入りそうな声が琢磨を現実に引き戻した。蛇の群れは三咲の膝から上を、腰を、腹を覆い、今や胸元までもを覆い尽くしていた。


 琢磨は三咲の手を掴んだ。アドレナリンが恐怖を吹き飛ばし、凄まじい力が湧いていた。だが、ピクリとも動かせない。どれだけ力を込めても、むしろ。


(引っ張られている?)


 そう認識した途端、興奮は一瞬で掻き消える。代わりに戻ってきたのは恐怖だった。思考は高速で回転し、瞳孔が大きく開いた。鈍化した時間感覚の中、状況を冷静に俯瞰していた。


 蛇に覆われた箇所は見えない。その認識がまず誤りだった。三咲の胸から下はもうない。蛇に取って変わられている。蛇は三咲をどこかへ引きずり込もうとしている。手を握りしめた俺もろともに、信じ難いほどの力で――


「待て」


 上ずった声。それが己の喉から出ていると、琢磨は遅れて認識した。かかとが宙に浮いた。三咲の腕までもが蛇に覆われた。そのうち一匹が琢磨の指先に触れた。それは氷のように冷たくぬるりとしていた。


 掴む力が抜けた。


 途端に姿勢が崩れ、ベッドフレームに顎をしたたかに打ち付けた。視界が白く吹き飛び、一瞬意識が消えた。……戻った時には全てなくなっていた。蛇も。三咲も。主を失った布団だけが、なぜか膨らみを保ち続けていた。


「みさ、き?」


 呆けた声。きょろきょろと部屋を見渡す。異常は何も無かった。震える手にはまだ、三咲の体温が残っていた。



 悪夢が訪れたのは、それからのことだった。



 同居人が蛇によって消えた。そんなことを警察に通報できるはずもない。翌朝、琢磨は顔を青ざめさせ、フラつく足取りで大学に向かった。自身がいまだ日常の延長線上にいると確認したかった。


 だが、そんな彼を迎えたのは、さして話したこともない三咲の友人の言葉だった。


「どしたの? 顔色真っ青だよ。……三咲もすごい心配そうにしてるじゃない」


 琢磨は即座に彼女の胸ぐらをつかみ、悪い冗談はやめろと問い糾した。そんな彼に突き刺さったのは、取り押さえるための誰かの拳の痛みと、その場の誰もが三咲の存在を見とめている事実だった。


 現実を認めず駆けずり回っても、結果は何一つ変わらなかった。誰もが三咲を見ている。三咲は三咲らしい行動をしている。なのに自分だけが、姿を認識することすらもできない。


 疲れ切って家に帰り、膨らみっぱなしの布団を見た時、例えようのない感情が琢磨を襲った。魘されるようになったのは、それからのことだった。


 三咲が消えてからの3日間、ただの1度もまともに寝つけてはいない。気絶じみた眠りが、かろうじて彼の正気を支えていた――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る