危険児との収録
「ON AIR」を告げる鮮烈な赤が点灯する。
それは、非日常へと切り替わる合図。スタジオを支配していた静寂が、一瞬で熱を帯びた空気へと変貌する。
「はーい! 始まりました、小川雪のゆきふわラジオ! パーソナリティの小川雪でーす!」
マイクの前で、小川さんの声が弾ける。
さっきまで僕の隣でふざけていた人間とは、まるで別人だった。
滑らかな滑舌、完璧な緩急。耳に心地よい音の粒が、計算し尽くされたプロの技で編み上げられていく。作為を感じさせないほどに自然な語り。
これこそが、小川雪という表現者の真髄だった。
「今週もたくさんのお便りいただきましたー! ありがとうございます!」
僕はミキサー室で、台本を追いながら進行を確認していた。
隣には矢島さん。腕を組んで、真剣な表情でモニターを見つめている。
「……いい感じだな」
矢島さんが、小声で呟いた。
「そうですね」
小川さんのトークは、台本通りに進んでいた。
いや、台本以上だ。僕が書いた骨格に、彼女が肉付けをしている。言葉の選び方、間の取り方、笑いのタイミング。すべてが絶妙だった。
「じゃあ早速、お便り読んでいきましょー!」
お便りコーナーが始まる。
僕が選んだお便りを、小川さんが読み上げていく。
一通目。リスナーからの恋愛相談。
小川さんは真剣に聞いて、でも重くなりすぎないように、ユーモアを交えながら答えていた。
「恋って難しいよねー。私もわかる。好きな人に振り向いてもらえないの、つらいよね」
彼女がそう口にした瞬間、防音ガラスを透過して、その視線が僕を射抜いた。
ほんのコンマ数秒の出来事。
だが、心臓を直接撫でられたような錯覚に襲われ、僕は逃げるように台本へと視線を落とした。
僕は視線を逸らして、台本に目を落とした。
「でもね、諦めないで。想いって、伝え続けていれば、いつか届くと思うんだ」
それはリスナーへの言葉だ。そうに決まっている。
でも、彼女の声には、どこか別の意味が込められている気がした。
二通目、三通目と進んでいく。
小川さんのトークは安定していた。笑いを取るところでは取り、真面目に語るところでは語る。緩急の付け方が上手い。
「さてさて、ここでちょっとフリートークでも」
台本にないアドリブ。でも、想定内だ。
彼女のフリートークは、この番組の人気コーナーの一つ。僕は時間を計りながら、進行を見守った。
「最近さー、新しいカフェ見つけたんだよね」
彼女が嬉しそうに語り始める。
表参道にできたパンケーキの店らしい。ふわふわで美味しかったとか、店員さんが優しかったとか、そういう他愛もない話。
彼女が語るだけで、目の前に焼き立てのパンケーキが湯気を立てているような錯覚に陥る。
言葉に色を乗せ、聞き手の想像力を強制的に起動させる。
それが彼女という声優の、恐るべき資質なのだ。
「誰かと一緒に行きたいなーって思ってるんだけど、なかなかね」
また、ガラス越しに目が合った。
挑むような眼差しに、今度は一歩も引かなかった。
ここで目を逸らしてしまえば、彼女の無邪気な攻勢に屈したような気がしたから――。
小川さんは小さく笑って、話を続けた。
「まあ、いつか行ける日が来るといいなーって思ってます」
フリートークが終わり、次のコーナーへ。
僕は時間を確認した。予定通り。彼女のアドリブも、きちんと尺に収まっている。
さすがだ、と思う。
収録は順調に進んでいった。
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