仕事の朝
開始まで、あと30分。
スタジオには、本番前特有の張り詰めた静寂が満ちていた。僕は、この身が引き締まるような空気が嫌いじゃない。
第三スタジオ。小川雪のラジオ「ゆきふわラジオ」の収録場所。
ここで構成作家として働いてもう一年半。
デスクに座り、台本の最終確認をしていた。
今日の放送は第七十八回。お便りコーナー、フリートーク、そして新コーナーの告知。流れは頭に入っている。それでも確認は怠らない。
作家の仕事は、目立たない。
番組の骨格を作り、流れを設計し、演者が輝けるように舞台を整える。表に出ることはない。名前がクレジットされることも稀だ。
でも、この仕事が好きだった。
少なくとも、今の自分にはこれしかないと思っていた。
「佐藤くん、ここの流れなんだけどさ」
ディレクターの矢島さんが、台本を手に近づいてくる。
三十代半ば。この業界では若手の部類に入るが、実力は折り紙付きだ。小川さんのラジオを立ち上げたのも、この人だった。
「このコーナーの尺、ちょっと心配なんだよね」
矢島さんが指差したのは、中盤のお便りコーナー。
僕は頷いて、台本を受け取った。
「確かに、詰め込みすぎかもしれません」
「だろ? 小川のフリートークが伸びる可能性もあるし」
「お便りを一通削りましょうか。似た内容のものがあるので」
「ああ、頼む。あと、予備のネタも用意しといてくれ」
「わかりました」
矢島さんは「頼むわ」と言い残して、ミキサー室へと戻っていった。
僕は台本に赤ペンを入れながら、頭の中で構成を組み直す。
お便りを削るなら、どれを残すか。流れを考えると、三通目と五通目が被っている。五通目を削って、代わりに予備のネタを仕込んでおく。それがベストだろう。
そんなことを考えていると、スタジオの扉が開く音がした。
「おっはよー!」
耳をくすぐる、明るく甘い響き。 振り返るまでもない。
小川雪。
このラジオのパーソナリティ。そして、今最も勢いのある声優の一人。
「佐藤くん、今日も早いねー」
彼女は僕のデスクの横に立ち、ひょいと顔を覗き込んでくる。
今日の服装は白いブラウスにベージュのカーディガン。髪は軽く巻いている。テレビに出るわけでもないのに、彼女はいつも身だしなみを整えている。
「台本チェック?」
「はい。少し修正が入りそうなので」
「ふーん。見せて見せて」
小川さんは僕の隣に座り、台本を覗き込んできた。
近い。肩が触れそうな距離。微かに漂う香水の匂いが、仕事モードの思考を乱しにかかる。 僕は努めて冷静に、修正箇所を説明した。
「ここのお便り、削ろうと思ってます」
「あー、これね。確かに三通目と似てるかも」
「そうなんです。流れ的にも、ここで削った方が自然かと」
「うんうん、佐藤くんに任せる」
小川さんはあっさりと頷いた。
彼女は構成に関しては、基本的に僕を信頼してくれている。それが嬉しくもあり、重くもある。
「ねえねえ、そういえばさ」
小川さんが、急に話題を変えた。
「今日の収録終わったら、ご飯行かない?」
「……仕事ですか?」
「ううん、普通に。二人で」
また始まったか。この前も、断ったばっかりなのに。
彼女の目が、まっすぐ僕を見ている。
この目だ。彼女がこういう目をするとき、断るのが難しくなる。
「すみません、今日はちょっと」
「えー、なんでー」
「大学のレポートが溜まってて」
「嘘だー。佐藤くん、レポートなんかいつもギリギリじゃん」
バレている。
「……別の用事があるんです」
「何の用事?」
「プライベートです」
「教えてよー」
小川さんが、袖を引っ張ってくる。
子供みたいな仕草。二十五歳とは思えない。
「小川さん、収録前ですよ」
「だから何?」
「準備してください」
「もうしてきたもん」
確かに、彼女はいつも完璧に準備をしてくる。
台本は頭に入っているし、喉のコンディションも万全。プロとして、そこは徹底している。だからこそ、こうやって僕に構う余裕があるのだろう。
「……今日は本当に無理です」
「じゃあ、明日は?」
「明日も」
「明後日」
「無理です」
「来週」
「予定を確認しないと」
「じゃあ確認して」
押しが強い。
彼女はいつもこうだ。一度言い出したら、なかなか引かない。
いつも強引でワガママすぎる。ほんと面倒なんだよ。
「……考えておきます」
「やったー!」
小川さんが、嬉しそうに笑う。
その笑顔が眩しくて、僕は視線を逸らした。
「じゃ、私、準備してくるね。また後で」
彼女は軽い足取りで、控室へと向かっていった。
僕は一人残されて、小さくため息をついた。
小川雪。
天才声優。努力家。業界の寵児。
そして、なぜか僕に執着する、厄介な人。
彼女の好意には、とっくに気づいている。
けれど、僕は鈍感な男を演じ続ける。そうしていれば、いつか彼女も諦めてくれるだろうと高を括っていた。
でも、一年半。彼女は諦める気配がない。
それどころか、最近はエスカレートしている気さえする。
どうしたものか。
僕は頭を抱えながら、台本の修正に戻った。
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