9話「料理と仮面の理由」

春休みが明け、熊本の空は澄み渡る青に包まれていた。


放課後のキッチンは、じゅうじゅうと油の音と香ばしい匂いに満ちていた。

「白狼、これでいい?」

月猫がフライパンを揺らす。切れ長の瞳は、学校での冷徹な光を失い、どこかおどおどと揺れている。


「……火強すぎ。焦げるぞ」

「えっ、あ、ほんとだ」


慌てて火加減を弱める彼女。

その仕草は、昨日までの“孤高の転校生”の姿とはまるで別人だ。


「なに笑ってるの」

「いや……ギャップありすぎて」

「むぅ……」


月猫は頬をふくらませ、俺の袖をちょこんと掴む。

「味見係なら、できる」


「子どもか」

「……いいでしょ?」


フライパンの前で真剣に野菜を炒める彼女。肩越しに覗き込む姿は無防備で、普段の冷たい月猫を知る者には想像できない。

香りに誘われて微笑む彼女の顔に、思わず俺は笑みをこぼした。


「な、なに笑ってるの」

「いや……家での月猫」

「……もう」


その照れた表情に、俺の胸がざわつく。

やがて皿に並んだのはカレーとサラダのシンプルなメニュー。


「んっ……おいしい! 白狼、すごい!」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。だって、白狼と一緒に作ったから余計においしいんだもん」

食事中、月猫は時折、腕に体を寄せて甘えてくる。

学校で見せる冷たい視線が嘘のようで、俺はただ視線を逸らすしかなかった。

翌日、教室での月猫はやはり別人だった。


自己紹介の際の冷たい声。

男子がちょっかいを出すと「くだらない」と一刀両断。

女子に話しかけられても、必要最低限の言葉しか返さない。


「なあ、白狼」

クラスのムードメーカー、熊野大吾が肩を小突いてくる。

「昨日の家での月猫と比べて、マジで別人だろ? お前んちの猫かってくらい違う」

「犬飼ってねえし」

「いや比喩だよ。でもあれだな、家で笑ってた姿、誰も知らねーな」

――知っている。家では甘えて、拗ねて、俺の腕にすり寄る月猫を。


その夜、再びキッチン。


「……ねえ、白狼」

「なんだ?」

「私、もっと料理練習したい」

「へえ。理由は?」

「体育祭の日、白狼にお弁当作りたいから」


ほんのり赤い頬、少し照れた声。

その言葉に、俺の胸は強く跳ねた。


――家での甘えと学校での仮面。すべて、この日のためだったのか。

月猫は微笑み、菜箸を手に鍋から味をすくう。


「んっ……おいしい! すごい!」

「そんな大げさな」

「大げさじゃないよ。だって、白狼と一緒に作ったから余計においしいんだもん」

食卓に並べた料理をふたりで食べる。カレーとサラダというシンプルなメニューだったけれど、月猫は頬をほころばせながら何度も「おいしいね」と言ってくれた。


片付けも一緒にやりながら、月猫は終始ご機嫌だ。皿を拭くとき、わざと俺の手に触れてきたり、「泡だらけだよ」なんて笑ってきたりする。俺は「子どもっぽい」と言いながらも、心地よさを感じていた。


リビングに戻ると、彼女はソファに座り、ぽすっと俺の隣に体を預けてきた。

「なあ、なんで学校ではあんなにクールなんだ?」

「……だって、弱いところ見せたら嫌われるでしょ」


その横顔は、家で見せる素直な月猫そのものだ。


「……でも、白狼には甘えたいって思っちゃう」

「……そっか」


俺は言葉少なに頷いた。


そして、ふとした瞬間、月猫が小さくつぶやく。


「体育祭のお弁当、絶対上手に作るから……楽しみにしてて」


その声は、少しだけ恥ずかしそうで、でも真剣だった。

俺は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。


――学校では別人、家では甘えん坊。

――でもどちらも、月猫は月猫なのだ。


青空の下に浮かぶ白い雲を見上げながら、俺はそっと呟いた。


「……楽しみにしてるよ」


こうして、家での甘々な日常と、学校でのクールな仮面を繰り返す日々の中で、体育祭の準備とお弁当作りの伏線も静かに形を取り始めた。

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