7話 「身体測定は波乱の幕開け」

春の恒例行事――身体測定の日がやってきた。


体育館には白い机が整然と並べられ、生徒たちは列を作って待機している。例年通りの光景なのに、今年はいつもよりざわめきが大きかった。


「なあなあ、白狼」


後ろから肩を組んできたのは、クラスのムードメーカー熊野大吾だ。

背が高くてガタイもよく、声もやたらでかい。教室でも体育館でも、彼がいるだけで場が明るくなる。


「今日のメインイベント、何かわかるか?」

「……体重測定だろ」


「違ぇよ!」大吾は大げさに手を振る。「花咲さんだ、花咲さん!」

視線を向ければ、整列して視力検査を受けている月猫の姿。

黒髪が肩でさらりと揺れ、切れ長の瞳が前をまっすぐ見据えている。立っているだけで空気が引き締まるような雰囲気。白い制服のシャツが、すらりとした体型を際立たせていた。

「C……D……右、1.0。左、0.8」


淡々と答える月猫の声は妙に冷ややかで、聞いているだけで背筋が伸びそうになる。

「な? ただ数字を読んでるだけで会場がピリッとしてんだぞ! やべーよ、あの威圧感!」

「……知らん」

俺は視線を逸らした。


クラスの誰もが憧れる月猫。けれど俺にとっては――昨日、枕を抱えて部屋に来て「隣で一緒に寝てもいい?」なんて甘えてきた、義姉(予定)だ。

そのギャップに、まだ心が追いつけていない。

「おいおい、お前、もっと感謝しろよ。同じクラスに美人の転校生がいるんだぞ?」

「……お前がうるさい」

「ツンツンすんなって!」

大吾は肩を揺さぶって笑った。


測定が進み、ついに男子たちがざわつき始める時間――女子の胸囲測定。

体育館の片隅、仕切られたカーテンの奥で順番に測られていく。

男子たちはそわそわと落ち着かず、ひそひそ声が飛び交っていた。

「なあ、花咲さんって……やっぱ結構あるよな?」

「だよな、スタイルいいし……」

「やっべー、想像しただけで緊張する……!」

くだらない話で盛り上がる男子。


その瞬間、カーテンが揺れて、月猫が姿を現した。

「くだらない」

冷え切った声が、ざわめきを一瞬で凍らせる。

切れ長の瞳が鋭く光り、居合わせた男子全員が縮こまった。

「ひっ……」

「す、すみません……!」

誰もがうつむき、気まずい沈黙が流れる。

そんな中、俺は気づいた。

月猫の耳の先が、ほんのり赤くなっていることに。

普段のクールさを崩さぬまま、彼女は何事もなかったように歩き去っていく。


堂々とした背中――だけど、その赤みが本音を隠しきれていなかった。

――やっぱり、学校の月猫は別人みたいだ。


そう思った矢先、大吾がわざとらしく手を挙げた。

「はい、男子全滅~! 花咲さん、かっこよすぎて誰も逆らえませーん!」


爆笑が起こり、凍りついた空気が一気に和む。

月猫は振り返りもせず、淡々と去っていった。

俺はため息をつきながら思う。

クールで孤高な義姉。けれど俺だけが知っている。


家に帰れば、あの子は――。


スポーツテストは校庭で行われた。

快晴の空の下、クラスごとに列を作り、五十メートル走から順に種目をこなしていく。

「よし! まずは五十メートル走からだ!」体育教師が声を張り上げる。

「白狼! 俺と勝負な!」大吾が並んできた。

「……勝手にしろ」

スタートラインに立つ。

月猫はストップウォッチを持ち、タイムを測る係をしていた。

「位置について……よーい」

その短く鋭い声に、胸がどくりと跳ねる。

「ドン!」

地面を蹴り、全力で走り抜けた。

風を切る音が耳を裂く。

ゴールした瞬間、俺の息は荒れ、大吾は「くっそ、また負けた!」と悔しがっていた。

「お疲れ」俺が肩を叩くと、彼はにやりと笑って囁いた。

「おい、今、花咲さんちょっと笑ったぞ」


「は?」

「俺らが走ってんの見て、ほんの一瞬、口角上がってた! マジで貴重な目撃証言だからな!」


「……気のせいだろ」

否定したけど、胸の奥が熱くなる。

その小さな変化を見逃さない大吾に、感心するやら苛立つやら。

続く握力測定で、また事件が起きた。


「次、花咲」

月猫が計測器を握る。

ぐっと力を込めた瞬間、表示が跳ね上がった。

「……強いな」係の教師が思わず漏らす。

「えっ!? 今の女子でこの数値!?」


どよめく男子たち。

大吾が慌てて計測器を奪い取り、挑戦する。結果はかろうじて月猫より少し上。

「ギリ勝ったぁ! でもやべー! もう俺、花咲さんに守ってもらう側だわ!」

教室中に笑いが広がる。

月猫は眉ひとつ動かさず、低く呟いた。

「……好きにすれば」

冷たく突き放すその態度に、男子たちはまた背筋を伸ばす。

最後はシャトルラン。

笛の音に合わせて何度も往復し、次々と脱落していく。

俺は普段インキャだが、大吾に煽られたのもあって意地を張り、走り続けた。

「頑張れ白狼ー!」

大吾の声援が飛ぶ。


息が上がり、足がもつれて転びそうになった、その時。

「白狼、無理しないで」


腕を支えられた。

すぐそばに月猫がいて、心配そうに俺を見下ろしていた。

その声は小さく、他の誰にも聞こえない。

クールな仮面の奥に隠れた、優しい本心。

俺は必死に息を整えながら、心の中で呟いた。


――やっぱり、同じ人物なんだ。


家で甘えてくる義姉と、学校で誰も寄せつけないクールな美少女。

両方が花咲月猫なんだ。

視界の端で、大吾が「おおー、ヒーロー救出イベントだ!」と大声をあげていた。

笑い声が響く中、俺だけは真剣に彼女の横顔を見つめていた。

こうして、身体測定とスポーツテストは幕を閉じた。

月猫は最後までクールに振る舞い、誰にも心を開かなかった。

けれど俺は知っている。


――帰り道、家の玄関をくぐれば、あの子はきっと。

甘えん坊の義姉に戻るのだ。

青空の下に浮かぶ白い雲を見上げながら、俺は小さく息をついた。

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