第15話:桜の下の休息、響き合う心
フレアの工房から漏れ出す熱気と、鉄を打つ激しい残響を背に、アラタたちは一時、森の静寂の中へと身を置いた。神木の根元。そこには、先ほどまでの死闘や帝国の圧迫を忘れさせるほど、清浄で、どこか懐かしい空気が満ちていた。空を覆う桜の天蓋が、降り注ぐ陽光を幾重にも濾過し、地上には木漏れ日の粒子が穏やかな揺らぎを描いている。
「……ふう。外の空気は、やっぱり格別だね」
アラタは地面に腰を下ろし、大きく息を吐いた。先ほど、フレアと共に槌の「核」となる素材の波長を整えたばかりだ。集中力を使い果たした体に、雨上がりの土の匂いを含んだ湿り気のある風が心地よく染み渡る。それは、枯れ果てた荒野では決して味わえなかった、大地の力強い生命の香りだった。
「お待たせいたしました、皆さま。この森の雫を、どうぞ」
サクヤが、白磁の器を盆に乗せて現れた。彼女が歩くたび、その髪からこぼれる光が清らかな鈴の音のような波長となって周囲に伝播していく。彼女が淹れた『桜の茶』からは、花の甘い香りが湯気と共に立ち昇り、一口含めば、喉を通り抜ける瞬間に神々の囁きのような微かな震えが全身を駆け巡る。
「……はあぁ、生き返るわ。このお茶、なんだか体の中が洗われるみたい」
ミラが、器を両手で包み込みながら幸せそうに目を細めた。彼女はいつの間にか、猫族の本能に従ってアラタのすぐ隣に陣取っている。頬の赤らみは、お茶の熱のせいか、それともこの穏やかな時間のせいか。ミラは、アラタの肩に頭を預けようとして、ふと思い出したように顔を赤くして居住まいを正した。
「フン、ただの水分補給だろうに。……ゴクッ。……む、これは、悪くない。龍の角に眠る古い魔力が、妙に落ち着きを取り戻していくな」
ナギは、相変わらず不器用な手つきで器を持ち、背筋を伸ばして座っている。だが、その周囲を漂う透き通る水の色の魔力は、かつてないほど穏やかに澄み渡っていた。
「わはは!ナギの兄ちゃん、素直じゃないねえ!美味しいなら美味しいって、顔に出せばいいんだよ!」
フレアが、ナギの背中をバシバシと豪快に叩く。彼女の煤けた顔には、職人仕事をやり遂げた後のような、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「あたしもさ、こんなに綺麗な桜の下で茶を飲むなんて、何年ぶりかねえ。帝国の連中に見せてやりたいよ。鉄の塊を食うより、この一杯の方がずっと力が湧くってな!」
そんな賑やかな輪の中を、ワラシが蝶を追いかけるように無邪気に走り回っている。
「アラタ、アラタ!あそこに光る花びらが落ちておるぞ!幸運の種じゃ、わらわが拾ってきてやろう!」
ワラシがパチンと指を鳴らすと、ひらひらと舞い落ちていた花びらが、ありえない風の悪戯(いたずら)によって、次々とサクヤの茶器の中へと吸い込まれていった。
「あら、ワラシちゃん。素敵な贈り物をありがとう」
サクヤが穏やかに微笑む。その笑顔には、先ほどまでの衰弱の色は微塵もなかった。アラタの調律と、仲間たちの存在が、彼女に「明日を信じる力」を分け与えたのだ。
ふと、アラタは周囲の音に意識を向けた。これまでの旅では、常に規則的な歯車の回転や、金属が擦れる不快な音に怯え、冷酷な進軍の足音に耳を澄ませていた。だが、今ここで聞こえるのは、葉擦れの音と、仲間たちの笑い声。そして、神木の奥底から響いてくる、穏やかな歌のような鼓動だけだった。
(……ああ、そうだ。僕は、この音を守りたかったんだ)
アラタは、隣で幸せそうにお茶を啜るミラや、フレアに絡まれて困惑しているナギの姿を見つめた。ただのガラクタ修理屋だった自分。孤独に鉄の声を聴くだけだった日々。それが今、これほどまでに賑やかで、温かな「アンサンブル」の一部になっている。
「……アラタさま?」
サクヤが、アラタの視線に気づき、小首を傾げた。
「どうかなさったのですか?お茶が、冷めてしまいますよ」
「……ううん、なんでもない。ただ、すごく幸せだなって思って」
アラタの言葉に、ミラが耳をぴくりと動かして顔を上げた。
「……何よ、急に。……でも、そうね。私も……この旅に出なければ、こんなにお茶を美味しいなんて思わなかったかもしれないわ」
「……私もだ。……アラタ。貴殿の奏でる音は、不快ではないと言ったが……前言を撤回しよう。……貴殿の音は、心地よい。……そう、この森の風のように」
ナギが、珍しく真っ直ぐにアラタを見つめて言った。
繋いだ手の温もりこそないが、その場の全員の心が、見えない一本の「共鳴の糸」で結ばれたような気がした。それは、帝国の『虚無の穿孔塔』が放つ凍り付くような鋼鉄の冷たささえも溶かしてしまいそうな、熱く、柔らかな絆。
不意に、風が強く吹いた。神木が大きく揺れ、数千、数万の花びらが一斉に舞い散る。 それはまるで、天から降る木漏れ日の粒子。神々の囁きが、祝福の歌となって森を満たしていく。
「――さあ、休みは終わりだよ、アラタ!最高の気分になったところで、仕上げにかかろうじゃないか!」
フレアが立ち上がり、大きな槌を肩に担いだ。
「あたしたちの最高の一打で、あんな鉄クズの塔、跡形もなく消し飛ばしてやるんだからさ!」
「……ああ、行こう。……サクヤ、待ってて。……僕たちの歌を、君の森に永遠に響かせてみせる」
アラタが立ち上がると、ミラも、ナギも、ワラシも、それぞれの武器を、それぞれの想いを握りしめて後に続いた。桜の花びらが舞い踊る中、一行は再び、熱気渦巻く工房へと戻っていく。その背中には、もう迷いも、絶望もなかった。
雨上がりの土の匂いが、これからの反撃を告げる。『桜の聖域』での短い休息は、彼らに、世界を救うための「最強の共鳴」を約束したのだった。
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