第2話 鉄分を含んだ臭い

 その日は、夏の間が、完全に猛暑だったので、そろそろ10月だというのに、一向に、気温が下がらないという、

「うだるような暑さ」

 というものが、日中は、

「相変わらず」

 ということで、容赦なく照らしつけられていた。

「これ翻弄に涼しくなるのか?」

 というほど、秋や冬の訪れというのが、

「待ち遠しい」

 というよりも、

「本当にくるのか?」

 という疑念の方が大きいくらいで、

「これが当たり前なのではないか?」

 という思い込みがあっても、

「別に不思議はない」

 というほどであった。

 実際には、

「夏の暑さを絶対的なものとする」

 というものが、少しずつ減ってきているので、実際の気温よりも、比較的過ごしやすいと感じるのも、分かる気がする。

 というのは、

「夏の暑さを感じさせるもの」

 ということで、感じるのは、

「セミの声」

 ではないだろうか。

 もちろん、

「直射日光」

 であったり、

「湿度と気温のバランス」

 などが大きいだろうが、昔から、夏の暑さというと、

「セミの声」

 というのが当たり前のことであった。

 意味としては違うが

「静けさや岩にしみいるセミの声」

 という有名な句があるではないか?

 これは、

「岩にしみいるようなセミの声が静寂を誘う」

 というもので、

「静寂」

 というものを、

「無の境地として感じる」

 ということであるが、この、

「静けさ」

 というのは、逆に考えれば、

「暑苦しい中において、暑さをしのぐには、静かにしているのが一番いい」

 ということで、静けさを誘うセミの声と謳われているものは、少ない数で見ればということであり、これが大量に、

「耳をつんざく」

 というほどのものであれば、暑苦しさを通り越すといってもいいだろう。

 特に、最近の夏は。

「体温よりも高い暑さ」

 ということで、

「表にいれば、命が危険に晒される」

 というほどのものである。

 少しでも身体を動かせば、一気に熱中症というものに掛かってしまうということになるだろう。

 さすがに10月になれば、セミの声はほとんど聞こえなくなる。

 というのは、

「7月くらいに成虫になったセミは、8月終わりまでには、そのほとんどが死んでしまう」

 ということで、

「寿命の短さの代表」

 といわれているのが、セミだからである。

 だから、

「いくら暑さが残っていたとしても、セミの声が聞こえなくなっただけで、なんとなく、過ごしやすい」

 と感じることであろう。

 そもそも、セミの声というものは、暑さのせいか、

「なるべく意識したくない」

 と感じるのが、人間の本能というものではないだろうか?

 だから、セミの声が聞こえると、反射的に、身体にだるさが出てきて、暑さに対して、本能的に、

「身体を動かしてはいけない」

 と悟らせるためのものをいうことになる。

 意識してしまうと、必要以上に苦しみを感じることになることから、まるで、

「路傍の石」

 のように、

「意識しなければ、気になることはない」

 という、

「悟りの境地」

 といえる、本能というものが身についているのかも知れない。

 だから。

「セミの声が聞こえなくなっただけで、秋が近づいた」

 と昔の人は思っていただろうが、今はそうもいかない・

「セミの声を意識しているだけの余裕が、今の夏にはない」

 といってもいいだろう。

 だからなのか、

「日が暮れてくると、すっかり秋めいてきた」

 と感じられるようになってきた。

 確かに、日中は、まだ昭和の時代の真夏といわれるくらいの気温ではあるが、なんといっても、

「真夏のあの対応を超すような猛暑」

 というのを潜り抜けてきたのだから、さすがに、10月にもなると、

「同じ暑さでも、種類が違う」

 ということになる。

 その一例として、

「セミの声の有無」

 というのがあるのであろう。

 そして、日が暮れてから、夜に入って、

「日付が変わるか?」

 といわれるような深夜であれば、今度は、

「秋の虫」

 の声が聞こえてくるということだ。

 風が吹いていれば、かなり、すがすがしいともいえる気候ということで、

「涼しさというのにも慣れてきたかな?」

 という気持ちにさせてくると。

「何かを考える余裕などない」

 というほど厳しかった夏という季節にくらべ、

「いくらでも、何でもできるという気持ちにさせてくれるのが秋だ」

 ということだ。

 秋というのはいろいろ言われている。

「読書の秋」

「食欲の秋」

「スポーツの秋」

 というものだ。

 そもそも、最後のスポーツの秋という言葉は、

「東京オリンピック開催が、秋だった」

 ということから定着してきた言葉であり、

「国民の休日」

 である、

「体育の日」

 と同じ意味あいだ。

 しかし、今の時代は、

「休日が毎年決まっていない」

 といわれる休日が増え、体育の日も例外ではなく、元々は

「10月10日」

 ということであった。

 それは元々、東京オリンピックの開催日が、その日だったということから制定されたもので、その意味からいけば、

「日付を変えてはいけない」

 というはずなのに、政府の都合で、変えてしまったのだ。

「政府の都合」

 というのは言い過ぎかも知れないが。経済を回すということのために、

「月曜日に休日を増やすことで、国民に金を使わせよう」

 というたくらみなのだから、

「政府の都合」

 といっても、あながち間違いというわけでもないだろう。

 ちなみに、今はオリンピックというと、昔のように、

「秋に開会式」

 ということはしなくなった。

 時代がこれだけ、

「地球沸騰化」

 ということで、本来であれば秋に戻すべきものを戻さないというのは、

「オリンピック協会」

 と、

「某超大国」

 による都合があるからだ。

 というのは、

「オリンピック協会」

 における収入源というのは、

「放映権」

 というのが大きいという。

 特に世界の超大国がその放映に対して莫大な金を協会に落としているということになれば、その、

「某超大国」

 の都合で、変わってくるということで、

「その国に人気スポーツのファイナルが秋に目白押し」

 ということで、その国が、

「オリンピックの放映権を買わない」

 ということになると

「オリンピック協会」

 というものが、

「暴利を貪れない」

 ということから、

「どうすればいいか」

 ということで、

「オリンピックの開催を夏にするしかない」

 ということになるのであった。

 本来であれば、

「そんなことのために、表にいるだけで、ぶっ倒れそうな時に、オリンピックなどというと、それこそ、

「選手だけではなく、観客も命が危険に晒される」

 ということになる。

 そうなると、観客は減ってくるのかも知れないが、そもそもプラチナチケット。

「今までは買えなかったという人が買えるようになった」

 というだけで、

「満席に変わりはない」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「日本にしても、世界にしても、結局は、強いものに巻かれる」

 という形になるのである。

「本来の秋」

 というのは、

「精神的に余裕ができる」

 ということで、

「食欲がわいてくる」

 というのも当たり前だ。

 しかも、

「穀物であったり、果実などの収穫時期」

 ということもあって、

「秋の味覚」

 といわれるものがたくさんあるということであろう。

 夏というと、どうしても、

「スタミナ継続」

 ということで、スタミナが出るということで、食べやすいということを無視した状態で食べるものということであったり、

「そうめんや冷や麦」

 などの、

「あたかも、清涼目的」

 という食事のどちらかになる。

 そもそも、夏バテということで、食欲などもない。

 へたをすれば、

「何を食べてもおいしくない」

 あるいは、

「何を食べても味がしない」

 ということになると、

「別の病気」

 というのを疑ってみたくなるというものだ。

 そして、秋というと、

「読書の秋」

 である。

 これこそ、精神的にも、頭の中も、余裕が満ち溢れた状態ということで、行うのが、読書という感覚であろう。

「読書」

 というと、

「知識を得る」

 ということで昔から受け継がれてきたものであった。

 最近は、

「紙媒体がなくなってきた」

 ということで、嘆かわしいといえるだろうが、何よりも、

「読めば知識になり、人生を導いてくれる」

 ということから、

「ひねくれた考えを持つ人」

 であったり、

「成績が悪い人」

 からすれば、

「忌み嫌う」

 という感覚になるのかも知れない。

 だが、誰もが、

「図書館で本を読んでいる」

 ということであったり、

「昔の日本家屋の園側で読書にいそしむ」

 というのは、昔の、

「明治の文豪」

 というものを思わせるところが、高貴な気持ちにさせるのであろう。

 そんな秋めいてきた、ある日の深夜、

「そよ風が気持ちよく、住宅街に入ると、犬の遠吠えのようなものも聞こえる」

 という、

「普段と変わらない秋の一夜」

 ということであった。

 すでに最終バスもいってしまい。乗っていた人も足早に家路をついていたのであるが、ここに一人の青年が、

「余裕のある秋の一夜」

 というのを楽しむという、

「優雅な気持ちの中」

 心地よさそうな鼻歌でも歌いながら、歩いていた。

 その日は月がきれいだった。満月までにはまだまだであるが、夜を照らすには十分といえるくらいの威光を放っているかのようで、別に酒を飲んでいるわけではない、素面の状態であったが、

「ここ数年でも、ここまで気持ちのいい感覚はなかったな」

 と思っていた。

 こんな日は、

「鼻が利く」

 というのがいつものことであった。

 酒を飲んでいれば、鼻孔が通りやすくなるので、臭いに敏感ということであるが、この日は素面でも、それくらいの心地よさがあったということは、

「本当に、ここまでの心地よさは、実に久しぶりだ」

 という気持ちだった。

 だから、

「このまま足早に帰るのはもったいない」

 と考えたのだ。

「まわりに注意を払って、いろいろ見てみたい」

 という感覚でもなかった。

 どちらかというと、

「ただ、気持ちに余裕を持ちたい」

 ということで、

「気持ちに余裕が生まれると、自分で見たいと思う光景が勝手に向こうからやってくるのではないか?」

 と感じたからだった。

 しかし、その時感じた臭いは、

「一種異様なものだった」

 ということである、

 何やら鉄分を含んだものであり、さっきまで感じたことのなかったような、湿気が空気中から感じられた。

 その二つは、

「ほぼ同時に感じられた」

 といってもいい状態で、

「思わずその臭いの方にいざなわれた」

 ということであった。

「あの時、臭いなど感じなければ」

 と後になって後悔した。

 しかし、感じてしまったものは仕方がないというもので、

「その臭いのする方に歩んでいくと。一瞬立ち止まるような気がした」

 ということであり、それは、

「後ろから引っ張られる感覚だった」

 ということから、

「後ろに誰もいるはずもない状態で。実際に誰もいなかった」

 ということから、

「虫の知らせ」

 というのは、本当にあるということになるのではないだろうか?

 しかも、その臭いが

「香り高い」

 というものであればいいのだが、臭いを嗅いだ瞬間、

「これは、ロクなものではない」

 と直感したのだが、

「その感覚は間違っていない」

 といってもいいだろう。

 雨が降る時、その前兆を臭いで知るということがある。

「まるで、意思をかじったかのような臭い」

 ということで、実際に石をかじったという覚えはないのだが、想像の中で、

「石をかじればこんな味がして、臭いが残る気がする」

 と感じるのであった。

 理屈的には、

「砂交じりの蒸気が雲を作り、それが雨となって降ってくるというのが、アメというものだ」

 と考えれば、納得がいく。

 しかし、その臭いを毎回感じているわけではない。きっと、臭いと符合する何かを感じた時、

「そろそろ雨が降ってくるのではないか?」

 と感じさせるのだろう。

 その感覚だって、

「精神的な感覚」

 ということで、一定の機関、存続している精神状態との絡みによって、例えば梅雨時期のように、雨が頻繁に降る時は、

「毎回感じる」

 と思っているかも知れないが、

「雨の降らない時期」

 というのは、ただでさえ降る感覚が長いのだから、

「思い出すのが稀だ」

 と考えるのかも知れない。

 それを思えば、

「雨が降る時」

 と、

「この鉄分を含んだ臭い」

 というものの共通となるものは、

「空気中の湿気」

 ではないだろうか。

 湿気に関しては、鼻腔が感じるものではなく、

「肌が感じる」

 というものだ。

 だからこそ、

「湿気を感じる」

 というのは、肌に気持ち悪さを感じさせ、子供の頃の記憶として、よく海に行った時、潮風に湿気を感じて、気持ち悪さから、いつも、海に出かけた次の火には、熱を出して寝込んだという記憶しかなかった。

 子供の頃から、

「海は嫌い」

 ということで、その原因が、最初の頃は、

「塩辛い感覚だ」

 と思っていたが、成長するにしたがって、

「湿気が身体を鬱陶しく感じさせ、動けなくなるような効果をもたらす」

 と感じるようになった。

 だから、

「湿気というものは嫌いだ」

 と思うようになったのであった。

 臭いにつられて歩いていくと、そこには、廃工場のようなところがあった。

 正門のところはさび付いていて、建物も、風の吹き抜けのようになっていた。

 最初は、

「この錆が臭いの元なのはないだろうか?」

 と思ったが、それも少し違う。

「始めて臭いはずなのに、どこか懐かしさのようなものがある」

 という、まるで、

「デジャブ現象」

 というものを感じさせたが、

「懐かしい」

 といっても、以前から、

「また嗅ぎたい」

 と感じていたものではなかった。

 むしろ、

「二度と嫌だ」

 と思うことであり、

「デジャブ現象」

 というものを感じさせたのは、この、

「二度と嫌だ」

 という感覚を最初に感じさせたからではないだろうか?


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