祈りは無糖で

桃里 陽向

祈りは無糖で

 テーブルの上には、もう使われない皿が一枚だけ残っていた。

 彼女はそれを流しに運びながら、時計を見た。普段ならもう電気を消す時間だ。でも今夜は、彼がまだそこにいる。


「眠くないの?」


 問いかけは軽く、答えを期待していない調子だった。彼女はいつもそうだ。深く踏み込まない代わりに、黙って寄り添う。


彼は首を振った。

今日はいろいろあった。争いもあったし、誤解もあった。何かを得た気もするし、何かを失った気もする。ただ確かなのは、心が乾いているということだけだった。


「コーヒー、飲む?」

「砂糖は?」

「入れない方がいいでしょ」


彼女はそう言って、勝手に決める。奢ると言いながら、主導権はいつも彼女にある。それでも不思議と嫌じゃない。


彼女は“導く人”だった。

前に立ち、光を示し、正解の形を知っている人。少なくとも、周囲からはそう見えている。彼女自身もその役割を疑わないようにしてきた。


けれど、彼の前では違った。

彼を救おうとはしない。ただ、倒れない程度に世話を焼くだけ。立ち上がるかどうかは、彼自身に任せている。


「ねえ」


カップを差し出しながら、彼女は少しだけ声を落とした。


「私にも、見せてない顔があるの」


それ以上は言わない。告白でも懺悔でもない。ただの事実の提示だ。彼はそれを受け取る。捨てずに、抱えたまま。


彼女は完璧じゃない。

博愛的で、優しくて、時々無責任で、八方美人で、どこにでも期待してしまう。そのせいで、傷も多い。


それでも彼女は踊る。

反抗的で騒がしい世界の中で、彼の前では本気で。


「前を向いて」なんて言わない。

「大丈夫」も言わない。

ただ、祈る。


最小限の干渉と、最大限の祈り。

それが彼女なりの愛し方だった。


彼はカップを両手で包み、初めて少しだけ笑った。

無糖の苦さが、なぜか今夜はちょうどよかった

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祈りは無糖で 桃里 陽向 @ksesbauwbvffrs164ja

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ