第6話

「告白しようと思うんだよね」

 降り注ぐ日差しに照らされてチョコの頭に天使の輪っかが出来上がっていた。赤いハンカチの上に広げられたお弁当のおかずが急速に傷んでしまいそうなほど暑い屋上で突然突きつけられた言葉に、食べかけのサンドウィッチが詰まりそうになる。唾液を含んでやわらかくなったパンが舌の奥から動かない。チョコはそんな私にもちろん気づかず恥ずかしそうに口を曲げている。自分で言ったことに照れているのだ。

「いつ?」

「夏休み中に」

「憧れなんじゃなかったの?」

「うん、だから怖いよ。嫌われるんじゃないかって。今まで散々友達らしく振る舞ってきたのに、全部田中くんに接近するための方策みたいで、ずるいし、振られたら友達に戻れないかもしれないし」

 箸を持つチョコの手に目をやる。白くて先のとんがった手。中指に小さなささくれ。

「大丈夫だよ。付き合えるかどうかは別として、田中くんは優しいからチョコの気持ちも受け入れてくれると思う」

 心にもないことを言う。私はチョコに告白してほしくない。誰とも付き合ってほしくない。どうしてこんなこと考えるのかというと、もちろんチョコは特別だからだ。チョコは私の初めてのそして唯一の友達だから彼女のことを特別に感じるのだろうか。彼女が私のもとからいなくなったら自分の居場所が悪くなるから。チョコは私と友達でい続けてくれるだろうけれど、彼女は田中くんの話ばかりするようになって、それは私にとって退屈な話で、退屈は私が一番嫌うことで。たとえば私に他の友達がいれば。たとえば私にも目で追いかけ続けたくなるような素敵な男性がいれば。チョコと友達にならなければ。友達じゃなければ付き合えた?友達じゃなければ許された?

 友達なんてやめちゃえばいい。

 夏休み前の最後の出席日。授業が終わるチャイムが鳴ると、他のクラスメイトたちと同じようにチョコと私は机の間を縫って教室を出た。スクールバッグのショルダーを決意と共に握りしめると、ファスナーに閉じ込められた筆箱がカシャンと音を立てた。

 外の太陽はビルの合間に沈みかけていた。電車の席はぽつぽつ埋まっていたものの、帰宅ラッシュ前の車内アナウンスはどこか穏やかに聞こえた。

 入り口近くの席にふたりで並んで立つ。チョコの髪には光に当てられて輪が浮かんでいた。キラキラ流れるまつげ。色素の薄い瞳。ガタリ、と大きく電車が揺れた。その瞬間、銀の手すりに捕まっていたチョコの腕とゆらいだ私の肩が触れ、薄い夏のシャツが体温をやけにリアルに伝えてきた。

「つ、次で降りない?」

 自分の動揺を誤魔化すために提案し、降り立った駅は歩いて5分くらいのところに臨海公園に来た。アクセスが良く海が見える有名な公園だが、平日で猛暑ということもあって人はほとんどいなかった。すれ違ったのは柴犬を散歩する老人とベビーカーを引いた母親くらい。微かな波の音を聞いてチョコは高揚したのだろう、遠い向こうの水平線が見えると瞳をキラキラ輝かせて笑った。一方の私は身体を照りつける太陽と空気の薄い熱風が苦しくて上手く息が吸えなかった。手を傘のように額につけながら下を向いて歩き、日陰にベンチがあるのを見つけて座った。座っているところから向こうの海が見えた。

「暑いねー。珠子たまこ飲む物ある? 私はスポドリあるけど。なんか買ってこようか? この先に自販機があった気がする」

 無言の私に機転を効かせてチョコがそう言った。

「ううんいいよ、私もお茶あるし」

 スクールバッグのなかから温まったペットボトルの麦茶を取り出して膝の上に置いた。「そ」と言ってチョコもバッグからボトルを取り出し勢いよく傾ける。清涼飲料水がチョコの細い喉を通る音が聞こえる。

「私ね、好きな人がいるの」

「えー知らなかった。誰?」

「教えてあげようか」

 チョコの顔が近かった。距離のないところで見える彼女の顔はあどけなく、オレンジに色づいた果物みたいだった。腕を伸ばし、いつのまにかキスをしていた。チョコの唇は少しかさついてマシュマロみたいにやわらかかった。

「私のおじいちゃん、私がお風呂に入ってる間に脱衣所に来るんだよね。何か用があるなら後にしてって言うのに聞かないの。それに酔っ払うと私に向かって『いい女だな』って言ってくる。昔からなんだよね」

 唇を離した瞬間言い訳するみたいに喋り始めた私を、チョコが目を剥いて見つめていた。

「ごめんね。もう帰ろう」

 無理矢理チョコの手を乱暴に取り、スタスタ駅の方へ歩き出した。恥ずかしかった。無かったことにしたかった。だけどそれはできなかった。たった一度のキスが、私たちの関係を壊したのだ。

 夏休みが明けるとチョコの態度はぎこちなくなっていた。話しかければ天気や課題の話ができるけれど、相槌や笑い方はどこか不自然で、自分の周りに薄い透明な膜を張りながら私と向かい合っているみたいだった。秋からクラス全体が受験モードに入って、私は地元から遠い大学に受かるため自らチョコと距離を取った。勉強はチョコを忘れるのに丁度良かった。ペンを動かしている間は余計なことを考えないで済む。そうして秋が過ぎて冬を越え太陽が雪を溶かす頃、卒業式がやってきた。

 最後のホームルームを終えるとクラスメイトは皆それぞれの場所へ散っていった。お互いのアルバムにメッセージを書き合ったり部活の後輩のもとへ行ったり。私はアルバムを脇に挟みひとりのクラスメイトに近づいた。

 目が合うと、チョコは無言で微笑んだ。受験シーズンを越えて一気に大人っぽくなったらしい。教室にはまばらに人がいて、ふたりで話したかった私はチョコを廊下に誘い出した。

「受験どうだった?」

 誰もいない渡り廊下でチョコから訊いた。

「受かった。春から一人暮らし」

「へえ、良かったね。私は地元のとこだから離れちゃうね」

「田中くんは?」

「ずっと前にフラれましたー」

 チョコはダブルピースしながらふざけた調子でそう言った。失恋からはもう立ち直ったのか、それとも元気な姿を見せようとして無理をしているのか。私に気を遣ってこんな態度で接してくれているのかもしれない。私は罪悪感を絞り出すように頭を下げた。

「あのねチョコ、ずっと謝りたかったの。去年の夏、キスしたこと。私チョコのこと、ずっと好きだったの。友達だって言いながら自分の気持ち隠して、嘘をつきながら騙して、友達ってこと利用してチョコの近くにいて。いきなりあんなことされて気持ち悪かったでしょう? 後悔してるのに謝る勇気がなくて今まで逃げて。本当にごめん」

 一気に言ってしまうと耳の痛い沈黙が流れた。急速に失われた酸素を取り戻すべくすぅーっと息を吸い、顔を上げると

「どうでもいいよ、そんなこと」

 青空をカッターで切り裂くような声だった。


 ひとつのゆで卵が想起させる気分は湿り気を帯びていた。古い思い出は発酵して美味しくなるわけではなく、全体に毒が回りきって手の付けようがない。チョコの言葉は夏の青空を引っ掻いて主婦になった今でも傷跡は消えず残っている。油蝉の声がうるさい。腐ったゆで卵をゴミ箱に入れ、網戸にしていた窓を閉めた。

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私の可愛いチョコレート すずめ @suzume3333

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