シネマのように
辛口カレー社長
シネマのように
「大丈夫よ。私だって最初は上手くできなくて、毎日患者さんに文句言われてたんだから」
落ち込んでいる若い看護師に、優しく、そして気を遣いながら声をかける。点滴の針が上手く刺せなくて、患者さんに「下手くそ!」と言われたらしい。
私の言葉が聞こえているのかいないのか、新人看護師は完全に不貞腐れた顔で下を向いている。
「一生懸命やっていれば、きっと患者さんにも伝わるから。ほら! 笑顔笑顔!」
「はーい」
「はぁ。まったく……」
私の若い頃は、「患者さんに文句を言われたくないなら、とっとと上達しなさい!」と逆に叱られたものだ。今の若手は、何か言うと、決まってパワハラだの、SNSで晒すだのと騒ぎ立て、挙句に「辞めます」という脅し文句を口にする。こうして新人や若手に精神的なマウントを取られ続けることに、心底嫌気が差す。
気を取り直して仕事に戻る途中、診察室の前で「注射やだー!」と泣いている女の子が視界の隅に入った。両親の「大丈夫よ。痛くない痛くない!」となだめる顔は、困りながらも、どことなく嬉しそうだ。
こういう景色を見て、前よりは心が痛まなくなった。昔は、夫がいて、子供がいて、私にそういう人生はなかったのかと思い悩むことがそれなりにあったが、今は、子供の写真がプリントされた年賀状は二秒でゴミ箱へ放り込めるし、休日のショッピングモールで、親の隣をひょこひょこと歩く子供は、リードに繋がれて引っ張られているトイプードルと見分けがつかなくなった。
子供が産めない体と運命共同体になって三十八年。そうやって魂の一部を殺すことで、心の平穏を手に入れた。いや、もう心の一部も死んでいるのかもしれない。
廊下の向こうから、スーツ姿の男性が早歩きで向かってくる。製薬会社の営業マンだ。歳は二十代中盤といったところか。お互い、すれ違いざまに会釈する。数秒後に振り返り、その背中を見た。肩幅が広く、スーツがよく似合っている。
――ダメだ。
これだけは、いつまで経っても慣れない。どうしても、あの背中と重ねてしまう。自信に満ち溢れて、スーツのカタログから飛び出してきたような、彼の後ろ姿と。
◇◇◇
「松井さん松井さん!」
「はい? どうしました?」
「用事が済んだので、帰りまーす!」
「はぁ、お疲れ様です」
十年前、敏明も病院の中を颯爽と駆け回る、製薬会社の営業マンだった。わざわざ私の姿を探し、「あ、奇遇ですね」とか「病院内で迷っちゃって」などと見え透いた嘘をつく。正直、私の彼に対する印象は「少し変な人」だった。
ある日、彼はきょろきょろと周りを気にしながら私の前に現れた。
「あの? 何やってるんですか?」
「松井さん、ちょっと、こっち……」
彼は私の腕を引っ張り、廊下の隅に引っ張って行く。
「え? どうしたんですか?」
「今度、食事に行きませんか?」
「は?」
あまりにも突然のことで、思考が停止する。
「いやあの……食事って……」
「ダメ……ですか?」
彼はゆっくり私の腕を離し、がっくりと肩を落とす。その様子にいたたまれなくなった私は、ボールペンを持った。同時に彼はメモ帳を差し出す。営業マンとしては優秀なようだ。
「変な電話をかけてきたら、容赦なく着信拒否しますからね」
そう言いながら、携帯電話の番号とメールアドレスをメモ帳に書き殴る。彼はまっすぐ私の目を見て「連絡します。必ず」と言った。不覚にも、心拍数が上がっていた。
それから何度か一緒に食事に行き、いつの間にかそれがデートに変わった。でも、彼との関係が深まるにつれて、私の不安も募っていった。もし、彼が私との未来を思い描いているとしたら……。私が子供を産めないと知ったら、彼はがっかりするかもしれない。私から去ってしまうかもしれない。
――今度会ったら話そう。
そう自分に言い聞かせて、ついに一年が過ぎた。
ショッピングモールで買い物をした帰り、彼は突然、「子供、可愛いよなぁ」と呟いた。日曜日で家族連れが多かったせいだろう。
私は覚悟を決めた。
彼が一般的で、標準的な家庭に憧れているとしたら、私達は上手くいかない。今だったら、まだお互いに傷が浅くて済む。
「あのね、敏明。私、子供が産めない体なの。小さい頃に、病気で」
一切の前置きをしなかった。彼は無反応だった。どうやって私を傷付けずに別れを切り出そうか、それを考えているのだろう。
車は連続で赤信号につかまる。いつもは永遠に続けばいいと思う赤信号が、今だけはもどかしい。一秒でも早く自宅に着きたい。逃げ出したい……。
車が私のアパートに着いても、彼は何も言わない。
「じゃあね――」
「結婚しよう」
車のドアを開けようとした瞬間、彼はぽつりと言った。
「私がさっき言ったこと、聞いてた?」
「もちろん聞いてたよ」
「子供ができにくいんじゃなくて、できないの」
「まずは僕達の幸せだろ? 子供がいなくても、幸せな家庭はたくさんあるよ」
綺麗ごとのような気はするが、実は心のどこかで、そんな言葉を待っていた。
「本気?」
「僕はいつも本気だよ?」
「こんな……欠陥品の体でも?」
「そんな言い方するなよ」
私はたった一言「うん」と言った。これ以外の言葉は必要ないと思った。
――信じてみよう。私と、敏明の未来を。
彼の車を見送ったあと、急に気恥ずかしくなり、慌てて部屋に駆け込む。電気をつけずに、うつ伏せにベッドに倒れ込むと、体がふわふわと宙に浮いているような、変な感じがした。
――何をすればいいんだろう。
プロポーズされるなんて初めてで、しかもいきなりのタイミングで、何をどうしたらいいのか分からない。
ベッドから起き上がり、窓を開けると、五月の湿気を含んだ風と一緒に、電車の走る音が聞こえてきた。その音は、私を幸せへと導いてくれる福音のようで、「ああ、幸せってきっとこんな感じなのかな」と、暗い部屋の中でひとり、遠ざかる電車の音に聞き耳を立てていた。
◇◇◇
「緊張してる?」
「当たり前でしょう? 昨日、全然眠れなかったんだから……」
「大丈夫大丈夫。何も心配いらないよ」
これから夫になる人の実家に行くのに、緊張しないわけがない。それに、私の体のこともある。「大丈夫」と言う彼の言葉を疑うわけではないが、やっぱり不安で仕方ない。しかし、彼はそんな私の心配をよそに、鼻歌を歌いながらハンドルを握っている。
「着いたよ」
私は「ふぅー……」っと、大きく息を吐く。
彼が玄関のドアを開けると、母親が笑顔で出迎えた。
「まぁまぁ、いらっしゃい」
「初めまして。松井妙子と申します」
私も笑顔でお辞儀をした。ここまで来たら、もう緊張だ何だと言っている場合ではない。とにかく笑顔だ。笑顔を向けられて、悪い印象を持つ人間はいない。土壇場で、そんな楽観的な心の余裕が生まれたことに安堵して、顔を上げる。
そして、凍り付いた。
三秒前の母親の笑顔が、まるで見間違えだったんじゃないかと思うほどに感情を失っている。私はこのあとの展開を予想し、それが絶対に外れていないことを確信した。
「どうしたの? ほら入って」
彼の言葉で我に返り、重くなった足を必死に上げて中に入る。
「こちらは松井妙子さん。僕より二歳年上の
「ねぇ敏明、本当にいいの?」
「いいも何も、だからこうして、わざわざ二人で挨拶に来たんだよ?」
「今はいいのかもしれないけど、将来的にやっぱりほしくなるかもしれないじゃない? その……子供をね?」
そう言って母親は、ようやく私を見た。その目が、「あなた、どうしてここに来たの?」と語っている。二十八年の人生で、これほどまでに憎悪の視線を向けられたことはない。
「母さん、それは前にも言ったじゃない! もう決めたんだ! まずは僕達二人の幸せが優先だよ。それに、いきなりそんな話をするなんて、ちょっとデリカシーに欠けるんじゃない?」
彼が珍しく語気を荒げる。
「そりゃ今は二人のことだけ考えてればいいのかもしれないけど、子供の話は避けて通れないわよ? 会社の人に『子供は?』って聞かれたら、なんて言うの? まさか『妻は子供が産めない体だから、もう二度とその話はしないでくれ』なんて言うつもり?」
母親の言うことは正しい。私は自分の体と、敏明のことしか考えていなかった。私達が納得すれば、それで上手くいくものだと。しかし、結婚というものは、関わる人が増える。この先、その関わる人全てに自分の体のことを言わなければならないと思うと、地獄への入口に立たされているようで、全身が震えた。
「いや、それは……」
彼が言い淀んだ時点で、もうこの先に、私と彼が期待する展開はない。
「失礼します」
「ちょっと……妙子?」
私は立ち上がり、玄関から飛び出した。愛する人を不幸にしたくない。いや違う。これ以上、惨めな自分を突き付けられることに耐えられない。
後ろから私の名前を呼ぶ声が聞こえたが、構わず走った。
どうやってアパートに帰って来たのか、よく覚えていない。熱いシャワーを浴びて、ベッドに倒れ込む。
――明日になれば、全部元通り。
明日は早番だ。朝六時に起きて仕事に行けば、そこにはいつもの仕事がある。いつもの同僚達がいる。いつもと変わらない日常がある。全部なかったことにしよう。私はそう決めた。
それから私は、肉体も精神も酷使して働いた。自分の体を痛めつけることでしか、私は生きていることを実感できなかった。
子供が産めないから、何だと言うのだ。自分を惨めだと思うことも、欠陥品だと思うこともバカらしくなった。私は頭も体も、人の二倍、いや、三倍動く。その辺の奴よりも、むしろ優れている。
いつもそうして、倒れそうな自分の体を支え、鼓舞していた。
開き直ったんじゃない。気付いただけ。
そう、気付いただけ。
その気付きは、十年間私を支え続けた。
◇◇◇
外来患者用の処置室に行くと、鬼のような形相で、顔をあさっての方向に向けている男性がいた。飼い猫に左手を噛まれ、一晩中痛みに苦しんで、朝一番に病院に飛び込んできたらしい。医師が男性の左手に、血を抜くためのチューブを通す穴を、空けているところだった。動物に噛まれると、大抵こうなる。
男性は包帯でぐるぐる巻きになった左手に「ふー、ふー」と大げさに息を吹きかけながら、あまりにも予想外なことを口にした。
「しばらくピアノは弾けないな」
――ピアノ?
私は男の顔をまじまじと見た。私よりもちょっと年下だろうか。髪は短く、顔は舞台役者のようで、ハンサムと言えばハンサムだ。ただ、作業服姿で、筋骨がしっかりした体つきは、およそピアノを弾く人物像とはかけ離れているような気がする。
「ピアノ、弾くんですか?」
「まぁ、趣味で」
「へぇ……」
音楽にもピアノにも興味はないが、純粋な興味で、この男性がピアノを弾いている姿を見てみたいと思った。もちろん、そんな個人的なことを、ここで口にはできない。
「お大事に」
私の言葉に、男性は怪我をしている左手を上げて「どうも」と言った。本気で治す気があるのか疑問に思いつつ、カルテの「石崎」の名前を見て、処置室を出た。
「人は見かけによらない」、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
夜勤明け、近くのショッピングモールに行くと、どこからかピアノの音が聞こえてきた。私が大嫌いなストリートピアノというやつだ。
――ついにここに置かれたか。
うんざりする。ピアノなんて、学校の音楽室か、コンサートホールにでも収まっていればいい。夜勤明けなんて、ただでさえ頭がぼうっとしているのに、耳から無理やりピアノの音を捻じ込まれるのは苦痛だ。ピアノの音なんて、雑音以外の何ものでもない。インフォメーションセンターに行って、「ピアノがうるさい。撤去しろ」と苦情を言ってやろうかと、本気で考えた。
帰り際、一体どんな奴が弾いているのだろうと、チラッとピアノの方に目をやると、思わず足が止まった。あの作業服に見覚えがある。前に猫に噛まれて来院した、石崎だ。
――本当にピアノ弾く人だったんだ。
一瞬だけ感心したが、すぐに呆れた。左手には、しっかりと包帯が巻かれている。
石崎が演奏を終えると、周りの人達が拍手をした。上機嫌で拍手を浴びる石崎と目が合う。
「あ、どうもどうも」
「何やってるんですか? そんな手で」
「やっぱり包帯をしたままだと弾きづらいですねぇ。いつもはもっと上手く弾けるんですよ?」
「そういうことを言ってるんじゃありません」
私は石崎の左手の手首をそっと掴み、怪我の具合を目で確認した。まだ血を抜くためのチューブが通してある。どれほどピアノが好きで、どれほどの腕前かは知らないが、普通なら、手首や指を動かすだけでも痛いはずだ。
「痛み止めが効いてるんで、ちょっとだけ弾こうと思いまして。まぁ、リハビリってやつですよ」
「痛み止めの使い方が間違ってるし、リハビリの意味も違いますから……」
こういう勘違いした連中が多くて本当に困る。どいつもこいつも、病気や怪我は医者が当たり前に治してくれると思っている。自分で治す努力なんてしないくせに、治らないと、やれ「ヤブ医者」だの、やれ「医療ミス」だのと文句を言う。何もしなくていいから、とにかくおとなしくしてろと、声を大にして言いたい。
「なるべく左手は動かさないようにしてください。一生ピアノ弾けなくなっても知りませんよ?」
「すみません……」
まるで小学生みたいにシュンとなるものだから、さすがに言い過ぎたと思い、強引に話題を変える。
「ピアノ、お上手ですね、さっきの、なんて曲ですか?」
「ニューシネマパラダイス、愛のテーマ。エンニオ・モリコーネ」
聞きなれない単語がいくつも飛び出してきて、何ひとつ聞き取れなかった。音楽に疎い私が、音楽の話を振るべきではなかったと後悔する。
「ピアノは小さい頃から?」
「ええ。ショパンが弾きたくてピアノ教室に通ってたんですけど、ショパンどころかクラシック、一曲も弾けないんですよ。ゲーム音楽とか、映画音楽とか、みんな知ってる曲を弾いてる方が楽しくて」
ショパンがどこの誰かは知らないが、大人になってもピアノを続けていること、例え怪我をしていても弾いてしまうその心意気に、少しだけ尊敬の念を抱く。私は四歳くらいの時に、習いたいと言った覚えもないのにピアノ教室に通わされ、何ひとつ楽しくないままやめた。そんな私がこれ以上音楽やピアノの話をされても、うっとうしいだけなので、さっさと会話を終わらせることにした。
「とにかく、早く治したかったら、ピアノは我慢した方でいいですよ?」
「承知しました」
石崎はニッコリと笑い、右手の親指を立てた。私は心の中で首を傾げる。悪い人ではなさそうだが、どうにも調子が狂う。
帰って部屋に入った途端、急に「シネマパラダイス」という単語が頭に浮かんだ。石崎との会話で、唯一聞き取れた単語だ。パソコンの検索欄に「シネマパラダイス」と入力すると「ニューシネマパラダイス」という古い映画の情報がヒットした。
『ニューシネマパラダイス』
一九八八年のイタリア映画。監督はジュゼッペ・トルナトーレ。出演はフィリップ・ノワレ、ジャック・ペラン、サルヴァトーレ・カシオ。音楽は……エンニオ・モリコーネ。
そこまで読んで、自分には全く興味が持てないと分かった。ただ、楽曲は有名なようで、オーケストラやピアノ演奏の動画がたくさん出てきた。ほとんど反射的に、ピアノの動画を再生する。
三十秒もしないうちに、強烈な眠気が襲ってきた。やっぱり音楽もピアノも映画も、私の人生には無縁だ。パソコンの画面を閉じて、そのままベッドに倒れ込む。久々によく眠れそうだ。
◇◇◇
「妙子……」
十一月の、凍えた雨が降る日。病院の近くのメディカルセンターの売店の前で、後ろから声をかけられた。振り向かなくても、その声の主が誰なのか、すぐに分かった。私のことを「妙子」と呼ぶ人は、今も昔も一人しかいない。振り向くと、パジャマ姿の男性が立っていた。
「あ、僕のこと覚えてる?」
「覚えてるに決まってるでしょ?」
敏明は「そうかそうか」と、昔と変わらない笑顔で小さく頷いた。
「ここで働いてるの?」
「ううん。ここにはヘルプで入ってるだけ」
「そう。元気そうでよかったよ」
私は間違っても「元気?」なんて言わない。ここで出会うということが何を意味するのか。曲がりなりにも、長年医療現場で働いている私にはよく分かっている。
「悪いの?」
「ステージ4。もう、長くないだろうね」
彼はさらりと言う。痩せた体を見て、何となく想像がついた。不自然なほど穏やかな表情に、私は急に胸が締め付けられるような思いに駆られ、下を向く。
「妙子、結婚は?」
「してない」
「僕も。今は結婚しなくてよかったと思ってるよ。奥さんに苦労をかけなくて済みそうだし」
彼の「結婚しなくてよかった」という人の中に、私も含まれているのだろうか。彼に対して、急に「申し訳ない」という気持ちが込み上げてきた。もっときちんと別れておけば、と。いや、そもそもきちんとした別れなんて存在しない。別れたことと、今の彼の病気のこととは、一切関係がない。
あれから何人か付き合った人はいた。私の体のことを理解して、それでもいいと言ってくれる人もいたが、いつも私の方から別れを切り出した。十年前、敏明と別れてから、私の中で恋愛や結婚は不必要なものとして位置付けられてしまったんだと思う。それを恨んではいない。
「病室は?」
「502。来ない方がいいと思うよ? じゃあ」
彼は、唖然とする私の横をすり抜けた。
――もっと聞きたいこと、あるんじゃないの?
――もっと言いたいこと、あるんじゃないの?
そう心の中で彼に問いかけたまま、私はその場で立ち尽くした。普通に出会って、普通に別れた男女であれば、ここで話すこともあったかもしれない。でも、私達はそんな「普通」というものからはかけ離れていた。今さら彼と話すようなことは、何もない。
それからというもの、私はメディカルセンターに行くたびに、502号室のドアの近くまで行き、そのまま引き返すという行動を繰り返した。そこに彼がいる、その存在だけは感じていたかった。やっぱり、昔私が愛した人だから。
たまに、中から
年が明け、メディカルセンターに行くのが最後となった日、502号室の近くに行くと、ドアが開いていた。そっと中を覗き込むと、ベッド以外のものがすっかり片付けられ、まるで、今までここに誰もいなかった、何もなかったと言わんばかりに、あまりにも無機質な空間があるだけだった。
ベッドの真新しいシーツに手を置く。白く、冷たく、シワひとつないシーツが、私に、ここに来る理由がなくなった事実を突き付ける。
少しだけ開いた窓から外を見ると、重苦しい鉛色の空と、灰色の世界が広がっていた。
新人の頃、先輩に言われたことがある。患者さんは、自分はいずれ元の場所へ戻れると信じて、窓の外を見ている。でも、「もう戻れない」と悟ってしまったあとの絶望に満ちた横顔は、とても見ていられない、と。
敏明は、何を思ってこの窓から外を見ていたのだろう。あるいは、もう見ることすらしなかったのだろうか。今となっては、もう知る由もない。
帰宅した瞬間、急に涙が溢れてきた。彼がこの世からいなくなってしまった寂しさなのか、最期に何も声をかけてあげられなかった後悔なのか、理由が分からない。そのまましばらくの間、私は玄関でうずくまっていた。
数日後、仕事帰りにショッピングモールに寄り、何となくピアノの近くを通った。いつもは誰かしら弾いているのだが、今日に限って誰も弾いていない。ピアノに近付き、人差し指で鍵盤を触ると、思ったよりも冷たい鍵盤の感触が指先から伝わってきた。こんな、ほんの数センチの鍵盤の上を十本の指が走るなんて、ちょっと信じられない。
「弾いてみませんか?」
振り返ると、石崎が立っていた。作業服姿ではないので、一瞬誰か分からなかった。礼服だろうか。彼は上着の前裾まえすそを持ち、ひらりと広げた。
「友人が亡くなりましてね。葬式の帰りです」
お悔やみの言葉をかけるのも変な気がしたので、何も言わなかった。
彼は私の横に来て、鍵盤に右手の指を置いた。「ポロロン」と、ピアノが嬉しそうに鳴る。
「そいつね、ずっと前から入院してて。変な奴なんですよ。見舞いに行った時、『僕の人生、シネマみたいだろ?』って言うんです。映画じゃなくて、シネマですよ? イラッとするでしょ? 人をイラッとさせたまま、死んじゃいましたよ」
彼は、今度は左手の指を鍵盤に置いた。もうすっかり怪我は治っているようだった。
「弾いてください。ニューシネマパラダイス」
自然と口から出ていた。
「バッチリ治ったんで、いい感じに弾けると思います」
彼はそう言って上着を脱ぎ、私に差し出す。私がそれを受け取ると、彼はピアノ用の椅子に座り、ワイシャツの袖をまくった。右手と左手をグーパーグーパーして、ゆっくりと鍵盤に置く。
もうピアノの音は、私にとって雑音ではなくなっていた。何かを聞いて、何かを見て心が揺さぶられるような感情は、とっくの昔に捨ててしまったが、今、この瞬間に取り戻した気がする。
一人、二人と足を止め、やがて大勢がピアノを囲む。
そうだ。みんなこのピアノの音を聞け。聞いた人に何をもたらすかは分からないが、とにかく聞け。心の中で、そう叫ぶ。
演奏後、彼は拍手をしている人達には一切目もくれず、一直線に私の元へと歩いて来た。
「泣いてるんですか?」
「いけませんか?」
彼がハンカチを差し出し、それをひったくるように取り、後ろを向いて涙を拭く。
私は「洗って返します」と言って、ハンカチをポケットに入れた。自分の涙が沁み込んだハンカチを彼に渡したくなかった。私の涙に彼の指が触れるのが恥ずかしかった。
「ピアノ、弾いてみたいんですけど、やっぱり難しいですか?」
「そりゃ難しいですよ。でも、必ず弾けますよ。必ず、ね」
弾いてみたいと思った。弾けたら、今までとは違う、全く見たことのない景色が見えるかもしれない。今までとは違った自分に出会えるかもしれない。
「あ、何か食べに行きませんか?」
「……はい」
私は石崎と並んで歩いた。誰かと並んで歩くことの幸せを、今、感じている。
――帰ったら、あの映画を見てみよう。
きっとみんな、シネマのような人生を送っている。敏明も、石崎も、ここにいる、顔も名前も知らない大勢の人達も。
もちろん、私も。
だから、もう少し、私は私の人生ってやつに付き合ってやろうじゃないか。うっとうしさも、めんどくささも、困難も、全部ひっくるめて、束になってかかってくればいい。
もう、逃げも隠れも、しないから。
全部、受け止めるから。
(了)
シネマのように 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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