理想不純文学

小狸

掌編

「純文学っぽい文章だね」


 私が小説を書き、ウェブにアップし続けて早4年が経過しようとしている。それを知っている現実の友達は、唯一彼女一人しかいない。名前は、一般人なので流石に明かせないから、この際Mエムとしよう。Mは、私が小説投稿サイトにアカウントを開設し始めた時以前からの友人であり、全てではないにせよ、時々読んでくれているようだ。嬉しい限りである。


 そんなMから、以前、言われたのである。


 純文学っぽい、と。


 純文学――か。


 いや、別段、そう言われて傷ついたとか、「私の小説は純文学じゃない!」と怒号を飛ばしただとか、そういうことはないのである。むしろ、今年は純文学系の新人賞に挑戦してみたことも多かったので、そういう感想を頂戴できて嬉しかったくらいである。


 私自身、私の書く小説を分析してみたことがないので何とも言えない。以前どこかの私小説的記録と題して発表した小説には、「私は分類することが苦手」と記載したように思う。実際その通りである。純文学という分類があること、そしてその定義、辞書的な意味は理解しているけれど、いざそれを文壇に引っ張ってきて、「今からこの小説群を純文学とそうでないものに分けろ」とでも言われたら、私はきっと何もできなくなってしまうだろう。


 ただ。


 純、ではない、とは、薄々思っていた。


 不純文学である。


 純文学、ライトノベル、などの括りとはまた別の集合の話になってくるのだろうが、私は少なくとも自分が書く小説を虚構の、通俗娯楽小説として執筆している。エンターテイメントとしての文芸である。故に極力、自分の小説は人に楽しんでほしいし、楽しい話でなくとも、人の感情をどこかで揺さぶることができれば、それは御の字なのである。それを読み、誰かが何か、感想を抱いた。たとえコメントとして残してくださらなくとも、それだけで私は満たされてしまうのである。


 純文学とはかくあるべき、などという高尚な意識は、持ち合わせていないのだ。


 そもそもMの中の純文学の定義と、私の中の純文学の定義に齟齬がある可能性だって否定はできまい。大学時代からの友人だけれど、私は文学部国文学科で、Mは法学部法律学科であった。純文学である――と言われている文豪や現在の大御所の純文学作家小説と私の小説を比較して、そう言ったのかもしれない。まあ、過去の文豪も文豪で、なかなか破天荒な作品が多いのだが、有名どころだけつまみ出せば、今の時代では純文学にカテゴライズされるのかもしれない。


 ちなみにその時の私の返答は。


「そっか、ありがとう」


 であった。


 別に自分の小説が純文学だろうがライトノベルだろうが、私はどちらでも構わないのである。純文学だと思う人には純文学なのだろうし、ライトノベルだと思う人にはライトノベルに映るのだろう。そこに貴賤はない。


 どちらかというと、それはやはり読む側の視点なのではないか、と私は思っている。


 あまり突っ込み過ぎると、現代の文壇を批判することになりかねない。私は不純物なのである。どこで不用意な発言をするか、分かったものではない。この辺りにしておくとしよう。


 でも、まあ。


 純文学と言われて、悪い気はしなかったので、良いだろう。


 うん、それで良いのだ。


 そう思って、今日も私は、虚構をつくる。




(「理想不純文学」――了)

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