.3 いつも通りの日常
「……ジ」
誰かの声が聞こえる。
「セ……ジ」
意識がぼんやりとする。瞼がうっすらと開き、視界が光で埋もれる。眩しい。
「セージ!起きなさい!」
怒声と共に、意識が完全にクリアになる。寝起きの上手く力が入らない身体をゆっくりと起こす。まだ目がしばしばする。
「おはよう、お母さん」
「今日お父さんのお仕事手伝いに行くんでしょ?もうすぐご飯できるから、食べちゃいなさい」
そういうと母は自室から出ていき、再度朝食の準備に取り掛かった。
最近変な夢をよく見るな。いや、夢じゃなくて本当の事なんだろうな。
首元に手を当てるが傷は無い。あの夢の痛みを鮮烈に思い出して、無いはずの傷が痛む。
今ここに僕がいるという事は、転生の魔術は成功したという事になるのだろうか。
「セージ?ご飯できたわよ、早く来なさいー」
「今行くー」
母の呼びかけに答える。いつも通りの日常だ。魔王のいない世界の、いつも通りの日常――
甘い香りが漂う。今日の朝食は、ミルクをこねたパンと野菜スープか。
***
この肉体の名前はセージ。現在の年齢は五歳。父と母の間に生まれた一人息子。父は薪売りをし、母は野菜を育て生計を立てている。
思わず肉体なんて言っちゃったけど、僕は僕自身だ。むしろ、夢の記憶がどうかしてると思ってる。
…いや、嘘だ。正直僕は、名もなき魔術師の生まれ変わりなんだろうなと、最近思い始めている。
「セージ…どうしたの?」
「え?」
「いや、ご飯食べる手が止まってるから…美味しくなかった?」
考えるのに夢中になっていて、食べるのを忘れていた。
「いや、そんな事ない。美味しいよ」
「そう?なら良いんだけど…」
母が心配そうな目でこちらを見つめている。実は母が心配するのは、今に始まった事ではない。元々心配性なところはあったが、最近は特にそうだ。
「なんかセージ、最近元気ないって言うか、前はもっと…はしゃいでたじゃない?ご飯だって、こんなに綺麗に食べるようになって…」
目の前の均等に食べられている料理たちに目を落とす。そう、ほんの数日前までの僕は、こんなに綺麗に食べていたわけではない。夢を見始めた頃から、少しずつ変わっていったんだ。
「えーっと…前にお母さん、食べ物を粗末にするなっ言ってたよね?それでだよ」
「…そう」
釈然としていない母の様子を尻目に見つつ、急いで朝食を食べる。両親がいなかった影響かな。この歳頃の男の子の母に対する接し方がわからない。早く父のところに向かおう。
「ごちそうさま」
「あ、セージ。これ」
足早に支度していると、母がある物を手渡してくる。
「
「わかった」
五歳の子どもの手には少し大きく感じるその石は、魔石と呼ばれるエネルギー物質。魔王がいた時代に存在していなかった物の一つ。
カバンに魔石を入れ、支度を終える。
「行ってらっしゃい」
「いってきます」
手を振る母を背にし、父のところへ向かう。父は今頃、森で木を切っているはず。
ここら一帯の地域は、流通が不便と感じる程悪いわけでもなく、かつ自然に富んでいる場所だ。必要な物が出来たら、森を抜けた先の都市で買い物もできる。
もうすぐ父のところに着きそうだ。今日は昼過ぎまで木を切って、午後から売りに行く予定だった気が――
キャァーーーー!!!
「悲鳴!?」
恐怖が含まれた声が森全体に響き渡る。方角は父のいる方とは反対。だが近い。
カバンを放り捨て、悲鳴のあった方角へと駆ける。
――いや、―――
まだ聞き取りづらいが、声は近い。
――やめて――来ないで!
視界が完全に広がり声のある場所につくと、そこには座り込んだ女の子と、
「な、なんだアイツは…!」
全身を黒い体毛で覆われ、四足歩行でジリジリと女の子に迫る。横から見ただけでも、体長は三メートル弱はある。
「いや…」
女の子が声を漏らすと、怪物はその獣の顔を近づける。匂いを嗅いでいる様子だったが、今にも食われるかもしれない――
僕と同じくらいの女の子。今にも涙を溢しそうな程溜めた顔と目が合う。
――助けて!!
声は聞こえなかった。だが、ハッキリと聞こえた。自然と僕は落ちていた石を拾い、その怪物めがけて投げた。
「こっちだ化け物!」
石は命中し、怪物の視線が僕に向く。
「今のうちに逃げろ!」
女の子に呼びかけ、その間も怪物の注意をこちらに向けさせる。
「あ、あ、足が…」
ガクガクと震えたその足に、移動ができる余力は残っていそうになかった。
「くっ…!」
再度石を取り、今度は怪物の顔面目掛けて投げつける。
ブオオオオ!!!!
デカい鳴き声と共に怪物がよろけた。目に当たったようで、怪物を少し後退させた。
アイツの視界はまだ回復していない。今のうちに女の子を連れて――
女の子に駆け寄り、半ば女の子を引きずるような形で怪物から引き離す。
このまま逃げ切れるか?いや、子どもの足だ。そう遠くは行けない。だったら――彼女に顔を向けて伝える。
「僕が囮になって時間を稼ぐから、君は早く逃げて」
「で、でもそしたら君が」
「僕は大丈夫。足に力は入る?」
コクコクと頷く彼女をゆっくりと立たせる。
「ここをまっすぐ行けば大人に会えるはず。だから、大まかな情報を伝えて大人を呼んできてほしい」
さっきよりも激しく頷く彼女。溜まっていた涙がポロポロと流れた。
僕は服の袖丈で彼女の涙を拭き取り、なるべく明るい声で、安心感を持たせるよう伝える。
「大丈夫だよ。さぁ行って」
君も大丈夫だし、僕も大丈夫だ。彼女の顔が少しだけ、不安が取り除かれた顔つきへと変わったのを見て、僕も安心した。
彼女が指定した方角へと走っていく。その背中を見届ける間もなく、背後からの嫌な空気に背筋が凍る。
振り返ると、そいつはいた。
ブオオオオ!!!
威嚇のつもりかデカい巨大を立ち上がらせ、二足歩行へと変わり、手を大きく広げた。
想像以上のデカさに思わず圧倒される。僕が子どもの大きさとは言え、あまりにもデカすぎる。
ブオ!!
圧倒されていた次の瞬間、振りの速い前足の攻撃が僕目掛けて振り下ろされる。
「うわっ!」
反応が遅れ、よろける事しか出来なかった。
ドゴォォン!
デカい衝撃が襲った。だが、痛みは無かった。どうやら振りかざした前足が木へ直撃し、絡まっているようだった。
その隙に、さっき女の子が襲われていた場所へと走る。
どうする、どうやって大人達が来るまで時間を稼ぐ…。今のはたまたま避けられたけど、次は避けられない。石を投げ…いや、あの速さならすぐ詰められる。どうしたら――
立ち止まって、思い出す。
「そうだ、魔術だ」
あまりの状況に忘れていた。僕は魔王を倒した魔術師の生まれ変わり。魔王の最後も、培ってきた魔術その全てを僕は覚えている。
「そうと決まれば善は急げだ。アイツが来たら応戦して――」
いや待て、その前に女の子だ。魔術が使えるなら彼女をまず安全な場所へ送るのが最善だ。まだそう遠くへは行ってないはず。
「この身体では初めてか」
移動も早く、かつ近くの女の子を探せる魔術。上から探した方が早いだろう。深呼吸をし、力を入れ唱える。
『
身体がフワッと浮き、浮遊感に襲われる。最初はコントロールが難しいが、慣れれば速い動きで移動できる。これなら女の子にも追いつける。よし、これで
「……あれ?」
いつまで経っても身体が浮き上がらない。とっくに空を飛んでいてもおかしくないはずなのに。
魔術を失敗したのか?いや、記憶通りに唱えたから合っているはず。もう一度だ、『
バコンッ!
デカい音が耳元で鳴ったと思ったら、衝撃が身体全体を襲う。
浮遊感がある。よし、魔術はちゃんと発動している。これで…あれ、おかしい。身体が動かない。それに、なんで僕は空を見上げてるんだ?普通は下を
ズザザザザッ!
無防備で
「ぐっあああ!!」
痛い、痛い痛い痛い痛い、なんで、どうして、魔術は、発動した、はずじゃ
衝撃に困惑と痛みが両方襲い、意識が混濁する。指一本動かせない。
どうして、どうしてこうなった――
体中全身に鈍い痛みが走る。そりゃそうだ、自分の三倍はあるであろう体格のある怪物に吹っ飛ばされれば、誰だってこうなる。仰向けになって清々しい程の青い空を眺める、痛みさえ無ければリラックスできただろう。
――女の子は、無事逃げきれただろうか
今すぐにでも合流して、無事を確認したいところ。だが、あいにく身体は動かない。かろうじて動かせる首を使いあたりを見回すが、やはり女の子の姿はどこにもなかった。あるとすればそう、年相応の小さな男の子の身体だけ、つまり僕だ。
――逃げられたのなら、それで良い
正直、今は女の子の心配をしている場合じゃない。なにせ身体が動かない上に、僕を吹っ飛ばした張本人の怪物がまだ僕の事を凝視しているからだ。恐らく、また攻撃を仕掛けてくるだろう。
動け、動け、動け、動け、動け、動け――
身体中をバキバキと鳴らしながらもなんとか上半身を起こし、うつ伏せになる。どんなに力を入れても足は動かない。なら出来る事は限られる。
「ぐっ…!」
腕の力を使って少しでも前へ進む。奴に背を向けているが、何もせずとも殺される。だったら少しでも生き残る方法を取りたい。移動距離は牛歩の歩み、腕を動かすごとに全身に痛みが伴うからプラスマイナス若干のマイナスだが気にしてられない。少しでもこの怪物から離れないと――
ブォォォォ!!!
後ろから鳴き声が耳にこだますると同時に、強烈な浮遊感に襲われる。先ほどまで奴は後ろにいたはずなのに、何故か今は
「ぐぅあ…!!」
また吹き飛ばされたのだ。今度は先よりも強く飛ばされ、身体は小石のようにコロコロと転がっていく。
転がった先の視界は、また青い空だった。
やばい、意識が――
頭とお腹がじんわりと暖かい。けど、手足はひどく寒い。意識が朦朧とする中、あの怪物がこちらに近づいてくるのを感じる。最後の足掻きだ。
………
何も起きなかった。分かっていた事だ。いや、分からなかったからこうなったのか。魔術が使えないと分かっていたなら、こうはならなかった。まさかこの身体に
ブォォォォ!!
いつの間にか近くの
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