立ち直るまで、好きって言わない

南條 綾

立ち直るまで、好きって言わない

 私たちはいつものルーンカフェ。

古びた木のテーブルに、窓から差し込む午後の柔らかな光。店内にはコーヒーの香りと、時折響くカップの軽い音だけ。大学のサークルで知り合った後輩の美幸が私の向かいの席に座っている。


 黒髪を肩まで伸ばした、いつも少し眠そうな感じがして、なんか可愛いんだよね。最近、彼女の様子がおかしかったのは気づいていた。LINEの返事が遅いし、サークルの飲み会にも来ない。気になって、今日は無理やり誘ってここに連れ出した。


「どうしたの? 最近元気ないじゃん」

 

 私はストローでアイスコーヒーをかき回しながら、できるだけ軽い声で聞いた。


 美幸は少し俯いて、ミルクティーのカップを両手で包むように持ったまま、小さく息を吐いた。


「……振られました」


 ぽつり、と落ちた言葉に、私は思わずストローを口から離した。


「え、待って。付き合ってたよね? あの先輩と」


どういうこと?私は真剣に聞いてみよう


「うん……でも、浮気現場、見ちゃって」


 美幸の声は、驚くほど静かだった。感情が抜け落ちたみたいに、淡々と伝えてきた。


「聞いてみたら……『お前と付き合う前から付き合ってたんだよ』って」


 私は言葉を失った。美幸の彼氏いや、元彼氏は、同じ大学の四年生で、優しそうな顔をした人だった。サークルでも評判が良くて、美幸が付き合い始めたときは、本当に嬉しそうに話してたのに。何?付き合う前からほかの子と付き合うなんてふざけてるの?


「それ、ひどすぎじゃん……ふざけてるじゃん」


 思わず声が強くなった。でも美幸は、ただ小さく頷くだけ。


「まぁ、仕方ないんだけどね」


「仕方ないって……なんでそんな平然としてるの?」


 私は少し苛立って聞いてみた。だって、美幸は明らかに傷ついてし。声は震えてるのに。

目を合わせようともしないのに、どうしてそんなに落ち着いてるふりをするんだろう。

美幸は初めて、少し潤んだ瞳で私の顔を見てくれた。


「平然……に、見える?」


「見えないけど、でも冷静すぎるよ。普通、もっと怒ったり泣いたりするでしょ」


 美幸は小さく笑った。でもどこか諦めたような笑顔。


「どこまで行っても、他人ですし」


 その言葉に、私は息を飲んだ。


「だって、付き合うってことは……人生のレールが、ちょっとの間、つながってる時ですよね。いつか離れていくのも、仕方ないと思うんです」


「そんな……泣きそうな声で言わないでよ」


 私は思わず、美幸の手を握った。冷たかったし、震えてた。美幸は私の手を握り返しながら、目を伏せた。


「だってさ……浮気するのは、まぁ仕方ないって思ってたの。私、わがままじゃないし、束縛したくないし。でも……」


 そこで、初めて声が途切れた。長い沈黙のあと、掠れた声で続けた。


「『お前はキープだった』って言われたの。それには……すごいショックだった」


 美幸の目から、ぽろりと涙がこぼれた。でも声は出さない。ただ静かに、頬を伝って落ちていく。

私は何も言えなかった。ただ、ぎゅっと手を握ることしかできなかった。この子は、強がってるんじゃない。もう、傷つきすぎて、感情を表に出すことすら疲れてしまったんだ。


 窓の外では、冬の陽射しが少しずつ傾いていく。私たちは、しばらくの間、ただ黙って手を繋いでいた。美幸が、こんなに脆いところを見せてくれるなんて、初めてだった。そして私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

この子を、放っておけないって強く思った。


 卑怯かもしれないけどさ。私は美幸の事が好きだったけど、これで告白するのは少し卑怯だよね。だから立ち直った時に私は美幸に告白しよう。


 絶対にこんな思いをさせないんだから。


 あの日から、ちょうど三ヶ月が経っていた。 

春の訪れを感じる頃、美幸の笑顔が少しずつ戻ってきた。LINEの返事が早くなり、サークルの活動にも顔を出すようになった。


 まだ、元彼の話をすることはなかったけど、目を合わせたときの笑みが、以前より柔らかくて、自然になってきたのかな。 


 私は、美幸がちゃんと立ち直るまで約束を守った。約束って言っても自分で勝手に決めたことだけど。好きだなんて一言も言わなかった。ただ、そばにいて、話を聞いて、時々一緒に喫茶店に行く。それだけをした。


 今日は、いつものルーンカフェに来ていた。もう冬の冷たい光じゃなくて、春の優しい陽射しが窓から差し込んでいて私の好きな季節がやってきた。


 桜の花びらが、風に舞ってガラスに軽く当たる音がする。美幸は、今日はホットコーヒーを頼んでいた。

いつものミルクティーじゃなくて。少し大人になったみたいで、私はそれを見て、胸が熱くなってしまった。


「最近、元気そうだね」

私がそう言うと、美幸は小さく笑って、頷いたくれた。


「うん、なんか、吹っ切れたっていうか。あの時は本当にごめんなさい。綾先輩に迷惑かけちゃって」


「迷惑なんかじゃないよ。信用してくれたと思うからうれしかった。」


 美幸は少し照れたように目を伏せて、コーヒーを一口飲んだ。


 彼女の様子を見て私は、深呼吸をした。


 今日だ。今日こそ、伝えよう。


「美幸ちゃん」 


 名前を呼ぶと、美幸が顔を上げた。いつも通りの少し眠そうな、私の好きな顔だった。


「私ね……すっと前から、ずっと言いたかったことがあるの」


 美幸の表情が、少し固まったのが見える。私も逃げずに伝える。


 私は、テーブルの下で拳を握った。心臓が、今世紀最大でうるさいくらいに鳴ってるかも。


「美幸ちゃんのこと、好きだよ」


 一瞬、店内の空気が止まった気がした。カップの音も、外の風の音も、全部遠のいていく感じ。


 美幸の目が、ゆっくりと見開かれる。頬が、ほんのり赤く染まっていく。


「え……」


「恋愛的な、好き。ずっと前から、好きだった。サークルで初めて会った時から、なんか……気になってて。美幸ちゃんが彼氏と付き合い始めた時も、祝福したけど、正直、胸が痛くて。でも、別れたって聞いた時、喜んじゃダメだって自分を叱ったよ」


 言葉が、止まらなくなった。溜め込んでいた想いが、せきを切ったように流れていく。


「だから、あの時、告白しなかった。傷ついてる美幸ちゃんに、付け込むみたいで嫌だったから。ちゃんと、元気になってから伝えたいって思ったの」


 美幸は、黙って聞いている。驚きと、何か温かいもので満ちている感じが見られる。


「私、美幸ちゃんを絶対に傷つけたくない。キープなんて、絶対言わない。美幸ちゃんが一番で、ずっと一番でいたいって思う。だから……付き合ってほしい」 


 言ってしまった。全部言っちゃった。私は息を吐いた。テーブルの上で、手が震えてる。指を絡ませて隠すように。沈黙が、訪れた。断られるよね。普通は男女だし。同性だからひかれちゃうかも。


 美幸が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。私の震える手を、そっと包み込むように握って。


 温かかった。あの冬の日とは違って、ちゃんと温かくてゆったりな雰囲気がまとっている。


「綾先輩……」 


 美幸の声は優しくて、笑顔だった。


「私も……好きです」 


「え……?」 


 私は、目を丸くなった。多分なったと思う 

 

 美幸は、恥ずかしそうに笑いながら、でもちゃんと目を合わせて言った。


「綾先輩の事、ずっと優しくて、頼りになって……大好きでした。でも、先輩は先輩だから、後輩の私なんかがって思って、言えなくて。それに、彼氏もいたし。でも、別れてから、綾先輩がそばにいてくれるのが、すごく嬉しくて。もしかしてって私の勘違いかもって思って…」


 涙が、美幸の頬を伝った。でも、今度は悲しい涙じゃない。ぽろぽろとこぼれながら、笑っていた。


「だから……はい。付き合ってください」


 私は、もう言葉にならなかった。ただ、美幸の手をぎゅっと握り返して、頷いた。


 窓の外では、桜の花びらが舞い散っている。春の陽射しが、私たちを優しく包んで。 ルーンカフェのテーブルで、私たちは初めて、恋人として手を繋いだ。 


 絶対に、この子を幸せにする。


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