元彼はたぶん38ページ目を読んでいない

緋月カナデ

元彼は多分38ページ目を読んでいない

元恋人に会うために着ていく服を選ぶという行為は、どうしてこうも「武装」に似てしまうのだろう。


クローゼットの中身をベッドにぶちまけながら、私はそんなことを考えていた。


気合を入れすぎれば未練がましいと思われそうだし、かといって手を抜けば「別れて劣化しやがった」と舐められる気がする。


その自意識の綱渡りが、どうにも浅ましい。


結局、三年前、彼が誕生日にくれた淡いブルーのニットを選びかけた手をとめ、あえて最近買ったばかりの、少しモードな黒いシャツを手に取った。


これは、あの頃の私じゃないというささやかな主張だ。


鏡の前で襟を整える。スマホが短く震えた。


『着いた。先に店に入ってる』


画面に表示された「朝陽」という二文字に、心臓が不格好に跳ねる。


別れてから一年半。この期間を長いと見るか短いと見るかは、きっと今日、彼に会って何を思うかで決まるのだろう。


待ち合わせ場所は、付き合っていた頃によく二人で行った、裏路地のビストロだった。


金曜の夜ということもあり、店内は幸福そうな喧騒に満ちていた。


グラスが触れ合う高い音、肉が焼ける香ばしい匂い、あちこちで弾ける賑やかな笑い声。


私は入り口で立ち止まり、視線だけで奥のテーブル席を探した。


いた。


スマホをいじるその横顔は、私の記憶の中にある朝陽と寸分違わず、けれど決定的に何かが違っていた。


髪が少し短くなっている。それに、猫背気味だった姿勢が、妙に良くなっている気がする。


「……久しぶり」


近づいて声をかけると、彼が顔を上げた。目が合い、ふわりと柔らかく細められる。


「おう、久しぶり。元気だった?」


その声のトーンの、あまりのフラットさに拍子抜けした。


もっと気まずい沈黙があるか、あるいは過剰にハイテンションか、どちらかを想定していたのに。彼はまるで、先週も会った友人のような顔をしている。


「うん、まあまあかな。朝陽も、元気そう」


向かいの席に座る。椅子の硬い感触が、ここが現実であることを知らしめる。


「とりあえず、ビールでいい?」


私がメニューを開く前に彼が言った。私の喉の奥で、準備していた言葉がつっかえる。


かつての私なら、迷わず「とりあえずビール」だった。でも、ここ半年ほど体質が変わったのか、炭酸でお腹が膨れるのが苦手になり、最初から白ワインやシードルを飲むことが増えていたのだ。


彼はそれを知らない。当たり前だ。私たちはもう、互いの日常を共有していない。


「あ、ううん。今日はシードルにする」


私が訂正すると、彼は一瞬だけ意外そうな顔をして、すぐに「そっか」と笑った。


「じゃあ俺もそれにしよっかな。最近、ビール飲むとすぐ眠くなるんだよな」


そう言って彼は店員を呼び、シードルを二つ注文した。


小さなズレ。


かつての彼は「男なら黙ってビール」という謎のこだわりを持っていたはずだ。それが、私の気まぐれな選択にあっさりと乗っかってくる。


その柔軟さが、なんだか少し寂しかった。私の知らないところで、彼の頑固な角が削り取られている。


乾杯のグラスが触れ合う澄んだ音が鳴ると、不意に沈黙が落ちた。シードルの甘酸っぱい泡が舌の上で弾ける。


「仕事、どう? まだあのデザイン事務所にいるの?」


探るように私が聞く。


「いや、半年前に転職したんだ。今はメーカーのインハウス。前より残業減ったし、人間らしい生活してるよ」


「え、そうなんだ。知らなかった」


「言ってなかったっけ? まあ、言う機会もなかったか」


彼は悪びれもせず、メニュー表を指でなぞった。


「ここのレバーパテ、美味かったよな。あと、砂肝のコンフィ」


「うん、好きだったね」


「それ頼もうか。あと、この季節だと牡蠣のアヒージョとかいいかも」


料理を注文する彼の横顔を見ながら、私は自分の中の「期待」の正体を点検していた。


なぜ彼は、わざわざ私を呼び出したのか。


LINEで『久しぶりに飯でもどう? 渡したいものもあるし』と連絡が来た時、私の脳内ではいくつかのシミュレーションが行われた。


パターンA、復縁の打診。パターンB、結婚の報告。パターンC、マルチ商法の勧誘(これはさすがにないと思いたい)。


今のところ、彼の態度からはどれも読み取れない。ただ、憑き物が落ちたように穏やかだ。


昔の彼はもっとピリピリしていて、仕事の愚痴や将来への焦りを肴に酒を飲んでいた。その切迫感が、当時の私には色っぽく見えていたのだけれど。


料理が運ばれてくると、会話は自然と過去の思い出話へスライドしていった。


「あー、この味。懐かしいな」


バゲットにレバーパテを塗りながら、朝陽が目を細める。


「よく喧嘩したよね、この店で」と私。


「したなぁ。お前が『私の話を聞いてない』って泣き出して、俺が逆ギレして店出たやつ」


「最低だったよね、あの時。置いていかれて、一人で会計して帰ったんだから」


「マジでごめん。あの頃は俺も余裕なかったんだよ」


彼は苦笑いしながら、シードルを煽った。


笑って話せる。それが嬉しくもあり、残酷でもあった。笑い話にできるということは、もう痛みが風化している証拠だ。傷口はふさがって、ただの白い痕跡になっている。


私は牡蠣をフォークで突き刺した。熱々のオイルが跳ねて、指先にちくりと熱が走る。


「……で、渡したいものって何?」


核心に触れるなら、アルコールが回りきらないうちがいい。朝陽は「ああ、そうだった」と足元の鞄をごそごそと探った。


出てきたのは、一冊の文庫本だった。カバーの端が少し擦り切れている。


「これ。ずっと借りっぱなしだったろ」


差し出されたそれを見て、私は息を飲んだ。


江國香織の短編集。付き合い始めた頃、私が「絶対に読んで」と半ば押し付けるように彼に貸したものだ。


「……まだ、持ってたの」


「引っ越しの荷造りしてたら出てきてさ。捨てようかとも思ったんだけど、栞が挟まったままだから、なんか悪いなと思って」


彼は淡々と言った。引っ越し。その単語に敏感に反応してしまう。


「引っ越すの?」


「うん。来月から、吉祥寺の方に」


吉祥寺。私たちがかつて「いつか住みたいね」と話していた街。


「ふうん。いい街だよね」


「まあね。更新のタイミングだったし、部屋も広くなるから」


彼はそこで言葉を切り、少し照れくさそうに鼻の頭を指でこすった。


その仕草を見て、直感した。ああ、一人じゃないんだ。


言葉にされなくても、肌感覚でわかってしまった。彼のシャツのアイロンがきちんとかかっていること。柔軟剤の香りが以前と違うこと。そして何より、この穏やかさ。


誰かが彼を、丸くしたのだ。私ではない、誰かが。


ズキン、と胸の奥が痛むのを覚悟した。けれど、意外なことに、そこに広がったのは痛みではなく、静かな納得だった。


「そっか。……おめでとう、でいいのかな」


私が試すように言うと、彼は一瞬きょとんとして、それから観念したようにふっと笑った。


「鋭いな、お前は昔から」


「わかるよ。顔に書いてある」


「マジか。……まあ、そういうこと。彼女と一緒に住むことになった」


正解は、パターンB(結婚の報告)の手前、「同棲の報告」だった。


それも、報告が主目的ではなく、これからの新生活のために過去の遺留品を精算したかった、というのが本音だろう。


彼は、この本を返すことで、私との栞を抜きたかったのだ。


私は文庫本を受け取った。


手のひらに乗せると、紙の束はずっしりと重く、そして冷たかった。三年間、彼の部屋の本棚の隅で、あるいは段ボールの中で、眠り続けていた時間の手触り。


「読んだの? これ」


「いや、結局最初の二、三編しか読んでない。俺にはちょっと、難しかったわ」


彼は正直に言った。ああ、やっぱり。


私は笑い出しそうになった。


私はこの本を彼に貸すことで、私の感性を理解してほしかった。共感してほしかった。でも、彼はそれを読み通すことすらしなかった。


私たちは、根本的に合っていなかったのだ。


好きとか嫌いとかいう感情のレイヤーとは別の場所で、パズルのピースの形が違っていた。そのことが、今はっきりと、答え合わせのように腑に落ちた。


「だと思った。朝陽には合わないよ、こういう話」


「だよな。返すの遅くなってごめん」


「ううん。持ってきてくれてありがとう」


私は本を鞄にしまった。不思議なほど、心が軽かった。


もし彼が「何度も読み返したよ」なんて言っていたら、私は未練を断ち切れなかったかもしれない。彼が変わってしまったことへの寂しさはあるけれど、彼が「私とは違う人間である」という事実は、どうしようもなく私を安心させた。


彼は彼らしく、私は私らしく。別れたことは、間違いじゃなかった。


店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。秋の終わり特有の、透き通った冷気。街路樹の葉がカサカサと乾いた音を立てている。


「駅、そっち?」


「うん。私は地下鉄だから」


「そっか。俺はJRだから、こっちだわ」


店の前が、運命の分岐点になる。


「じゃあ、元気でね」


私は努めて明るく言った。


「お前もな。仕事、ほどほどにな」


「朝陽こそ。彼女、大事にしてあげなよ」


「……ああ、努力する」


彼は少しはにかんで、右手を軽く挙げた。じゃあな、という合図。


彼はきびすを返し、振り返らなかった。その背中は、以前見た時よりもずっと頼もしく、そして遠い。


私はその場に立ち尽くして見送るようなことはせず、すぐに反対方向へと歩き出した。


ヒールの音が、アスファルトに小気味よく響く。カツ、カツ、カツ。


リズムに乗って歩きながら、私はポケットからスマホを取り出した。連絡先リストを開き、「朝陽」の名前をタップする。


消去、というボタンの上で指が一瞬止まる。でも、消す必要もない気がした。


これはもう、特別な名前ではない。ただの過去のログだ。


私はスマホをスリープさせ、鞄の中から先ほどの文庫本を取り出した。街灯の下でパラパラとページをめくる。


栞が挟まっていたのは、38ページ目。


『幸福というのは、あたたかいスープのようなものだと思っていた』*¹


そんな一文に、赤いラインが引かれていた。私が引いた線だ。


当時の私は、幸福の定義を彼と共有したくて、必死に線を引いていた。


パタン、と本を閉じる。


今の私なら、スープじゃなくて、そうだな、よく冷えたシードルこそが幸福だと答えるかもしれない。


味覚も、好みも、幸福の形も、変わっていく。それでいい。


私は文庫本を小脇に抱え直し、深く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺を満たす。


明日は休みだ。新しい服でも買いに行こうか。今度は、誰のためでもない、私が着たい服を。


私は顔を上げ、煌めく夜の街へ向かって、歩幅を広げた。




――――――――――――――――――――――――――――

あとがき


*¹ 実在の江國香織作品からの引用ではなく、架空の一文です


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