法善寺横町バーリ・トゥード

紅りんご

第1話

私は道頓堀橋から見る朝の景色が好きだった。

道頓堀川を挟むようにして立つ華やかで主張の激しい看板たち、戎橋でグリコサインと同じポーズを撮る観光客、恵比寿様とドンペン君がにこやかに笑う観覧車、そして日本橋方面から来る試運転中の遊覧船。煌びやかで騒々しいまでの意気込みを感じる道頓堀は私とは正反対の場所なのに、休日になると道頓堀橋を訪れた。

平日に仕事を休んだ。小学生の頃以来のずる休みである。新卒から兵庫で広告系会社に勤務して1年と少し、大阪と奈良の県境から毎日1時間ほどかけて通勤してきた連続記録を今日、打ち切ってしまった。最寄り駅からつり革に掴まること20分。近鉄日本橋駅から大阪難波駅に向けて地下を走る車両の中で突然、肩から下げたバッグがずうんと重くなった。背中を伝う冷たい汗が、会社に着くまでこの重みに耐えられないことを悟らせた。気付けば電車を降りていて、道頓堀のド真ん中にかかる戎橋へ来ていた。ドン・キホーテの賑やかな音楽が聞こえて来た辺りで我に返り、会社に体調不良の連絡を入れて、急遽休ませてもらうことにした。身体は元気なんですけど何か行きたくなくてとは言えないし、体調が悪いというのも嘘のように思えて居心地が悪かった。明確な不満があるわけでもない。ただ、毎朝同じ電車に乗って、同じ場所で働いて、帰るだけの日々がこれから何十年と続くと考えた時、光の見えないトンネルの中に居るみたいな不安に襲われるのだ。今日、バッグが重くなる寸前に考えていたのはそんなことだった。今朝のことを思い出す内に身体は自然と戎橋から軽く乗り出していて、気持ちが呟きに変わった。


「私、社会人失格だよ……」


 萎んだ声は道頓堀川の底へ沈んでいった。今朝まで続いたらしい雨の影響で川はその漆黒をより確実なものにしていた。少しすっきりすると、ソースと豚骨ラーメンの香りが鼻をついた。すぐに胃腸が反応し、心は疲れていても、身体が生きようとしていることに安心する。少し早いけど何か食べようかと身体の向きを変えようとして、濡れた欄干に手を取られた。身体の主導権が私から重力に移る。幸い、火事場の俊敏さを発揮した腕に守られて、額を欄干に軽く打った程度で済んだ。ヒリヒリと痛む額が生の実感を与えてくれる。余計なお世話だと思いつつ、肩が軽くなったのを感じていた。あのぶら下がるようなバッグの重みが消えていた。というか、バッグが消えていた。状況が飲み込めない私の耳に金属と堅い物がぶつかる音が聞こえた。再び欄干から身を乗り出すと、私のバッグが道頓堀川を進む遊覧船の空席に落ちているのが見えた。船はゆっくりと視線の先を遊覧し、このままでは手の届かない場所に行ってしまいそうだった。

 どうしよう、と思いつつも身体が動かなかった。このままバッグがどこへなりとも行ってくれれば、私はあの漠然とした重みから解放されるような気がしていたからだ。それに船に降りようとして道頓堀川に落ちたら、体調不良確定ガチャを回すことになる。川底には瓦礫やゴミが散乱し、細菌のたまり場になっているというのは有名な話だし、そもそも公的な機関から禁止されている。ここでの最適解は警察に連絡することだと分かっていても、ポケットに入れたままのスマートフォンには手が伸びず、バッグがぽつねんと朝の道頓堀を遊覧する様を眺めるだけだった。だから、その姿は目に焼き付いた。背後から鳥が一斉に飛び立つ時のような衝撃音が聞こえたかと思うと、何かを叫ぶ影が欄干を越えていった。


「行くで、何でもありバーリ・トゥード!!」


 その女性は昔、恐竜図鑑で見た巨大な翼竜ケツァルコアトルスを思い出させた。声は祖父母の車で聞いたラジオのようなノイズ混じりの関西弁で、オレンジがかった黄金色の長髪、レトロなグリーンのタータンチェックのジャケットとハイウエストパンツのセットアップ、足先には熟れたトマトのような色艶のレザーシューズ、そして右の耳にはトウモロコシのイヤリングがぶら下がっていた。ひと目見ただけでも彼女には個としての質量があった。そしてそれは私には無いものだった。


「ちょっと、何してるんですかっ!?」


 私の問いが届くより先に、彼女は船上に着弾した。阪神タイガーズが優勝した訳でもないのに人が飛び込んできたことに驚くように、遊覧船は激しく揺れ、道頓堀川は波立った。2メートルを優に越える高さから飛び降りたというのに物ともせず、彼女は私のバッグを掴み上げた。


「飛びこますんはバッグだけにしときや!」


 バッグを持っていない方の右手で大きく手を振りながら快活に笑う彼女は、それから「暇やったら、ちょっと付きあって」と言った。

  船の所有者にこっぴどく怒られたらしい彼女と落ち合ったのはドン・キホーテ道頓堀店の観覧車下だった。よく考えたら、遊覧船なのだから一周して同じ場所に戻ってくるのだ。2メートル近い背丈が萎んで見えるほど落ち込んだ彼女は駆け寄って頭を下げる私に言った。


「ええよ。隣人の笑顔の為なら何でもありバーリ・トゥードが私の信条やねん」


 何と言ったのか聞き返す間もなく、そのまま戎橋へと歩き出した彼女は二歩目で足を止めて振り向いた。


「せや、私は千日前ミライ。ミライって呼んでな」


 数拍遅れて、私の番だと気がついた。


「あっ、大和陽毬です。ミライさ……ミライと一緒で下の名前で呼んでいただいて大丈夫です」


 「ヒマリ、ええ名前やね」と目を細めたミライは、私にバッグを手渡した。船上の水を吸った合皮は重みを増していたけれど、不思議と肩は軽かった。既に立ち直ったらしく、大股で先を行くミライを追って、私も戎橋に向かって歩き出した。

 戎橋から心斎橋筋に入り、戎橋筋の手前を左折して道頓堀商店街へ。ビリケンさん、ふぐ、くいだおれ太郎の看板に見下ろされながら、お笑いライブのキャッチにちょっと惹かれつつも、まっすぐ歩いていく。ここは大阪を象徴するメインストリート、もちろん私も歩いたことがあった。しかし、ミライは中座くいだおれビルを通り過ぎた後、日本家屋を模したうどん屋脇の小径に入った。そこは人一人がやっと通れる位の狭さの道で、江戸初期の大阪を模した装飾がされていた。奥へ進む毎に時代も進み、昭和初期に至った所で小径が途切れ、ミライも右に折れた。その先にあったのはノスタルジーを感じる静かな路地だった。一つ一つ色と形の違う石畳が敷き詰められた道の両側には、江戸の息吹を残す店や古民家が軒を連ねていた。その中で石畳でステップを踏むように歩くミライが足を止めたのは、通りに入ってから5歩の所にある『法善寺横町新温泉』という看板が下がった店の前だった。



 ミライが店の表で声をかけると店主らしいグレイヘアの老婦人が現れた。彼女はミライを見て「着替え用意しておくよ」と言い、背後の私に目をやると「おや、新入りかい」と目尻を下げて、開店前の銭湯に入れてくれた。

 法善寺横町新温泉は昭和で時が止まっているような銭湯だった。青いタイルが張り巡らされた床、色褪せた地元企業の広告が貼られた空間は、タイムスリップした気分を感じさせるものだった。左側の壁沿いには三つの温泉があり、私はボコボコと沸き立つ真ん中の温泉に浸かっていた。ミライはというと、洗い場で店主に大きな束子で全身をくまなく洗われていた。離れて見ると、ゴールデンレトリーバーを洗っているようにしか見えない。


「ハナさん、私も湯船に入りたいんやけど……?」

「道頓堀に飛び込む阿呆が入る湯があるわけないだろう?」


 店主の竹林華こと、ハナさんは上目遣いのミライの願いを一蹴した。


「いやぁ、落ちては無いんやし、ええやん」

「私は人に迷惑をかける性根の話をしてるのさ」

「そう言いつつ、洗ってはくれるの嬉しいわ」

「お馬鹿、あんたが湯船に入らないように見張るためだよ。まぁ、どうして飛び込んだかは大体察しがつくさね」

 

 ハナさんは流し目で私の方をみやった。切れ長の瞳は全てを見通しているような迫力があった。そこで私はずっと聴けていなかったことを思い出した。


 「ミライは、どうして私のバッグを拾ってくれたんですか?」


 信条みたいなものは聞いたけど、腑に落ちてはいなかった。私の問いにミライを目を瞬いた。まるで、そうするのが当然で、理由を訊かれるとは思っていなかったみたいに。だから、ミライは少し遅れて一息に教えてくれた。


「いやぁ、最初はヒマリが道頓堀川に飛び込むんちゃうかと思って見守ってたんよ。そしたら滑ってバッグだけが船に落ちて、まぁその位なら自分で取りに行ったらええかと思ったけど、バッグが遠なるほどヒマリの表情が冷えて硬くなっていくもんやから」

「だから、飛び込んだ?」

「シ~ム~」


 どこかの国の言葉と共にミライは頷いた。


「たこ焼きって熱々とろとろやから美味しいやろ?人も体温が感じられて柔っこい顔してる方が素敵やと思うんよ」


 ミライの言葉に自分の頬を触る。熱く深い湯に肩まで浸かった私の頬には血が通っていた。私はゆっくりと湯船から立ち上がり、頭を下げた。


「あ、ありがとうございました!」

「ええよ、さっきも言ってもらったし。ヒマリは真面目やね」


 真面目。ミライから聴くその言葉は不思議と温かかった。じんと心に染み入るものを感じている間に、洗い場ではミライとハナさんの小競り合いが始まっていた。


「なにが『真面目やね』だい!次同じことがあったら、船が船着き場に戻るまでこの子を捕まえとくか、先に船着き場と話をつけときな」

「いたたたっ、ちょっとハナさん、手の力強すぎるって、分かった、分かったから、あっシャンプーが目に入った……!!」


 泡だらけになってどこに顔があるか分からないミライさんの頭にシャワーが浴びせられていく。


「なんだい、シャンプーの時は目を閉じときなって毎回言ってるだろう?」

「シャンプーの時っておばけが出るっていうやん?」

「おばけより生きた人間の方が怖いから安心しな」

「せやな、私もお化けよりハナさんの方が怖いわ」


 私と同じ歳くらいのミライと、祖父母くらいの年齢のハナさんは実の孫と娘のように見えた。そんな二人が軽妙に言い争う様はおかしくて、久しぶりに声を上げて笑った。



 銭湯内と同じく脱衣所にも昭和の気配が漂っていた。左側の壁に沿って薄れた水色のロッカーが立ち並び、向かいには鏡台と、その端にテレビとマイクがあった。映っているのはカラオケでよく見る映像、というかカラオケそのものだ。今は若い男性の声で北陸の夜を雨と涙に濡れて歩く女の恋模様が歌われていた。男湯の脱衣所で誰かがこぶしを効かせて演歌を熱唱しているのだろう。銭湯にカラオケがある。この驚きを誰かに共有したかったが、ミライは鏡台前の椅子に座ってコーヒー牛乳の瓶片手に「よっ、ウンライ名人」と合いの手を入れていた。それを邪魔するのは何だか悪くて、私も隣で合いの手を入れ続けていた。数曲のリサイタルが終わった後、拍手をし終えたミライが立ち上がった。ハナさんから借りたパーカーには串カツの絵と『可愛いには何度漬けてもええねん』と書かれていた。


「ぼちぼち、行こか」


 先に暖簾を潜ったミライを追って店を出ようとした所で、ハナさんに呼び止められた。私の肩に置かれた皺がありつつも張りのある手は、中学の頃に亡くなった祖母を思わせた。祖母もいつも玄関で帰る私の肩に手を置いて見送ってくれた。


「ここは法善寺横町、逸れ者も余所者もドンと来い、人情と思いやりの町さ。あんたもあの娘ほどじゃなくて構わないけど、もっと好きに生きていいんじゃないかい」

「好きに、ですか?」

「あの娘流に言わせれば、『何でもありバーリ・トゥード』かね」


 言い終えたハナさんは少し恥ずかしそうに頬をかいた。

 ハナさんにお礼を言って暖簾を潜ると、通りでミライがザ・ヴィジュアル系の青年と話していた。鮮烈な青のメッシュが入った金髪に棘のついたチョーカー、ハイネックジャケットとレザーのパンツとブーツ、ちらりと見える白のタンクトップが青年が醸す上品さを醸し出しているようだった。それにしても二人が並ぶとカラーパレットみたいに色彩豊かだ。やがて私に気がついたミライは手招きしつつ、そのままの手で横の青年を指した。


「ヒマリ、この坊ちゃんがウンライ名人っ」


 一瞬、ぽかんとして、すぐに思考が繋がった。


「あぁ、脱衣所で歌ってた人ですか!?」

 

 こぶしを効かせて北陸の演歌を歌っていたのは彼だったのだ。

 私の反応にウンライ名人がはにかみつつ、「雲雷寺夏霖です」と名乗った。見た目通り、ヴィジュアル系バンド『パンクラチオン』のボーカル、カリンとして活動しており、ライブの打ち上げ明けに銭湯へ来た所らしい。現役大学生のカリンはミライのことを「ミライ姐さん」と呼んで慕っているようだった。


「で、ミライ姐さん達は何してるっすか?」

「私は道頓堀に飛び込んで、ヒマリは……何してたん?」

「か、会社をサボってました」


 言ってみるとより恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいだったが、それを吹き飛ばすくらい2人は大笑いしてくれた。


「ヒマリ姐さん、結構ぶっ飛んでるっすね」


 目を丸くするカリンに、何故かミライが照れた素振りを見せた。


「いやぁ、それ程でも無いで」

「ミライ姐さんには言ってませんよ」

「ええやん、私が見つけてきたダイヤの原石やで」

「いや、ヒマリ姐さんは磨かなくても光ってるでしょ」

「え、じゃあ私、私は?」

「ええ、光ってますよ。横町のみんなの目が」


 二人のやり取りに頬が緩んで、吹き出してしまう。いつの間にか私はミライに見込まれていたらしい。二人が大笑いしてくれたのは、深刻な顔をされるよりよっぽどよかった。二人はそれ以上、何も訊かなかった。他の人からすれば大したことではないというのは、苦しみが理解されないことでもあるけれど、二人は問題そのものではなく私を理解しようとしてくれていた気がした。背中をそっと押すようなミライの手が、ハナさんが置いてくれた手の温もりと重なる。それを見計らったように私の腹の虫が鳴き始め、後から重なるようにミライの腹の虫も鳴いて、空腹の合唱が始まった。ミライが借り物の下駄で石畳を軽く打ちながら、私と目を合わせた。


「ヒマリ、私のソウルフードをご馳走するわ」


 ミライは私の少し前を歩いて法善寺横町の案内を続けてくれる。夕暮れ時のライ麦畑のような髪からは、私と同じシャンプーの香りがした。



 ミライが私とカリンを連れて来たのは、法善寺横町の中央から一本横道に入った細い路地にある黄色のカラーリングの小さな屋台だった。路地にぶら下がる提灯の和のテイストと緑と白と赤の縦三色の屋根のコントラストは正反対なのに、互いに調和しているようで違和感が無かった。今は開店前なのか、『close』と書かれた札が下がっている。軒先に置かれたスタンドには白いチョークで大きく店名らしきものが書かれていた。


『Vale tudo』

 

 全く読めない。大学で2年間苦しめられたスペイン語に似ている気はする。しかし、スペイン語の表層を恐る恐る撫でるだけだった私にとって、違うと断言することも難しかった。でも、どこかで聴いたことのあるような音の並びに見えた。苦悶の表情でスタンドと向き合う私の耳元でミライが囁いた。


「バーリ・トゥード」

「バーリ……あっ」


 バーリ・トゥード。それは初対面の時にミライが言っていた言葉であり、ハナさんが贈ってくれた言葉だった。見たことの無い国の言葉でも知っている人の声で再生されると、身体に馴染んでくる。バーリ・トゥード。繰り返し呟いてみる私をカリンが覗き込む。


「ちなみに、ポルトガル語で『何でもあり』って意味っす」

「何でもあり……」


 何でもありバーリ・トゥード。頭の中で反芻してみる。私もそう口に出せたら、ミライのようにどこまでも飛んで行けそうな翼が手に入るのだろうか。しこたま怒られつつも、私のバッグを拾ってくれた彼女の姿が鮮明に蘇る。ふと周りを見渡すとミライの姿はどこにも無くて、代わりに店の扉が開いた。店から半歩外に出て来たのは、真っ赤なエプロンをしたミライだった。


「千日前ミライワールドへ、ようこそ」


 「ウチの好きな格闘技の名前でもあるんよ」と付け加えて、ミライは私達を『Vale tudo』の中へと誘った。



 リンゴンと鐘の音が鳴る扉の先、『Vale tudo』の店内は小さな世界だった。天井からは細いスチールで野鳥を模したペンダントライトが吊り下がり、右手にはキッチンに沿ってカウンター席が、左手には二人がけと四人がけの、デザインも材質もバラバラの座席が並んでいた。トイレと座席の間を仕切る棚には英語やスペイン語を始めとした各国の絵本や小説が並んでいる。棚の空いたスペースには髑髏を模した水晶や綺麗な球の石、恐竜の土偶といった民芸品らしきものが置かれており、店内を流れるアナログ感のある温かい音楽がどこか懐かしさを抱かせた。私達は勧められるまま、カウンターに並んで座った。湾曲したウォールナット材が背を受け止めてくれて心地が良い。キッチンに立ったミライは私にアレルギーの有無だけを聴いて、「ウチのおすすめ作るから待っといて」と冷蔵庫から材料を取り出していた。スパイスを加えた挽肉と米を炒めるミライの手際の良さを眺めていると、カリンが申し訳なさそうに尋ねた。


「お休みされてる所、悪いっすけど……ヒマリ姐さんって、社会人っすよね。仕事ってどんな感じっすか?」

「いいよ、全然大丈夫。カリンは大学3年生なんだっけ」

「そうっす。周りはインターンとか、夢を追うとか、自分の道を見つけてるんすよ。親は実家の寺を告げって言うんすけど、親の言う通りに生きるのも何か違う気がするし、とかいいつつ、イマイチ社会人にもピンと来ないっす……」

「サボってる社会人が言えたことじゃないけど、責任かな」


 カリンが首を傾げる。曇り空を見上げる時みたいな不安げな顔だ。


「責任っすか?」

「うん。自分の仕事が誰かの人生に関わって、そこにお金も発生して、自分の人生を保障するために社会の責任の一部を引き受ける……みたいな?」

「全然頭追いつかないっすけど、それって大変っすよね」

「ふふ。確かに大変だし、今こうしてサボっちゃってるんだけど、やり甲斐はあるんだよ」


 やり甲斐はある。自分で口に出した言葉なのに不思議だった。真っ赤な嘘でも、真実そのものでも無いような、でも本心から出た想いだと思った。それがどんな名前を持つのか、今の私には分からなかった。

 キッチンでは、ミライが千切りにしたレタスと1㎝角に切ったトマト、そして炒めた挽肉を薄いナンのような生地の上に置き、両端を折ってから下から巻き始めていた。一巻きされる度に香ばしくも甘い匂いが部屋の中に漂った。その食欲を刺激される香りに私達の喉が鳴る。少し張り詰めた空気が緩み、カリンも晴れやかな口調になった。


「そういうもんなんすね。オレはデスメタル好きで、でも好きを続けるのは辛さもあるみたいなことっすか?」

「そうかも?ごめん、私も全然分かってないんだ」


 これも本心だった。1年経ったら分かるかな、と思ってきたけど、1年経っても全然分からなかった。今、ミライが目の前に置いてくれた大きな春巻きの名前と同じくらい想像がつかない。カリンはそれが何か知っているようで、きょとんとしているのは私だけだった。そんな私の反応が嬉しいのか、ミライはやけに恭しく礼をした。


「こちら、ブリトーでございます」

「い、いただきます」


 おずおずとブリトーを両手で持って口に運んだ。もちもちした生地を噛んだ先でトマトの甘みと肉の旨味が広がり、適度に入った弾力のある米によるボリュームで口の中が幸福で満ち足りる。ミライが後から出してくれた付け合わせの香草ソースをかけると、パクチーの辛みと風味が広がってアクセントになった。一口目が喉を通った後、思わず吐息が漏れた。


「……美味しい」

「せやろ!!気に入ってくれて嬉しいわ!!!!」


 ミライが食い気味にカウンターから乗り出した。カリンも新規を眺める古参のように温かい目でその様子を眺めている。それから私達は何でも無い話をした。それは私の迷宮に近い梅田の地下の話であったり、ミライが世界中を旅した話だったり、カリンが好きなデスメタルの始祖と呼ばれるバンドの話だったり、ミライのルーツがある国の神話の話だったりした。ミライは水と農耕、あるいは太陽と平和、しまいには人類に火を与えたともされる何でもありの神、翼ある蛇ケツァルコアトルの伝説を楽しげに語った。そして話の最後に「ケツァルコアトルスって恐竜の名前になるくらいええ神様なんよ」と付け加えた。ブリトーを頬張りながら聴く私の頭には道頓堀橋の欄干から高く飛び上がるミライの姿が再生されていた。



 店を出た頃には夕方になっていた。カリンは「姐さん達、今度はライブにも来てくださいね」と私達それぞれと拳を突き合せてから帰路につき、私はミライに引き留められて店前の路地に立っていた。蓮と卍と横町の住人らしき名前が書かれた提灯を眺めていると、店を閉めたミライが手を振りながらやって来た。


「じゃ、行こか」


 それだけ言って、提灯が続く細い路地の奥へと歩いていってしまう。視界に朱色が溢れた時、私は自分が寺の境内に足を踏み入れたことを自覚した。先を歩いていたミライは不動明王と書かれた提灯が囲む、苔むした岩の前で足を止めた。両手を広げながら振り返った、その表情は自慢げだ。


「ここは浄土宗 天龍山 法善寺。私ら、法善寺横町のホームやねん」


 ミライの言う通り、境内には地域の住民が参拝に来ていた。皆、ミライの背後にある苔むした岩に柄杓で水をかけている。列に並ぶミライに従って私も正面から岩を見ると、それは人型をしているように見えた。これまでの参拝人生で一度も見たことがない不思議な慣習に気を取られている内、私達の番が回って来た。丸みを帯びた石の瓶から柄杓で水を掬いつつ、ミライは苔むした岩を手で差した。


「こちらは『水掛け不動さん』。お不動さんは水を掛けて、願いを掛けるとどんな願いも後押ししてくれる器のでっかい仏さまなんよ」

「不動明王だから、不動さんなんだ」

「そ~や~」


 全身どころか左右に立つ灯籠や背後の炎らしき装飾まですっかり苔で覆われた姿は、言われてみないと仏さまだと分からなかった。しかし、仏さまとしての姿が埋もれてしまうほど、人々の願いを受け止めてきた末の苔むした姿は確かに果てしない器の広さを感じさせた。先に掛け終えたミライから柄杓を受け取って、私もお不動さんにそっと水を掛けた。澄んだ水流が若緑の苔を深碧に染めていくのを見届けて、手を合わせ目を閉じた。心の中で名乗った後、願いを探していると、先程カリンに話した言葉が浮かんできた。


「ふふ。確かに大変だし、今こうしてサボっちゃってるんだけど、やり甲斐はあるんだよ」


 これは願いだ。心の中でそうあって欲しいと想ってきたことだ。でも、ミライと出会って、場所も人も初めて尽くしの1日だった。それはミライが私のバッグを追って道頓堀橋から飛んでくれたからだ。あの時、彼女は「隣人の笑顔の為なら」と言っていた。この信条を抱いたいきさつは語らなかったけれど、そのお陰で私はハナさんやカリンと出会うことができたのだ。だから、私はただ今日のミライとの出会いへの感謝をお不動さんへ伝えた。

 顔を上げて、礼をして隣をみると、ミライもまたこちらを見ていた。私達は生まれた場所も育った場所も違えば、今朝まで互いのことを知りもしなかった。でも、今は同じ仏さまに向かって拝んでいる。それが何だかおかしくて、きっとミライも同じ気持ちだったのだろう、どちらとも無く破顔して、しばらく二人の哄笑する声が響き渡っていた。

 笑い過ぎて溢れた涙を拭う私を、ミライは東側の出口まで送ってくれた。『天龍山法善寺』と刻まれた石碑が建つ出口は大阪難波駅へと続く千日前商店街に面していた。てっきりもっと奥まった場所にあると思っていたので、大通りに面していたのは拍子抜けで、でも同時に安心もしていた。ここから駅に向かえば家に帰ることができる。その前に私はミライに伝えておきたいことがあった。


「ミライ、私も、私だけの何でもありバーリ・トゥード、見つけてみるよ」


 ミライが片手を肩の高さに挙げて、顔を綻ばせた。


「次会う時まで楽しみにしとくで、ヒマリの何でもありバーリ・トゥード!!」


 私達はハイタッチをして別れた。私は一度だけ振り向いて手を振って、それからは振り返らなかった。何でもありバーリ・トゥード。黄昏時の商店街を闊歩しながら、何度か声に出してみる。まだしっくりは来ないけれど、口にする度に目の前が明るくなるような気がした。それはきっとミライをはじめ、法善寺横町の人々の思いやりが籠もっているからだろう。宵闇の中、駅へと向かう私の心には燦然と輝く穏やかな火が灯っていた。



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法善寺横町バーリ・トゥード 紅りんご @Kagamin0707

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