ヒーローがついた、たったひとつの嘘

七森蒼

***


 九月の日射しが満ちる河原へ降りると、ひとりの少女が踊っていた。でたらめなステップを踏みながら、白いカーディガンを無垢な翼のようにひるがえしている。

 ケイは、少女に声をかけた。


「やあ、サナちゃん、久しぶり」


「え?」彼女は振り返った。「わたし、サナじゃありませんけど」


 予想していた答えに、ケイは、『記憶カード』を胸ポケットから取り出した。画用紙を四角く切り取っただけの物だ。

 サナは、警戒した表情をしながらも受け取ったカードに目を落とした。


「あなたはヤナギ佐奈サナ。あなたは記憶障害です。まわりの人間がおぼえられないから、写真を撮り、そのひとの情報を書き留めています」


 声に出して読み上げ、カードをひっくり返すと、ケイの写真が貼ってある。ケイの名前、弁護士という職業、そして、『おにいちゃんの友達』と書かれていた。


「不思議だけど、サナちゃんは、自分の筆跡は覚えていられるんだ。記憶カードを自分で書いて、信用している人間に配っているんだよ」


 さらに、ケイは、彼女が今日家族でバーベキューをしに河原に来ていること、ケイが来月引っ越すからもう会えなくなること、今ごはんが出来たことなどを教えた。20分前に同じ会話をしたことは、言わなかった。

 話を聞きながら、サナは柔らかく笑っていた。赤子のような笑みだった。19歳になるが、その年頃の女の子が纏う毒々しさのようなものがちっとも感じられない。サナの本質をあらわす表情だとケイは思った。


「ごはんの前にもっと遊ぶの!」


「えっ、ちょっと、サナちゃん!」


 ケイが引き止めるのを聞かず、サナはくるくると踊りながら水辺へ駆けていく。


「ケイ先生! サナ! ごはんですよ!」


 二人の様子を伺っていたらしいタイミングで、土手のてっぺんにいるサナの養母が、声を張り上げた。調理で汚れた手を前掛けでぬぐい、彼女も『記憶カード』を翳した。


「サナ! あなたのお母さんよ、いらっしゃい!」


 どうにかサナを連れて土手を駆け上がると、もくもくと木炭の煙が上がっている。野菜の甘さと肉汁が混じり、絶妙においしそうな匂いがしている。


「座れ! サナは来い来い、読め!」


 煙のむこうから、サナの義父が軍手をはめた手で『記憶カード』を翳した。

 夏の最後のような、からりと乾いた晴天だった。ケイたち4人は、バーベキューを囲んで折り畳み式チェアを配置し、ほどよく焦げた肉や野菜や焼きリンゴを取り合うようにしてペーパープレートへ乗せていった。


「ケイ、どうして今日がケイに会う最後の日なの?」


 義母と焼きリンゴを箸で半分こにしながら、サナが聞いた。説明する傍から忘れてしまうから、彼女の『どうして』は尽きることがなかった。


「僕は埼玉に引っ越すことになったんだよ」


「へえ。ケイはどうして弁護士になったの?」


 今は傷口を抉るような質問だった。


「僕は、昔から、ヒーローに憧れていたんだ。みんなの幸せと平和をまもる、正義の味方になりたかったんだよ」


「しあわせをまもるの? ほんとうに?」


 サナが生真面目な表情で聞く。

 そうだよ、と迷いなく答えられたら、どんなにいいか。だが、ケイは限界に達していた。35の身の上で、悲劇を見過ぎたと感じていた。

 さいわい、独り身で、身軽だから、今の事務所を辞め、田舎へ引っ込むことに決めたのだ。次の職場は安易に見つかった。刑事弁護の仕事以外なら、どんな仕事でもよかった。


「ヒーローは、あきらめちゃったんだ」


 言ってから、自分の言葉に打ちのめされて、ケイは眉を掻いた。


「こらこら、ケイ先生を困らせちゃ、だめだろう」と気まずい空気を察したらしい様子で、養父がサナをなだめた。

 サナは解っていない風に首を傾げたが、急に立ち上がり、ピクニックテーブルの方から画用紙を持ってきた。一枚ちぎって、ケイに渡してくる。


「上手だね」


 さっき描いたものだろう。青い空と青い川。風景画と呼ぶのはおこがましい、小学生の宿題レベルの代物だった。


「お兄ちゃんにプレゼントしたいの。ケイが渡してくれる?」


 一瞬場が凍りついたのを感じたが、ケイは快く承諾した。

 サナの、3つ上の兄テツトは、殺人罪で服役している。15歳のとき、彼は、実の父と母を殺したのだ。

 その頃ケイは司法研修をしていて、その研修先がテツトの国選弁護士だったことで、事件に関わりを持ったのだった。

 当時12歳だったサナは、図書館から帰宅したところで、テツトが父と母を風呂場で解体しているのに遭遇した。そのときの凄まじい精神的ショックで記憶障害に陥ったのだった。

 サナは、事件より以前の記憶が一切無い。

 新しい記憶をつくるのも困難らしく、学校に行ったり、働いたりという、並みの生活が出来ないでいる。

 唯一の例外として、自分に兄がいることは覚えているようだが、それは記憶というより偶像としてであり、たとえば、兄が親を殺したことも、彼がそれによって懲役中だということも解っていない。

 他に兄弟はなく、サナは一日にして家族全員を失ったに等しかった。記憶障害に理解のある、医者の老夫婦が彼女を養子に迎えてくれたことは本当に幸運だった。

 一方、兄のテツトは、有罪判決が下ってから、世界との接触を遮断した。7年経った今も変わらず、面会や文通の申し出を誰からも拒絶している。その唯一の例外がケイだった。

 サナは自分が兄に会えない現実を解っていないはずだが、何か感じることがあるのか、差し入れは必ずケイに頼む。

 最近は絵を描くのが好きなようだ。なかなか上達しないのは、記憶障害で新しく学べないせいか、圧倒的に才能がないのか、見極めが難しいところだった。


「ケイに会えなくなったら、さびしいなあ」


 サナが子供のように口を尖らせた。

 どうせ忘れるだろ、僕のことなんて。

 そう喉まで出かけ、ケイは曖昧に笑んだ。

 テツトとサナの兄妹も、ケイが見過ぎた悲劇のひとつだった。

 ヒーローになれないまま、現実に押し潰された。負け犬の自分を誤魔化すように、時々、誰でもいいから傷つけたくなる。

 そんな自分に嫌気がさすのにも、疲れていた。





 ケイが、テツトが服役する刑務所を訪れたのは、それから間もなくのことだった。

 サナの絵画プレゼントは先に手紙と一緒に送ったが、テツトが一度見る機会を得た後に刑務所側が預かることになったようだった。


「引っ越すの?」


 手紙であらかじめ事情を説明していた。テツトは、アクリル板のむこうでパイプ椅子を蹴って腰下ろすやいなや、そう聞いてきた。


「うん、遠くなるから、面会に来るのはこれで最後になると思う」


 ケイは感傷で声が震えそうになったが、鼻で笑われた。


「俺に泣いてほしいの? どーでもいいよ」


 テツトの左手は包帯が巻かれていた。またケンカしたか、いじめられたのだろう。彼が弱音を吐くことは金輪際無かったが、ケイはそう察していた。

 テツトは、包帯を巻く方の手で頬杖をつき、天井のシミを数えはじめた。会うのは最後なのだ。そんななか、意地でも目を合わせまいという意志が彼から感じられて、どうしてなのか、急に、ケイは7年間溜まっていた言葉が溢れ出した。


「テツトくん、どうして僕にだけは会ってくれるの?」


 いや、そんなことは些細な事だった。


「7年前の公判で、どうして親に虐待されていたことや強制売春のことを認めなかったの? 家庭環境に問題があるとされれば、減刑になったかもしれないのに」


 懲役、9年以上、13年以下の不定期刑。

 当時15歳だったテツトに下された実刑判決だった。未成年犯罪で異例の重刑だった。


「僕なりに考えてたんだ。ずっと。ねえ、テツトくんは、警察の取り調べで、サナちゃんが記憶障害になったことを聞かされたよね? そのとき、どう思った?」


「なんだよ急に」


 急に質問責めにするので、テツトが面食らっているのが解ったが、ケイは自分を止められなかった。


「サナちゃんはやっと幸せになれる。テツトくんはそう思ったんだろう? あの日、サナちゃんに殺しを見られたことは予想外だったんだろう? 見られたくなかったんだろう? だから、サナちゃんが記憶喪失になったと聞いて、君は喜んだ。親の虐待のことも、兄がその親を殺したことも、全て忘れられるなら、サナちゃんは幸せになれる。裁判で、虐待のことを認めれば、君は減刑になったかもしれない。だけど、虐待があった事実が残ってしまう。サナちゃんがいつか知ることになるかもしれない。だから、自分一人で背負ったんだろう? サナちゃんを悲しませる過去を全て否定して、自分一人が悪者になったんだ」


 7年前、まだ研修生だったころ、ケイは拘留所にいたテツトに出会った。テツトは、差し入れの弁当を食べながら、おはしを、こぶしを握るようにして使っていた。

 先月のバーベキューで、サナは、おはしがちゃんと使えていた。

 何度忘れても、何度だって握り方を教えてくれるひとたちが周りにいるからだ。

 サナの柔らかくて白い手と、テツトの包帯にまみれている手を、ケイは見比べてしまう。これが、二人の間に7年かけて積み上がった差なのだと痛感するのだ。

 テツトは、束の間、無表情にケイを注視した。


「7年も前のことなんか、ちゃんと覚えてねえよ」


 やがて、彼は吐き捨てるように言った。

 ケイは、眼鏡をはずして、涙ごと瞼を押さえた。


「僕に何かさせてくれないか? 君のために何かしたいんだ、もう最後だから」


 壁時計が秒針を進める音だけがしていた。瞼の闇のなか、ケイは、ふと、テツトの声を聞いた。いつも通りの、軽薄そうな声だった。


「久しぶりにサナの夢をみた。小学校のとき、校庭のすみっこに、タイムカプセルを一緒に埋めたんだ。その夢」


 何かさせて欲しいというケイの願いを、テツトは聞き入れたのだ。ケイはそう思った。

 面会終了のベルが鳴る。

 最後になる、その音を聞きながら、ケイは、テツトの去っていく背中が見えなくなるまで手を振った。





 もう二度と来ないはずだったその一軒家へとケイが足を運んだのは、引っ越し当日のことだった。

 ギンモクセイが泡のようにふわふわと咲きこぼれる裏道を歩いていくと、垣根のむこうで、少女が踊りのステップを踏んでいるのが見えた。

 ケイは、垣根の外側から声をかけた。


「サナちゃんは、ずっと嘘をついてるんだね」


 サナが回るのをやめ、振り返った。


「君は記憶障害なんかじゃない。全部覚えていて、だけど覚えてないふりをして、お兄ちゃんを安心させてあげてるんだろう? サナちゃん、小学生のころ、君と君のお兄ちゃんは、文具屋さんから、12色の色ペンを盗んだ。きれいだったから。だけど、親に見つかったら叱られると思って、こっそり埋めたんだ。それをタイムカプセルと呼んだ。テツトくんもね、覚えていたよ。『大丈夫になったら、安全になったら、掘り起こす』、そう約束しただろう? ……サナちゃん、君が絵を描き始めたのはここ3年くらいのことだ。君は、安全に、大丈夫になったんだね?」


 ケイは、テツトが言ったとおりの場所を掘ったのだ。けれど、何も出てこなかった。そうして、ぼこぼこと地面にあいた穴ぼこを見回しながら、ひとつの可能性が頭に浮かんだ。

 サナが何か言ってくれることをケイは期待したが、彼女は黙っている。逆光で、どんな表情をしているのかも見えない。

 だが、沈黙こそが答えなのかもしれない。


「テツトくんには新しい色ペンを買って、差し入れるよ。掘り起こした物だと、嘘をついてね」


 僕も、もうすこし、ヒーローを頑張ってみることにしたよ。

 気恥ずかしさから、小声で付け足し、ケイは垣根から離れた。


「ありがとう」


 幻聴のように、かすかな声が聞こえたのはそのときだった。

 ケイは思わず足を止めた。

 7年間で初めて聞く、サナの本当の声だった。

 最初で最後になるだろう声だった。サナは演じ続けるからだ。痛い過去も、恐ろしい事件も、何も知らない、無垢な妹を、大好きな兄のために、生涯かけて演じ続けるのだろう。

 ケイは目を閉じ、サナの声が耳の奥を暖めた感触を辿った。

 自分だけは、それを忘れないように。


「あら! ケイ先生、また来てくださったんですか!」


 縁側のドアが開き、養母が現れた。驚いた声を上げられて、ケイは笑いながら「まあ、ほんとうに最後ですよ」と答えた。

 そして、彼は裏戸を開くと、芝生を踏みならして踊るサナへと近づいた。胸ポケットから『記憶カード』を取り出す。


「やあ、サナちゃん。ひさしぶり」 


 少女が振り返った。



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