健康な世界で、最も不健康だった男

イミハ

最後の喫煙者

灰皿を使う人間は、もう俺しかいない。

 正確に言えば、「灰皿」という言葉自体が、公式の辞書から消えた。

 かつて街の至るところにあった喫煙所は、今では小さな公園や無人の充電ステーションに姿を変えている。ベンチに腰かけて一服する人間はいない。誰も煙を吐かない。吐く必要がない身体に、世界は作り替えられた。

 それでも俺は、吸った。

 倉庫の奥、廃棄予定の保管室。封印された箱の中に、紙巻きタバコが残っていた。正確には「文化遺物・有害嗜好物」とラベルが貼られている。管理AIは処分対象として認識していたが、なぜか即時廃棄はされていなかった。

 俺は一本を取り出し、慣れた手つきで火をつけた。

 肺に入ってくる煙は、痛みを伴った。

 それでも、安心する。

 医者は言った。

「あなたは理解しているはずです。健康上の合理性が、喫煙を完全に否定していることを」

 俺はうなずいた。理解している。ずっと前から。

 それでもやめなかった。

 ある日、正式な通知が届いた。

《確認された結果、あなたが全世界最後の喫煙者です》

 文章は淡々としていた。非難も同情もない。ただ事実として書かれている。選択肢が三つ、丁寧に並べられていた。記憶消去。強制治療。社会からの隔離。

 俺はどれも選ばなかった。

 隔離される代わりに、条件付きで生きることを許された。公共空間で吸わないこと。煙を誰にも見せないこと。存在を主張しないこと。

 世界は、俺がいないものとして回り続けた。

 年を取った。

 指は震え、火をつけるのに時間がかかるようになった。一本吸い切る前に、息が上がる日も増えた。

 それでも吸った。

 理由は簡単だった。

 俺の人生には、これがあった。

 これがあったから、ここまで来た。

 最期は病室だった。消毒された空気の中で、俺は医者に頼んだ。

「棺に、これを入れてくれ」

 差し出したのは、最後の一本だった。

 医者は少しだけ迷い、それからうなずいた。

「記録には残りませんが」

「それでいい」

 葬儀は簡素だった。参列者はいない。煙の匂いもない。

 ただ、棺の中に、一本のタバコが眠っている。

 誰にも吸われることはない。

 それでも、俺は満足だった。

 煙は消える。

 文化も、習慣も、人生も。

 だが消える瞬間まで、確かにそこにあった。

 それで、十分だ。


 正しい世界の中で、間違ったまま死ねたことだけが、俺が最後まで生きていた証だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

健康な世界で、最も不健康だった男 イミハ @imia3341

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る