第2話
魔力とは、目に見えないものなのでどういったものなのかと聞かれても言葉では上手く紡げないし、説明も出来ない。
ただ魔術師の観点から言うと、風によく似ているものだ。
心地良い風、というものがあるが、
魔術を操る時はその心地良い風を感じることに似ている。
あるいは、風を上手く掴むことかもしれない。
風に似ているというのは決して単なる比喩ではなく、風向きを探る時の感性が、魔力を使う時の集中力や意識の持って行き方に通じるものがあるのだ。
頬に触れる風に、ラムセスの意識は覚めた。
時間の経過など数えるのはやめて久しいが【天界セフィラ】にやって来てから彼は常に意識の醒めている体だったため、何年ぶりにこんなに熟睡しただろうという感じだ。
ぼんやりしていた頭のもっと奥に、眠りながらも何かを考え、視ていた自分がいるとそれだけは分かり、ラムセスは不満だった。
夢の中まで自分の思考を記録出来たらいいのに。
数日間酷使した脳は疲労だけが抜けて、
また集中力と英気といい意味での焦燥が満ちている。
叩き込んだ知識に触発されて、考えたいことが山ほどある。
目覚めてすぐラムセスは湯に浸かって、
浴槽の縁に後頭部を預け、天を仰いで目を閉じた。
とにかく、研究の種は脳の奥に押し込んでおく。
これが表層にあると、書物を読む集中が妨げられるのだ。
まずは読む。これだ。
読みを怠っては考えるも何もない。
いい感じに、夢を見たことで乱雑に散らかっていた頭の中が整理整頓された。
浸かっていた湯からあがって着替えていると、白いバットが飛んで来た。
側の棚の、隙間に入り込む。
ああいう細い隙間が好きなようだった。
「よう、生きてたか。
どんくらい寝ていたか自分じゃ見当もつかんが、俺がこういう状態になると必ず飼ってるバットとか貴重な植物が餌をもらえなくて死んで来たが、メリクがいてくれて良かったな。ちゃんと餌をやっててくれたらしい」
ぷー、と鳴いている。
「その声はどういう感情なのかよく分からん」
簡単な着替えを済ませ、ラムセスは寝室から出た。
「メリクがいない時くらい、お前にコーヒーとか紅茶とかちょっとは淹れて欲しいもんだが、まあそんなぷーとかぴーとか言ってるようじゃ、無理だろうな」
書斎は本の海、紙の海だが、もはや気にならない精神状態だ。
時間は限りある。
一秒も無駄に出来ない。
「ご主人様の邪魔をするんじゃないぞ。遊び相手が欲しかったらメリクの弟子たちのとこにでも行って遊んで来い。当分お前の出番はないからな」
ラムセスは綺麗に整えられた燭台の蝋燭に手を翳して三つの火を一瞬にして灯すと、深く椅子に腰かけ分厚い本を膝の上で広げた。
読み込み始めて数秒してラムセスはふと組んだばかりの脚を解き、本を机の上に戻して立ち上がった。
隣の部屋に行って、シンとした空気の中で足を止める。
「……?」
もう一度歩き出して、部屋を出た。
夜に沈んだ天宮の、中でも広大な宮殿の隅に当たるこの一画は普段からも人通りは少ない。
静まり返った廊下の、斜め向かい側の部屋の扉が、少し開き明かりが漏れている。
顔を覗かせラムセスは目を瞬かせた。
ここもすでに本を運び込んでいたが、まだ足の踏み場はある。
部屋の一番奥の窓辺にメリクがいた。
燭台を住む者のいない窓辺に吊るされた鳥かごの中に入れて、
その側で、自分の脚を机代わりに黙々とペンを走らせている。
彼は光があっても見れないので、燭台は字を読むためではなく、この時間経過の曖昧な【天界セフィラ】において時計代わりにしている。
あの蝋燭は十時間で大体消えるので、その目安になるのだ。
ラムセスがさすがに疲れたから寝て来ると言って寝室に引っ込んだ時、彼もこの辺りの散らかしを片付けてから休んで来ますと言っていたような。
もう目覚めて働き出したのか、と一瞬は笑いそうになったラムセスだが、すぐに入り口に寄り掛かってそのまま窓辺のメリクを見つめた。
魔石を溶け込ませたインクは文字の劣化を防ぐのが目的だが、おかげで目の見えないメリクが魔力を感じ取って書くことが容易い。
メリクが今書いているのは、莫大な書物の内容をより効果的に持ち出し可能な状態にまとめる記録法で、ラムセスがサンゴール宮廷に招かれた当初、全く整っていなかった『魔術的な記録を取り、共有する』という環境を整えたのだが、後世のサンゴール魔術学院で学んだメリクがしっかりとそれを魔術師の技として会得していることを、ラムセスは妙に嬉しく思う。
(本当に、俺が城に行った時は何にも用意されていなかったんだがなあ……)
ラムセス・バトーは二つの魔術を献上した後、
後世では突如姿を消したと記録されているが、実際にはそれは正しくない。
献上した際、【
ラムセスが城にいる間に補佐官として連れ回していた魔術師連中全員会得させ、
その人間達に弟子を取らせそいつらにも叩き込ませていけば、
三年でサンゴール王国の国境警備と現実的な護国の役目は神官でも騎士でもなく、
魔術師の役目になるだろうと王妃に告げ、自分は国を去ることも告げたのだ。
ラムセスもあまり、この時の記憶は鮮明ではない。
その後あまり顧みなかったのでそうなったのだと思うが、
しかし部分的には鮮明に覚えている所もある。
国を出ることを告げた時の王妃の驚いた表情、穏やかで冷静な人柄の、
『王妃の中の王妃』と呼んでいいような、そういう素質を持った彼女の、
初めて見せる表情だった。
ラムセスは実は、その頃には自分の、国における立場の意味もちゃんと把握していたため、公に辞任することを告げると煩わしい横槍が山ほど入ると思ったので、王妃にだけ告げて去ることを決めたのだ。
彼女だけは穏やかに、冷静に送り出してくれるだろうと思えたからだ。
だが実際は、どんな時でも気丈に受け止める人だと思っていた彼女の、初めて見せる動揺の表情を見た。
自分が去ると告げただけで、しかも国を出たいと思った理由は、これ以上は城の窮屈な環境に耐えられそうにない、そろそろ自分の好きなようにやりたい研究に没頭したいのだと、そんな程度のものだったから。
それなら貴方の望む環境を整えましょう、静かに研究に打ち込める場所を、と動揺を押し隠し王妃は提案したが、その時ラムセスは気づいてしまったのだ。
――――自分が国を去る、本当の理由を。
それは紛れもなく、この国に彼女がいるからなのだ。
ラムセス城にやって来た理由も彼女だったが、
去らせるのも同じ。
そこから先は突き詰めたくもないし、またその必要もなかった。
出て行きたい。
それだけが自分の中で確かに定まった想いであり、その他の願いなどはなかった。
ラムセスは城からの庇護など無くとも、その気になれば自分と社会を遮断出来るのだ。
だから城は出ても、国を出る必要はなかった。
しかしラムセスが思い描いたのは、最初から国を出る、その一つだけだったのである。
自分があれほど人間らしい感情で目測を見誤ったのは、あの時だけだっただろうと思う。
王妃は、数回の問答でラムセスが何をしたいのかを察したようだ。
どうしたいのか、
どうしたくないのかも。
『あなたに、感謝を』
これ以上ここにはいたくないと思い、背を向けて歩き出したラムセスに、最後に投げかけた王妃の声はやはり穏やかだった。
ラムセスは肩越しに振り返る。
振り返るべきではなかったと思うが、確かめたかったこともあった。
……そして彼女は、最後の最後までラムセスからの敬意を失うことはなかったのだ。
『……深い感謝を』
穏やかな、優しい眼差し。
自分はこれからも城で王を支えて生きていくことを示しながらも、
その瞳の奥の光で、心の欠片を見せてくれた。
本来王妃が、見せる必要もないものだ。
彼女には人が人と相対する時に、必ず自分は誠実にあろうとする、そういう所があった。
最後の別れだと知っていたから、彼女はそれを見せてくれた。
ラムセスは両親が物心つく前に死んでおり、親類の許に引き取られたが、
養育出来ず教会に預けられて以後は孤児のような生活だった。
それでも彼は早くに自分に家族が天から与えられなかったこと、そして血が繋がっていなくても慈悲や尊敬を向けられる人間がいることに気付き、何より幼くして魔術に出会えたから、少しも家族がいないことを悲しんだことはない。
しかしあれほどの愛情を他人から向けられたこと、実感出来たことはない。
そして与えてくれた相手が、聡明な彼女だったことは幸運だ。
あれで少しでも感情に流されてこちらに踏み込んで来れば、ラムセスは彼女すら嫌悪したと思う。
そうはならなかった。
彼女は最初から最後まで、歴史に名を残すほどの才気に満ちた聡明な王妃だった。
ラムセスは生粋の魔術師である。
当時はまだ人間として二十代前半で、いかに誰かに心惹かれようと、魔術師としての本能に抗いたくはなかった。
愛情はあったかもしれないが、それが全ての頂点にはならなかったのだ。
だから愛情に縛られたいとは少しも思わなかった。
サンゴール王国にもしあのまま残っていたら、いずれにせよ、お互い得られた尊いものを結局失っていたはずだ。
だが彼女は無理に繋ぎ止めず、解き放ってくれた。
……だからこそ彼女は、
ラムセスにとって永遠に敬愛の念を向けるべき人となったのである。
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