窓辺で生きた私の、ひとつの恋

イミハ

彼が落ちる夜まで

私は、窓から外を見るのが好きだった。

 好き、と言っていいのかは分からない。

 外に出られない私にとって、それは唯一の逃げ道で、同時に、残酷な習慣でもあった。

 昼間はカーテンを閉めている。

 太陽の光は、私の身体を確実に壊すから。

 だから、夜。

 世界が暗くなって、

 人も光も音も少しだけ優しくなる時間。

 私はカーテンを少しだけ開けて、街を見下ろす。

 車のライト。

 コンビニの明かり。

 終電に急ぐ人影。

 その中に、彼はいた。

 オサムさん。

 名前を知ったのは、ずっと後だった。

 最初はただ、毎晩同じ時間に同じ交差点を走り抜ける人、という認識だった。

 スーツ姿。

 少し猫背。

 走り方が、必死すぎる。

 ――あの人、いつも追いかけられてるみたい。

 そう思ったのを覚えている。

 雨の日も、風の日も、

 彼は立ち止まらなかった。

 信号が赤に変わる直前、

 転びそうになりながら駆け込む姿を、何度も見た。

 不思議と、目が離せなかった。

 きっと、理由は簡単だ。

 彼は、生きていた。

 苦しそうに、無様に、でも確かに。

 私は、生きていなかった。

 この家には、何でもある。

 高価な家具。

 広い部屋。

 困らないだけのお金。

 でも、外がない。

 私の世界は、窓の内側で終わっている。

 誰かとすれ違うことも、

 風を感じることも、

 失敗することも、できない。

 ――代わってほしい。

 ある夜、そう思ってしまった。

 彼の人生と、私の人生を。

 最低な考えだと分かっていた。

 でも、その考えは、消えてくれなかった。

 彼は、毎晩、少しずつ疲れていった。

 走る速度が落ち、

 背中が丸くなり、

 時々、立ち止まるようになった。

 私は、窓辺で手を握りしめた。

 ――やめて。

 誰にも届かない声で、何度もそう願った。

 台風の夜。

 風が、窓を叩いていた。

 街は荒れているのに、

 彼は、いつも通り、そこにいた。

 でも、その夜は違った。

 走っていなかった。

 立ち止まって、

 橋の上で、動かなかった。

 胸が、凍った。

 嫌な予感という言葉では足りなかった。

 もっと直接的な、終わりの匂いがした。

 ――待って。

 私は、立ち上がった。

 頭が、真っ白だった。

 計画なんてなかった。

 ただ、

 「この人がいなくなったら、私は一生、後悔する」

 それだけが、確かだった。

 夜だったのは、幸運だった。

 太陽は、なかった。

 外は、地獄みたいに冷たくて、

 息をするだけで胸が痛んだ。

 橋の上で、

 彼が、欄干を越えるのを見た。

 時間が、止まった。

 ――お願い。

 私は、走った。

 命のことなんて、考えなかった。

 水は、想像以上に重かった。

 腕が、ちぎれそうだった。

 視界が、歪んだ。

 それでも、

 彼の手を掴んだ。

 温かかった。

 ああ、この人は、ちゃんと生きてる。

 その事実だけで、十分だった。

 助けたかったのか、

 助かりたかったのか、

 もう分からない。

 ただ、

 この人には、外を生きてほしかった。

 私の代わりに。

 日記を書いたのは、その後だった。

 文字にしないと、

 気持ちが、消えてしまいそうだったから。

 最後の一文だけ、何度も書き直した。

 ――重くなりすぎないように。

 ――でも、嘘にならないように。

 「大好きだったオサムさんへ。

 私の代わりに、セカンドライフを歩んでください。」

 それで、よかった。

 きっと、これ以上の言葉は、いらない。

 私は、窓辺に戻る。

 もう、外を見る必要はない。

 彼が走る姿は、

 これからも、私の中にあるから。

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窓辺で生きた私の、ひとつの恋 イミハ @imia3341

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