僕と巨大なダチョウの卵

桜木 菊名

第1話

 蒸し暑い夏の午後、僕の家に大きな荷物が届いた。送り主を見ると、大学時代の友人からだった。


『元気にしてるか?おもしろいものを見つけたから送るよ』


 ダンボールに走り書きされたメッセージに、相変わらず自由な奴だな、と苦笑いしながら中を開けてみると、そこには巨大な卵があった。


「はぁっ?」


 思わず呟いた声は、誰もいない家の中でやけに大きく響いた。

 卵は白というより、少し黄みがかった象牙色で、表面は陶器みたいにつるつるしていた。両手で持ち上げてみると、ずっしり重い。


「これ……本物、だよな?」


 ダンボールの底を探ると、くしゃくしゃに丸められたメモが一枚出てきた。


『ダチョウの卵。割らないように注意!どうするかは任せる』


 説明はそれだけだった。相変わらず最低限にもほどがある。

 とりあえずテーブルの上に置いて、卵と向き合う。直径は僕の頭より大きい。冷蔵庫に入る気もしないし、そもそも入れていいものなのかも分からない。


 食べてみる?

 いや、これ美味いのか?

 育ててみる?

 だけどこれは……孵化ふかはしないやつみたいだな。


 戸惑う僕の気持ちとは裏腹に、その卵は薄暗い部屋のテーブルの上で堂々と鎮座していた。

 コツコツと叩いてみると、中身がぎっしり詰まったような重い音がする。


「なんて面倒なものを送って来たんだよ……」


 僕は思わず舌打ちして、恨めしげに卵を見つめる。しばらく睨み合った後、とりあえず、冷蔵庫に入れようと思い立った。

 だが、冷蔵庫の中は物がぎっしり詰まっていて、場所がない。

 僕は発泡酒を外に出して冷蔵庫の棚を外し、やっとのことで奴を押し込んだ。

 冷蔵庫の中で、奴はスポットライトを浴びた主役のように圧倒的な存在感を示していた。


 こうして、抜け殻みたいな僕と威厳のある卵の奇妙な共同生活が始まった。


****

 僕の朝は遅い。昼近くまで寝て、二日酔いで痛む頭を抑えながら、のろのろと朝昼兼用のごはんの支度をする。

 一昨日炊いたご飯をレンジでチンして鮭フレークをかけたものと、インスタントの味噌汁を作る。

 妻が生きていたころは、もっと彩り豊かな食卓だったのにな、と傷だらけの胸がチクリと痛む。

 巨大な卵はそんな僕の様子を気にすることなく、涼しげな表情で冷蔵庫の中に居座っていた。


「……お前は図太いな」


 昨日冷蔵庫から追い出した発泡酒の山を眺めながら、僕は卵をそっと撫でた。

 ひんやりとした無機質な触り心地がまるで骨壷こつつぼのようで、僕は慌てて手を離した。


 砂を噛むような食事を終えると、リビングのソファで横になりながら、テレビを観る。

 話題の食べ物に、流行りの服、新しく出来たデートスポット……

 僕にはもはや関係の無い情報の塊だ。

 だけど、静かすぎるこの空間を紛らわせてくれるかけがえのない相棒だ。そうやって子守唄のようにテレビの音を聞いていたら、いつの間にか寝てしまった。


「見てくださいっ!今話題の卵料理店にやって来ましたよー!」


 目を覚ますと、いつの間にか外は暗くなっていた。真っ暗な部屋の中でテレビのリポーターの顔だけが異様に輝いて見える。

 彼女が食べているのは、ふわふわのオムレツがのったオムライスだった。そして、その隣にはとろりとした黄身がのったカルボナーラが置かれていた。


 あの冷蔵庫の中にある巨大な卵なら、オムライスだろうがカルボナーラだろうが、プリンだろうが何にでもなれるだろう。

 だけど僕と一緒に居る限りは、ただの冷蔵庫のオブジェだ。


 僕はふと、卵に話しかけたくなった。


「なあ、僕のこと、どう思う?」


 もちろん返事はない。ただ冷蔵庫の中で、存在そのものが重く、静かに鎮座している。

 けれど、その無言の存在感が、妙に心を落ち着かせる。まるで、誰かがずっと隣に座ってくれているような安心感があった。



****

 巨大な卵と暮らし始めてから、気づけば一週間が過ぎていた。

 奴は相変わらず僕の発泡酒を押しのけ、冷蔵庫の中に堂々と居座っている。

 ときどき殻に水滴がつくので、そのたびに僕はそっと、周囲を拭いてやった。


 その日は、うだるような暑さだった。

 僕は昨日の夜冷やした麦茶を取ろうと、冷蔵庫の奥にあるペットボトルに手を伸ばした。

 だが、その時に誤って、巨大な卵にぶつかってしまった。


「あっ……」


 気づいた時にはもう遅かった。

 奴は冷蔵庫の中を転がり、あっという間に床に吸い込まれるように落ちていった。


 ガツンっ……!

 

 心臓が一拍、遅れて跳ねた。
 僕は息を止めたまま、しばらくその場から動けなかった。


 ——割れた。


 どっと絶望感が襲ってくる。

 震えながら、おそるおそる残骸を拾おうとしゃがみ込むと、奴は何事もなかったかのようにゴロンと転がって来た。

 ひびもない。
 白い殻に、さっきまで冷蔵庫にいた証拠みたいな水滴が光っているだけだ。


「……強すぎだろ」


 思わず、笑いともため息ともつかない声が漏れた。

 床に落ちたのは卵なのに、どうしてか、救われたのは僕のほうだった。


****

 それから、僕は奴を殊更大事に扱った。

 冷蔵庫にプラスチックケースを入れて、それを奴の寝床にしてあげた。

 そして、毎日風呂に入れるように優しく磨いてやった。

 何か命が生まれるわけではないけれど、何かを慈しむ生活は今の僕にはちょうど良かった。


 そうやって更に一週間も経った頃、奴に異変が起き始めた。

 いつものように優しく磨いてやっていると、なんだか妙に湿っぽい。


「……お前、こんなに汗かいていたっけ?」


 胸騒ぎを覚えた僕は、くまなく奴を観察した。匂いや表面の様子、光のすけ具合など。

 その結果、奴の中身はゆっくりと腐敗に向かっていることに気づいた。


「高いところから落ちても平気だったのにな……」


 真っ白な陶器のように美しい卵も、時間には勝てなかったらしい。

 僕は冷蔵庫から奴をだして、じっと見つめた。

 固くて扉もないその姿は、中身を守る強固なカプセルのようだったが、今は決して出ることの出来ない棺桶のように見えた。


「……そっか。お前を解放してやらないとな」


 そう呟いて、僕は滅多に使わない戸棚をごそごそあさり始めた。

 目当てのものは引き出しの底のよれた袋の中に入っていた。


「大丈夫、怖くないぞ。今出してやるからな」


 僕は巨大な卵の底をドライバーとハンマーで優しく叩いていく。

 円を描くように慎重にコツコツ叩いていると、ようやくぽっかりと丸い穴が空いた。

 そしてカーテンを開けるように薄皮を剥がしてやると、金色に輝く黄身が見えた。


「ほら、お前はもう自由だぞ。オムライスにだって、プリンにだって、カルボナーラにだってなれるんだ」


 そう言いながら、ボウルに卵の中身を出した。奴はつるんと勢いよく飛び出して、後には陶器のような殻だけが残った。

 太陽のように輝いていた黄身を無くしたその殻は、とても寂しそうだった。

 だから僕は重いカーテンを開け、ベランダに出た。ぽつんと一人残された殻に、太陽を見せてあげたかったから。

 

 久しぶりに見上げた真夏の空は眩しくて、思わず目が滲んだ。

 ぽとり、ぽとりと涙が落ちる。

 それを誤魔化すように僕は友人の川島にメッセージを送った。


『お前から貰った卵を割った。応援を頼む』


 そう短くメッセージを送ると、川島はすぐさま電話をかけてきた。


壮琉たけるっ!元気かっ!?卵割ったって……』


 こちらを案ずるような声音に僕は思わず苦笑いをする。


「うん……。お前から貰った卵を割ったんだ。だけど、思った以上に量が多くて困ってるんだ。なあ、助けてくれないか……?」


 僕が弱々しく言うと、川島は一瞬息を詰まらせた後、大袈裟に笑った。


『ははっ、そうか。"応援"ってそういうことか。分かった、すぐ行く。フライパン持ってくから待ってろ』


「いや、フライパンはあるよ……」


『いいや、俺のがいい。でかいやつだ。

あとは、深見ふかみ大吾だいごも誘うからな!』


 同窓会かよ、と僕が呟く前に、通話は切れた。


****

 それから三十分もしないうちに、汗だくの川島がやってきた。

 真夏の太陽をしっかり浴びた小麦色の肌には、巨大なリュックを背負っていた。


「久しぶりだな、壮琉たける。……少し、痩せたか?」


「まあな。発泡酒ダイエットだ」


 僕がワザと肩をすくめて言うと、川島は泣きそうな顔になった。


「……電話、ありがとうな」


 そう言って、くしゃりと笑うと、僕が抱えている真っ白な卵の殻を見つめた。


「それが例の……。改めて見るとでけーな」


「お前が送ったんだろ」


 僕が不貞腐れて言うと、川島はくつくつと笑った。


「よしっ!じゃあ、中身の方も見せてもらおうか」


 そう言って、どかどかと部屋に入ってくると、リュックの中から巨大なフライパンとたくさんの食材を出した。だから、僕は冷蔵庫に大切に保管しておいた中身を出した。


「うわっ!やべー……。何人分できるんだよ。やっぱり深見ふかみ大吾だいごを誘っておいて正解だな」


 川島はカラカラと笑うと、さっとエプロンをつけて、手際良く料理をし始めた。


 まずは巨大なフライパンでゴーヤチャンプル。次は僕の家の小さなフライパンで卵焼きと炒り卵。深見ふかみ大吾だいごが到着する頃には、僕と二週間過ごした卵は色とりどりの料理に変わっていた。


「すげー!何これ?卵縛りなの?」


「ダチョウの卵割ったから来いってなんだよ?」


 ほぼ同時にやって来た深見と大吾はテーブルに並べられた豪華な料理に目を丸くした。

 それと同時に、もやしみたいに細くなった僕を痛ましそうに見つめると、そっと背中を叩いてくれた。


「これ、光希さんに」


 気まずい沈黙を破るように、大吾だいごがおずおずと差し出したのは、妻が好きだったひまわりの花束だった。


「……ありがとう、みんな」


 思わず涙がこぼれたので、慌てて上を向く。

 だけど、僕の涙は決壊したダムのように、いつまで経っても止まることはなかった。


****

「さ、食べようか。タッパーにも小分けにしたから明日以降もちゃんと食べろよ」


 川島の一言で、張り詰めていた空気がふと緩んだ。

 僕らは四人でテーブルを囲み、湯気の立つ料理を前に箸を取った。


 そっと卵スープを飲んでみる。鰹の出汁とふわふわの卵が口の中に広がる。


「美味いな……。すごく、美味いな……」


 味のしなかった今までの食事とは大違いだ。

 僕は川島の優しさを噛み締めるようにお椀によそられたスープを飲み干した。


 そんな僕の様子を眺めていた大吾だいごが、そっと小皿に料理を取り分けて、妻の仏前に供えた。


「ほら、こうやって、光希さんにも食べさせてやろうよ」


 大吾だいごのおかげで、殺風景だった仏壇が、花束と料理でだいぶ賑やかになった。


「ありがとうな……。あと、花瓶もなくてごめん……」


 大吾が持って来てくれた花束は、今は発泡酒の空き缶にぞんざいに活けられている。

 ちゃんと備品も揃えておけば良かった、としょんぼりと肩を落としていると、今度は深見が僕の隣に転がっていた卵をひょいっと持ち上げた。


「なあ、このダチョウの卵、少し借りてもいいか?」


 僕が黙って頷くと、深見はしげしげと卵を回しながら呟いた。


「これ、うまく使えば花瓶に出来るんじゃね?」


 そう言って、僕が割った不恰好な割れ目をそっと撫でた。


「やすり、借りてもいい?」


 深見が聞いてきたので、僕は工具が入った袋を渡した。

 深見は、僕が開けた不恰好な穴を、器用に滑らかにしていく。


「まあ、デカすぎるから仏壇には不適切だけど……。ここなら、光希さんにも見えていいんじゃないかな?」


 そう言って、仏壇の隣の棚に、タオルで輪っかを作って、そっと卵を置いた。

 そして、さっきまで発泡酒の空き缶に突っ込まれていたひまわりを、一本ずつ丁寧に卵の殻へ移していった。

 黄身が無くなって寂しそうだった卵の殻は、大きなひまわりを抱えたことで、とても幸せそうに見えた。


「……いいじゃないか」


 僕がぽつりと呟くと、川島も「だな」と同意した。


「また、花を持ってくるよ。だから、ここに花を飾ってくれるか?」


 大吾だいごが言った言葉に、僕はまた泣きそうになりながら頷いた。


 その後は、僕も失った黄身を取り戻すようにダチョウの卵の料理を食べた。

 川島が作ってくれた料理はどれもとても美味しかった。

 テーブルの上の料理がなくなる頃には、うつらうつらと船を漕ぎ始めていた。アルコール以外で眠くなるのは久しぶりだ。


「また来るからな」と僕の背中を叩いた川島達を見送って、僕はソファに寝そべった。

 あの卵とひまわりは、そんな僕を優しく見守ってくれている気がした。


****

 それから、ダチョウの卵の殻に花を飾ってやるため、僕は少しずつ外に出た。


 まずは、卵を安定させるためのしっかりとした台座を。そして、大吾がくれたひまわりが枯れる頃にはまた新しいひまわりを。


 暗い部屋にいては卵とひまわりがかわいそうだ、と生活も変えた。


 朝、カーテンを開ける。

 花の水を替える。

 そして、朝ごはんを作って妻の仏前に供える。

 そうやって、日々を過ごしていたら、いつの間にか夏が終わって、秋が始まっていた。


 秋分の日には、大吾だいごは約束通り、リンドウの花束を持ってやって来た。

 川島はおはぎを、深見はお供え用の皿を。


 みんなで、そっと仏壇の前で手を合わせた後、僕が入れた緑茶を飲んだ。


「似合うな、これ」


 深見が卵の殻の花瓶に活けられたリンドウを見て、満足そうに頷いた。
 濃い紫の花は、ひまわりとはまるで違う表情をしているのに、不思議とこの部屋に馴染んでいる。


「光希さん、こういうの好きだったよな」


 川島はおはぎを頬張りながらぽつりと呟く。

 

「うん。部屋は明るい雰囲気にしたいってずっと言っていたから……」


 嬉しそうに、この家のカーテンや家具を選んでいた妻を思い出して、僕はそっと顔を伏せた。


「この卵さ……送った時は、正直、賭けだったんだ……」


 川島がお茶を飲み干して、神妙な面持ちで言ったので、僕は思わず顔を上げて、苦笑いした。


「だろうな」


「でもさ、お前が、また連絡してくれて……すごく嬉しかった」


 川島は白い歯を見せて笑った。

 僕は卵の殻——いや、花瓶になったそれを見つめた。
 もう中身はない。
 だけど、抜け殻となった僕とは違い、そこには新たに花を抱いている。

 僕も奴みたいに新しい何かを受け止めることはできるのだろうか。


 そっと仏壇の方を見つめると、僕の疑問に応えるようにリンドウの花が揺れた。


「こっちこそ……ありがとう」


 そして、妻の光希にも言い聞かせるように、僕は川島達を見つめた。


「次の一周忌の後にはさ、僕が準備するからさ……。また来てくれるか……?」


 僕の言葉に、みんな目を丸くする。

 だが、次の瞬間、それぞれの答えが僕の耳に響いた。


「もちろん!」


「なんだよ、水臭いな」


「俺も手伝えるから、何かあれば呼べよ」


 そう口々に答える友人達を見て、僕の胸が熱くなる。

 まだ、僕の中身は空っぽだ。だけど、これから何かを詰め込んでいけるのだろうか。


  そっと目を閉じると、妻の声が聞こえた気がした。

 僕は何も言わず、仏壇に飾った写真に向かって軽く頷く。
 それから、花瓶の水を替えるために台所へ向かった。

 卵の殻は、今日も変わらず、そこにあった。

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僕と巨大なダチョウの卵 桜木 菊名 @sakuragi-kikuna

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