トゥリッキとペッカ

清水智樹

第1章:銀色の静寂(しじま)

1

世界は、吸い込まれるほど深い青と、突き刺すような白でできていた。


今から千年以上先の未来。かつてスカンジナビアと呼ばれた半島は、そのほとんどが森で覆われている。北の果てにあるこの森の冬は、古い時代よりもずっと長く、そして静かだ。重たい雪雲が垂れ込める空の下、マツや白樺の森は息を潜めている。木々の梢には分厚い雪が積もり、風が吹くたびにダイヤモンドダストが舞い散った。


その静寂を、新雪を踏みしめる微かな足音が乱していく。


「……近いわ。もう少し。」


トゥリッキは、自分の吐く白い息が視界を曇らせないよう、マフラーを口元まで引き上げた。


彼女はまだ11歳の少女だが、その瞳はこの森の湖のように深く、年齢よりもずっと大人びた光を宿している。身にまとっているのは、何層にも重ね着した古着のコートと、フェルトでできたとんがり帽子。そして背中には、彼女の身長ほどもある大きな「捕虫網」のような道具を背負っていた。ただし、その網は糸ではなく、微かに発光する銀色の繊維で編まれている。


彼女は「魔女見習い」。そして、「魂の狩り手」だ。


トゥリッキの視線の先には、一本の奇妙な木があった。幹は苔に覆われているが、樹皮の下からは錆びついた鉄骨が覗いている。遥か昔、ここが街だった頃に使われていた街灯の成れの果てだ。


その歪んだ金属の枝先に、淡い琥珀色の光が一つ、頼りなげに漂っていた。


『……カエ……ラ……ナキャ、ミン……ナ、マッテル……』


光からは、壊れたラジオのような雑音交じりの「声」が漏れ出ている。あれは幽霊ではない。かつてこの土地に生きた人間の強い未練が、森の冷気と反応して形を成した記憶の結晶――通称「迷い魂」だ。


トゥリッキは背中の網をゆっくりと構えた。


「狩り手」という響きは怖そうだが、彼女の仕事は決して魂を傷つけることではない。行き場を失って繰り返されるだけの悲しい記憶をすくい上げ、大きな時間の流れに還してあげること。それが、この時代の魔女の大きな役割だった。


「安心して。もう急がなくていいの。」


トゥリッキは歌うように囁くと、銀の網を風をすくうように振るった。網は空気の抵抗を受けず、水面を滑るように軌跡を描く。銀の繊維が琥珀色の光を優しく包み込むと、光は安心したように瞬き、やがて音もなく砂のような粒子になって空へと溶けていった。


『……ア……リガ……ト……』


最後に微かな安らぎの感情を残して、気配は消えた。トゥリッキは帽子を取り、深く一礼する。


「良い春を。」


それは、空へ溶けた魂がやがて雪となって森へ降り、春には新しい芽吹きとなって巡ってくるようにという、魔女たちの祈りの言葉だ。


2

深く息を吐くと、トゥリッキは空を見上げた。雲の切れ間から、極光オーロラのカーテンが揺らめいている。あの光の粒も、いつか雪となってこの森へ降り注ぐのだろう。


今日は、迷い魂と出会うことがやけに多い日だった。古い時代の遺物が多いこの地域は、冬の終わりが近づくと、地中から過去の記憶がにじみ出しやすくなるのだ。


「さて、帰ろうかな。お師匠様がシチューを作って待ってるはず……。」


踵を返そうとしたその時、トゥリッキの耳が奇妙な音を捉えた。風の音ではない。もっと重く、低い、地響きのようなリズム。森の心臓が脈打つような深く重い律動が、さらに森の奥深く、足を踏み入れることが禁じられている北の谷から響いてくる。


(……あっちには、古い時代の「工場」の跡しかないはずなのに。)


魔女見習いとしての好奇心か、それとも魂を導く者としての直感か。トゥリッキは帰り道とは逆の、誰も踏み入れた跡のない新雪の方へと、小さなブーツを踏み出した。


雪深くなるにつれ、周囲の景色は異様さを増していった。地面から突き出す岩に見えたものは、分厚い苔が溶解したコンクリートの塊を静かに包み込んだ姿だった。大木に絡まる蔦は、被膜が破れて朽ち果てた太いケーブルを、あたかも自然の一部へ戻すかのように幾重にも巻き込んでいた。


自然が文明を飲み込み、長い時間をかけて土へと還していく、厳かで静謐な浄化の光景が広がっていた。


その中心に、それはいた。


木々が開けた広場のような場所に、巨大な岩山が鎮座している。いや、岩ではない。苔と雪に分厚く覆われているが、それはうずくまった人の形をしていた。


「……トロール?」


トゥリッキは絵本の中でしか見たことがないその名を呟いた。この北国の森に住むと言われる伝説の巨人。しかし、目の前の巨人は微動だにしない。まるで石像のように、あるいは時間そのものがそこで凍りついたかのように静止している。


だが、トゥリッキにはわかった。彼――その巨人の胸の奥から、先ほどの地響きのような音が聞こえているのだ。それは寝息のようでもあり、正確に時を刻む振り子のようでもあった。


トゥリッキはおそるおそる近づき、分厚い手袋を脱いで、巨人の足と思わしき部分に素手で触れた。冷たい。岩のように硬い。けれど、掌の奥に微かな温もりを感じた。


その瞬間、トゥリッキの頭の中に、直接語りかけるような深く低い声が響いた。


『……春は、まだか?』


3

その問いかけと共に、世界が震えた。地鳴りのような低い唸りが腹の底に響く。それは地震ではなく、目の前の巨大な「岩山」が、数百年の凝りをほぐそうと身じろぎした音だった。同時に、トゥリッキの耳の奥で鋭い耳鳴りが走った。この岩塊から、強い信号が目に見えない衝撃波となって全方位へ解き放たれた余波だった。その波紋は、森を抜け、地下深くの岩盤さえも透過して広がっていった。


トゥリッキは慌てて数歩下がった。分厚く積もっていた雪が、雪崩のように滑り落ちる。表面を覆っていた硬い苔の層が、乾いた音を立てて次々と剥がれ落ちていく。舞い上がる雪煙の中に、二つの巨大な光が灯った。それは、深い森の奥底のような、静かで優しい緑色の瞳だった。


「ふあぁ……。」


嵐のようなあくびが、周囲の木々の雪を揺らす。巨人は――「トロール」のペッカは、ゆっくりと、本当にゆっくりと体を起こした。


その体躯は、背後の大木を覆い隠すほど大きい。剥がれ落ちた苔の下から現れた肌は、岩石のようにも、古びた陶器のようにも見えた。関節が動くたびに、石臼を挽くような、あるいは錆びた歯車が噛み合うような、重苦しい音が森に響く。


ペッカは大きな手で、頭に乗っていた鳥の巣(今は主がいない古巣だ)をそっと木の枝に乗せると、夢の続きを見るように周囲を見回した。


「……おや。まだ白いな。」


その声は、岩が転がる音のように低く、けれど不思議と耳に心地よかった。彼は視線を下に向け、雪の上に佇むトゥリッキと目を合わせた。


「おはよう、小さなお客さん。今は、何時だい?」


トゥリッキは、呆気にとられていたが、礼儀正しく帽子を直して答えた。


「……おはようございます、トロールさん。今は、夕暮れ少し前です。」


「ふむ。夕暮れか。……それで、西暦は何年かな?」


珍しい質問だった。トゥリッキたち森の民は、月の満ち欠けや季節で時を数える。西暦という古い数え方をするのは、よほど昔の書物を読む学者か、変わり者の長老くらいだ。


「えっと……確か、三〇三〇年だと、お師匠様が言っていました。」


「三〇三〇年。」


ペッカはオウム返しに呟き、そして石像のように固まった。緑色の瞳が、瞬きもせずに虚空を見つめる。


「……そうか。少し、寝坊をしてしまったようだ。」


ペッカの胸の奥から聞こえていた時計の振り子のような音が、硬質な音を一度だけ高く響かせ、リズムを変えた。それはまるで、止まっていた時が再び動き出した音のように聞こえた。


彼はゆっくりと立ち上がった。その背中には、大きな、とても大きな円盤のようなものが背負われていた。文字盤の消えた時計のようにも、マンホールの蓋のようにも見える。ペッカは周囲の景色――溶解したコンクリートの岩や、ケーブルの蔦が絡まる大木――を、悲しげな目で見つめた。


「駅は森になり、ビルは山になったか。……約束の時間も、遥かに過ぎ去ってしまったな。」


その言葉には、途方もない寂しさが滲んでいた。トゥリッキには、「駅」や「ビル」が何を意味するのか正確にはわからない。けれど、「魂の狩り手」としての直感が告げていた。この巨人は、とても大切な何かを失い、そして取り残されたのだと。


未練を残した魂は、彷徨った末に消えていく。けれど、このトロールは生きている。生き続けて、途方もない時間を一人で背負っている。


「……あの。」トゥリッキはおずおずと声をかけた。「約束って、誰かとの?」


ペッカはゆっくりと首を振った。「昔の友達だ。……だが、もう誰もいないだろう。私の時計だけが、進みすぎてしまったようだ。」


彼は大きなため息をつき、再び座り込もうとした。「おやすみ、小さなお客さん。私はもう少し、ここで待つことにするよ。夢の中でなら、彼らに会えるかもしれない。」


その姿が、トゥリッキにはあまりにも孤独に見えた。


雪が再び降り始め、ペッカの広い肩に積もっていく。このまま彼が目を閉じれば、また数百年、彼は岩となって眠り続けるのだろうか。トゥリッキは、ギュッと杖を握りしめた。


「放っておけない。」


お節介かもしれないけれど、このままじゃいけない。それは迷子を見つけた時と同じ、彼女の魂の奥底から湧き上がる使命感だった。そして、他者の痛みを放っておけないこの心こそが、彼女が幼くして師に見出され、魔女への道を歩むことになった理由でもあった。


「待って!」


トゥリッキの声が、静寂な森に響いた。ペッカが不思議そうに目を開ける。


「そんなところで寝てたら、風邪を引くわ。……それに、今日は『春告げのシチュー』なの。」


「春告げの……シチュー?」


「そう。根菜と干し肉をトロトロになるまで煮込んだやつ。お師匠様が作るシチューは、森で一番なんだから。」


トゥリッキは、自分でも驚くほど強い調子で言った。


「一人分くらいなら、きっと余るから。……一緒に、食べない?」


ペッカは大きな目を丸くした。「私を……招待してくれるのかい?こんな、苔むした時代遅れの古時計を。」


「時代遅れなんかじゃないわ。あなたは、古い時代のことをたくさん知っているんでしょ?」トゥリッキはにっこりと笑った。「それに、お師匠様は言ってたわ。古いものほど、良い味が出るって。」


ペッカはしばらく、虚をつかれたように口を開けていたが、やがて顔中の皺を深くして、喉の奥で重々しい音を鳴らした。それは、岩山が崩れるような、豪快で温かい笑い声だった。


「違いない。……ありがとう、小さな魔女さん。」


ペッカがゆっくりと手を差し出す。トゥリッキはその巨大な人差し指の、ほんの爪先ほどの部分を、両手でしっかりと握り返した。


「私はペッカ。しがない『時の守り手』だ。」


「私はトゥリッキ。魔女見習いで、魂の狩り手よ。」


冷たい風が吹き抜け、木々の雪を散らした。しかし、その風の中には、確かに微かな春の匂いが混じっていた。


深い雪に閉ざされた森の奥で、少女と巨人の、長い旅が始まろうとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る