第3章 優しい夕焼けと、飢えた獣

 放課後のチャイムが鳴ると、生徒たちは一斉に教室から吐き出された。

 廊下の窓から見える夕焼けは、まるで絵画のように完璧だった。紫からオレンジへの美しいグラデーション。空には、一番星が宝石のように輝いている。

 もちろん、それも演出だ。

 本当の空がどんな色をしているのか、今の湊には知る由もない。

「ねえ湊、ちょっと寄り道して帰らない? 駅前に新しいスイーツのお店ができたんだって!」

 帰り支度を終えたリカが、鞄を揺らしながら駆け寄ってくる。

「『星屑のタルト』が絶品らしいよ。AIのレビュー評価も星四・八!」

 彼女の瞳は輝いている。この世界の幸福を疑わない純粋な光。

 湊は少し迷ったが、一人で家に帰っても、あの図書館での出来事を反芻してしまいそうだった。

「……ああ、いいよ。少しだけなら」

「やった! じゃあ急ごう!」

 二人は校門を出て、整備された遊歩道を歩き出した。

 街は夕暮れの魔法にかかっている。街路樹は淡い光を放ち、道ゆく人々の肩には、ファッション用の小さな妖精のアバターが飛び回っている。

 平和で、豊かで、優しい世界。

 けれど、湊の神経は張り詰めたままだった。

 図書館で出会った霧島トウカの言葉が、棘のように胸に刺さっている。

 『見たくない現実を見るために、薬を飲む』

 僕たちは、何から目を背けているのだろう?

 その時だった。

 通りの脇、ビルの隙間の薄暗い路地から、弱々しい鳴き声が聞こえた。

「……クゥ、クゥ……」

「あ、今の聞こえた?」

 リカが足を止めた。「わんちゃんだ! 可愛い声!」

 彼女は迷わず路地へと入っていく。湊も慌てて後を追った。

 路地の奥、ゴミ箱の陰に、一匹の動物がうずくまっていた。

「うわあ、可愛い……!」

 リカが歓声を上げて駆け寄る。

「見て湊! 『迷いカーバンクル』だよ! 額の宝石がキラキラしてて、すっごく綺麗!」

 リカの視界(アイリス)には、そう見えているのだ。

 フワフワの白い毛並み。額に赤い宝石を持ち、愛くるしい瞳でこちらを見つめる幻想的な魔法生物。

 彼女はしゃがみ込み、愛おしそうに手を伸ばした。

 だが。

 湊の足は、凍りついたように動かなかった。

 ――バチッ。

 視界の端で、激しいノイズが走る。

 湊のレンズが、AR映像の描画に失敗する。美しいカーバンクルの姿が、テレビの砂嵐のように乱れ、その下にある「実像」が剥き出しになった。

 そこにいたのは、魔法生物などではない。

 皮膚病で毛が抜け落ち、あばら骨が浮き出るほどに痩せ細った、一匹の野良犬だった。

 目やにで汚れた瞳。片足は怪我をしているのか、赤黒く腫れ上がっている。

 それは「可愛い」とは程遠い、死にかけた命の姿だった。

「お腹空いてるのかな? 可哀想に……」

 リカは優しい声で言いながら、空中に指で操作パネルを開いた。

「待っててね、今ごはんあげるから」

 彼女が操作すると、空間にキラキラと光る『極上の骨付き肉』の映像が現れた。

 それはAIが提供する「デジタル・ペットフード」だ。課金アイテムであり、見た目は豪華だが、物理的な実体はない。

 リカはそれを犬の口元に差し出した。

「ほら、お食べ。美味しいよ」

 犬は、虚ろな目でその光る映像を見つめた。

 匂いもしない。触れることもできない。

 犬は力なく鼻を鳴らし、地面に置かれた空っぽのアスファルトを舐めた。

「あれ? 食べないな。好き嫌いするのかな?」

 リカは首をかしげる。「じゃあ、こっちの高級フルーツならどうかな?」

 次々と現れる豪華な料理の映像。

 けれど、瀕死の犬にとって、それは何の救いにもならない。

 湊は、吐き気を覚えた。

 これは拷問だ。

 リカに悪気はない。彼女は本気で、この動物に優しくしようとしている。けれど、ARという「優しい嘘」が、彼女から「現実の悲惨さ」を奪い、結果としてこの命を見殺しにさせようとしている。

 嘘だ。

 魔法がなくなって、世界は幸せになったなんて嘘だ。

 目の前にあるのは、ただの餓えと、無知という名の暴力じゃないか。

「……どいてくれ、リカ」

 湊の声は震えていた。

「え? 湊?」

 湊はリカを押しのけるように前に出ると、ポケットから自分の携帯食料を取り出した。

 昼に食べ残した、無骨なプロテインバーだ。ARを通さなければ、ただの茶色い塊にしか見えない。

 湊は包装を破り、それを小さくちぎって、震える犬の口元に差し出した。

「えっ……?」

 リカが悲鳴に近い声を上げた。「ちょっと湊、何してるの!? そんな汚いゴミ、食べさせちゃダメだよ!」

 彼女の目には、湊が「ゴミの塊」を押し付けているように見えているのだ。

 だが、犬は違った。

 わずかに残った嗅覚が、タンパク質の匂いを捉えた。

 犬は必死に首を伸ばし、湊の手からプロテインバーを貪った。ハグ、ハグ、と弱い顎で懸命に咀嚼し、飲み込む。

「食べた……」

 湊の手のひらに、犬の湿った舌の感触と、温かい吐息が伝わる。

 それは、データではない、生きた命の熱だった。

「信じられない……」

 リカは青ざめた顔で口元を押さえていた。「湊、どうしちゃったの? そんな変なもの拾ってきて……AIに通報した方がいいよ。その子、ウイルスに感染してるかもしれない」

 彼女の言葉は、常識的で、正しい。この世界では。

 湊は犬の頭を一度だけ撫でてから、立ち上がった。

 犬は少しだけ元気を取り戻したのか、弱々しく尻尾を振っている。

「行こう、リカ」

「え、でも……」

「いいから。もう日が暮れる」

 湊はリカの手を引き、強引にその場を離れた。

 これ以上ここにいたら、叫び出してしまいそうだったからだ。

 「君が見ている可愛いカーバンクルなんていないんだ!」と。

 けれど、それを言えば、傷つくのはリカだ。そして、狂人扱いされるのは自分だ。

     

 駅前でリカと別れ、一人になった帰り道。

 湊は自分の右手を見つめた。

 犬の唾液の感触が、まだ残っている気がした。

 空を見上げる。

 相変わらず、完璧に美しい星空が広がっている。

 けれど今の湊には、その星々が、まるで監視カメラのレンズのように見えて仕方がなかった。

『Warning... Emotional sync rate dropping.』

 視界の隅に、赤い警告が一瞬だけ点滅した。

 湊はそれを無視して、歩き続けた。

 怒りが、腹の底で静かに燃えていた。

 この世界は美しい。

 けれど、その美しさは、誰かの痛みを塗りつぶして成り立っている。

 もし、これが「魔法」の正体なのだとしたら。

「……僕は、いらない」

 夜風に溶けるような小さな呟き。

 それは、この世界に対する、湊の最初の宣戦布告だった。

 家路を急ぐ彼の背後で、街のAR広告が楽しげに踊っている。

 『今日も一日、魔法のような幸せを』

 そのキャッチコピーが、ひどく白々しく、湊の背中を睨みつけていた。

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