第2章 昼下がりの図書館と、読めない文字
昼休みを告げるチャイムは、ハープの音色で優雅に奏でられた。
教室は一瞬にして喧騒に包まれる。生徒たちは皆、AIが推奨する栄養バランスに基づいたランチボックスを広げ始めた。
「見て見て! 今日のメインは『ドラゴンテールのステーキ風』だって! 湯気がすごい!」
「私のは『妖精の森風のパスタ』。ソースがキラキラ光ってるよ」
クラスメイトたちの歓声が、湊の耳には遠くの出来事のように響く。
彼の目(レンズ)にも、確かにその豪華な料理は映っている。だが、その映像が一瞬ブレると、そこにあるのは無骨な茶色のペーストと、固形化されたプロテインの塊でしかないことを、湊は知ってしまっている。
「湊、一緒に食べようぜ」
友人に声をかけられたが、湊は小さく首を振った。
「ごめん、ちょっと図書館に行きたいんだ。昨日の課題で調べたいことがあって」
嘘をついた。
みんなが「泥のようなペースト」を「魔法風の料理」だと信じて美味しそうに食べている光景を見ると、胸が締め付けられるような恐怖を感じるからだ。自分だけが狂っているのか、それとも世界が狂っているのか。その境界線が曖昧になる感覚。
湊は逃げるように教室を出た。
廊下の窓から差し込む陽射しは暖かそうに見えるが、肌に触れる空気は空調で管理された冷たさのままだ。
目指すのは、校舎の北側にある別棟――『アーカイブ』。
かつて図書館だった場所だが、全ての知識がデジタル化され、脳に直接ダウンロードできるようになった今、そこを利用する生徒はほとんどいない。
重たい引き戸を開けると、静寂が鼓膜を打った。
そこは、時間が止まった場所だった。
舞い上がる埃。古紙の乾いた匂い。窓から差し込む光の筋の中で、微細な塵がダンスをしている。
「……よかった。誰もいない」
湊は深く息を吐き出した。
ここには、AIの過剰なアナウンスも、視界を埋め尽くすポップアップ広告もない。
あるのは、物理的な「物」としての本の山だけだ。
湊は、埃を被った書架の間をゆっくりと歩いた。
並んでいるのは、百年以上前――まだ人類が紙にインクで記録を残していた時代の遺物たちだ。そのほとんどは内容がデジタル検閲され、ARによって表紙が書き換えられている。
ふと、一冊の分厚い本が目に止まった。
背表紙には『炎の魔術体系・上級編』という、金色の箔押し文字がARで浮かび上がっている。
湊は何気なく手を伸ばし、その本を引き抜いた。
ずしり、と重い。
データの重さではない。紙とインク、そして時間の重さだ。
ページを開く。
そこには、ARによって鮮やかな動画のような挿絵が表示されていた。魔法使いが杖を振り、巨大な炎の渦を作り出す様子が、ページの上でループ再生されている。
文字もまた、光って浮き上がり、読みやすいフォントに変換されている。
『――炎とは、生命の根源なり。マナの奔流を制御し、イメージを具現化せよ』
美しい文章だ。
けれど、湊は違和感を覚えた。
指先で、紙の表面を撫でてみる。
ザラザラとした、古びた紙の感触。指に灰色の粉のようなものが付着する。
(……変だ)
ARが表示している文字の配列と、指先が感じる紙の凹凸が、微妙にズレている気がした。
湊は目を細め、意識を集中させた。
ARの輝き(レイヤー)を透かして、その下にある「本当の文字」を見ようと試みる。
ジジッ。
視界の端でノイズが走る。
金色の文字が一瞬ブレて、その下の黒いインクの染みが見え隠れした。
『……燃焼……率……』
『……化石……料……枯渇……』
断片的な単語が見えた気がした。
魔法の呪文ではない。もっと無機質で、冷たい言葉。
だが、次の瞬間にはARが修正(リロード)され、再び美しい魔法の講釈に戻ってしまった。
「くそっ……」
湊は苛立ち紛れに本を閉じようとした。
何が書いてあるんだ? この本は本当は何の本なんだ?
知りたいのに、見えない。世界が全力で、湊の目隠しを直そうとしてくる。
「――本が泣いてるよ」
不意に、涼やかな声が静寂を破った。
湊は心臓が口から飛び出るほど驚き、本を取り落としそうになった。
慌てて振り返る。誰もいないと思っていた閲覧室の奥。
本の塔に埋もれるようにして、一人の女子生徒が座っていた。
黒髪のロングヘア。少し着崩した制服。
そして何より目を引いたのは、彼女が顔にかけているものだった。
スマートレンズではない。
黒縁の、分厚いガラスレンズが入った、アナログな『眼鏡』をかけていたのだ。
「……え、誰?」
湊が尋ねると、彼女は読んでいた本からゆっくりと視線を上げ、眼鏡の奥から湊をじっと見つめた。
その瞳は、AIのような無機質さとも、クラスメイトたちのような空虚な明るさとも違う、暗く静かな光を宿していた。
「そんなに力任せに開いたら、背表紙が割れちゃう」
彼女は淡々と言った。「古い紙は脆いの。今の世界の基盤と同じくらいにね」
意味深な言葉だった。
湊は彼女に歩み寄った。
「君は……その眼鏡で、何が見えてるの?」
ARを通さないガラスのレンズ。それなら、この本の「本当の表紙」が見えているはずだ。
彼女は少しだけ口角を上げた。冷笑のようでもあり、自嘲のようでもあった。
「君と同じものだよ。……と言いたいところだけど、君は少し『酔って』いるみたいだね」
「酔ってる?」
「AR酔い。情報の過剰摂取。あるいは――現実との拒絶反応」
彼女はパタンと手元の本を閉じた。
その表紙にはARがかかっておらず、ボロボロの無地の革表紙が見えた。
「私は霧島(きりしま)トウカ。ここ(アーカイブ)の管理人みたいなもの」
彼女は立ち上がると、湊の手から『炎の魔術体系』をひったくるように取り上げ、愛おしそうに埃を払った。
「その本はまだ君には読めない。AI(ミモザ)が君の脳に合わせて翻訳しすぎているから」
「翻訳? どういうことだ?」
「そのままの意味だよ。……知ってる? 昔の人は、見たくない現実を見るために、わざわざ苦い薬を飲んだりしたんだって」
トウカは本を棚に戻すと、くるりと背を向けた。
「ここは静かすぎて、余計なノイズが聞こえちゃう場所だから。具合が悪いなら、保健室に行った方がいい」
それは明確な拒絶だった。これ以上踏み込むな、という線引き。
だが、湊は彼女の背中に向かって問わずにはいられなかった。
「君にも……聞こえるのか? あのノイズが」
トウカの足が一瞬止まった。
けれど彼女は振り返らず、片手をひらりと振っただけだった。
「さあね。私はただの、アナログ好きな変人だから」
彼女の姿が書架の影に消える。
後には、微かな古紙の匂いと、さらに深まった謎だけが残された。
湊は立ち尽くした。
核心には触れられなかった。けれど、確信はあった。
彼女は知っている。あるいは、彼女もまた「見えている」側の人間だ。
キーン。
また耳鳴りがした。
視界の隅で、『アイリス』の時計表示が一秒だけ逆回転したように見えた。
予鈴が鳴る。
午後の授業が始まる。またあの、嘘で塗り固められた教室へ戻らなければならない。
だが、湊の胸には、先ほどまでの孤独とは違う、小さな熱が宿っていた。
自分だけじゃないかもしれない。
その微かな希望が、彼を次の一歩へと突き動かそうとしていた。
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