第16話 怖くない想い




 放課後の廊下は、もう冬の匂いがしていた。


 窓から差し込む光が低く、

 影が長く伸びている。


 文芸部のドアの前で、

 桜庭は一度、立ち止まった。


 ……入っていいのか。


 昨日の会話が、

 まだ胸の奥で揺れている。


 距離を取られていた理由。

 それが「優しさのつもりだった」という事実。


 理解はできた。

 でも、感情が追いつくかどうかは別だった。


 *


 ドアを開けると、

 先輩はもう来ていた。


 机に向かって、

 ノートを広げている。


 でも、書いていない。


 考え込んでいる横顔は、

 少しだけ緊張して見えた。


「あ……こんにちは」


 声をかけると、

 先輩はすぐに顔を上げる。


「こんにちは、桜庭」


 名前を呼ばれる。


 それだけで、

 昨日までとは違う、と分かった。


 視線を逸らさない。

 間を空けない。


 ちゃんと、こちらを見ている。


 *


「……座っていいか」


「はい」


 椅子を引く音が、

 部室に響く。


 二人きり。


 それが当たり前だったはずなのに、

 今日は少し、胸が詰まる。


 *


「昨日の続きになるんだけど」


 先輩が、ゆっくり切り出す。


「俺、

 これからは変わろうと思う」


 言い切りだった。


「距離を、

 勝手に調整しない」


 桜庭は、

 その言葉を噛みしめる。


「……先輩は」


 声が、小さい。


「私と、

 近くなりたいんですか?」


 逃げ場のない質問。


 先輩は、

 少し考えてから答えた。


「なりたい」


 即答ではなかった。

 でも、迷いもなかった。


「少なくとも」


 続ける。


「離れる理由は、

 もうない」


 胸の奥が、

 じんわりと温かくなる。


 *


「……私」


 桜庭は、

 視線を落とす。


「正直、

 先輩にどう接していいか、

 分からなくなってました」


「……」


「嫌われたわけじゃないって、

 頭では分かっても」


 指先を、ぎゅっと握る。


「距離があると、

 それだけで不安で」


 先輩は、

 黙って聞いている。


 遮らない。

 否定しない。


 それだけで、

 少し救われる。


 *


「私、

 人に踏み込むのが、

 あまり得意じゃないんです」


「……うん」


「でも」


 顔を上げる。


「先輩は、

 踏み込んできてくれた人でした」


 文芸部に誘われた日。

 原稿を読んでもらった夜。

 言葉に詰まったとき、

 待ってくれた沈黙。


「だから」


 声が、少し震える。


「引かれたとき、

 ……すごく、怖かった」


 *


「ごめん」


 先輩の声は、

 低く、真剣だった。


「もう、

 怖がらせない」


 その言葉は、

 約束のようだった。


 *


 少し間が空く。


 でも、

 その沈黙は苦しくない。


 同じ机。

 同じ空間。


 桜庭は、

 ノートを取り出した。


「……今日、

 書いたものがあって」


「読ませてくれる?」


「はい」


 差し出す手が、

 少しだけ震える。


 でも、

 先輩は当然のように受け取った。


 *


 読む時間。


 ページをめくる音。


 先輩の表情が、

 少しずつ変わっていく。


 真剣。

 集中。

 そして、

 柔らかくなる。


「……これ」


 読み終えて、

 顔を上げる。


「前より、

 感情が外に出てる」


 胸が、

 きゅっとなる。


「怖かった?」


「……はい」


「でも、

 出したんだな」


 その言葉に、

 思わず笑みがこぼれる。


「先輩が、

 読んでくれるなら」


 自然に、

 そう言っていた。


 *


「……それ」


 先輩は、

 少し照れたように言う。


「すごく、

 嬉しい」


 距離が、

 縮んだのが分かる。


 物理的ではなく、

 感情の距離。


 *


 その後は、

 二人で並んで書いた。


 時々、意見を交わし、

 時々、黙る。


 沈黙が、

 怖くない。


 *


 帰り際。


「……あの」


 桜庭が、

 呼び止める。


「今日は、

 一緒に帰ってもいいですか」


 一瞬、

 先輩の目が見開かれる。


「もちろん」


 即答だった。


 *


 校門までの道。


 夕焼けが、

 街を染めている。


 歩幅が、

 自然と揃う。


「……先輩」


「ん?」


「近いですね」


 そう言うと、

 先輩は一瞬戸惑い、


「あ、

 嫌だった?」


「……いえ」


 少し考えてから、

 正直に言う。


「嫌じゃないです」


 それ以上、

 何も言わない。


 でも、

 歩幅は変えない。


 *


 それだけで、

 十分だった。


 距離は、

 測るものじゃない。


 縮めようとするものでも、

 引くものでもない。


 同じ速度で、

 同じ方向を見ること。


 それが、

 こんなにも安心するなんて。


 *


 家の前で、

 立ち止まる。


「……今日は、

 ありがとうございました」


「俺の方こそ」


 一瞬、

 別れが惜しくなる。


 その感情を、

 隠さなくていい。


 *


「また、

 明日」


「はい。

 明日も、文芸部で」


 笑い合う。


 その笑顔は、

 昨日までより、ずっと近い。


 *


 桜庭は、

 家に入ってからも、

 しばらく玄関で立っていた。


 胸の奥が、

 温かい。


 ――近づいてしまった。


 でも。


 それは、

 怖いことじゃなかった。


 先輩が、

 ちゃんと向き合ってくれるなら。


 この距離は、

 きっと、大丈夫だ。


 そう、

 初めて思えた。






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