第15話 優しさだと思っていたもの




 文芸部の部室は、相変わらず静かだった。


 それが、この部活の良いところだと思っていた。

 騒がしくなくて、落ち着いていて、誰の感情も荒立てない。


 ――少なくとも、俺はそう信じていた。


 *


 最近の桜庭は、完璧だった。


 挨拶は丁寧。

 提出する原稿は期限厳守。

 俺の話を遮らないし、余計なことも言わない。


 理想的な部員。


 でも。


 どこか、よそよそしい。


 以前は、もっと遠慮がなかった。

 言葉を探しながら、こちらを見て、

 少し照れたように意見を言っていた。


 今は違う。


 正解だけを、選んでいる。


 *


「……今日は、ここまでにしようか」


 そう言うと、

 桜庭はすぐに顔を上げた。


「はい。お疲れさまでした」


 立ち上がり、鞄を持つ。


「先に失礼しますね」


「あ、ああ」


 それだけ。


 引き留める理由も、

 資格もない気がして。


 桜庭は一礼して、

 静かに部室を出ていった。


 ドアが閉まる音が、

 やけに大きく聞こえた。


 *


「……あんたさ」


 その直後、

 幼なじみが口を開いた。


「最近、ちょっと冷たくない?」


「は?」


 思わず、間の抜けた声が出る。


「俺が?」


「うん」


 即答。


「全然、話しかけてないでしょ」


「いや、

 桜庭が距離を――」


「逆」


 幼なじみは、

 きっぱりと言った。


「引いたの、あんた」


 胸が、少しだけざわつく。


「……それは」


「優しさのつもり?」


 言葉が、鋭い。


「……そうだよ」


 否定できなかった。


「桜庭、気を遣ってるみたいだったし」


「だから?」


「だから、

 これ以上、踏み込まないほうがいいだろ」


 正論のつもりだった。


 でも。


 幼なじみは、

 深く息を吐いた。


「それさ」


 一歩、近づいてくる。


「一番、

 人を孤独にするやつ」


 *


「……どういう意味だよ」


 声が、少し低くなる。


「距離を置くのが優しさ、って」


 幼なじみは、

 まっすぐ俺を見る。


「それ、

 相手が一人で立てる人じゃないと、

 ただの放置だから」


 言葉が、

 胸に刺さる。


「桜庭、

 前に言ってたでしょ」


「……何を」


「一人になるのが、

 怖いって」


 思い出す。


 文芸部がなくなった話。

 一人で続けていた話。


「それなのに」


 幼なじみは、

 静かに続ける。


「一番近くにいる人が、

 一歩引いたら」


「……」


「どう思うと思う?」


 答えが、

 浮かんでしまった。


 でも。


 認めたくなかった。


 *


「俺は」


 言い訳が、口をつく。


「期待させないように――」


「違う」


 即座に遮られる。


「それは、

 自分が傷つかない選択」


 図星だった。


「関わりすぎて、

 間違えるのが怖いだけ」


 胸の奥が、

 ぎゅっと縮む。


 *


「……あんた」


 幼なじみの声が、

 少しだけ柔らかくなる。


「優しいけど」


 でも、と続く。


「逃げ癖あるよ」


 何も言えなかった。


 反論できない。


 *


 その日の帰り道。


 一人で歩きながら、

 何度も、言葉を反芻する。


 ――距離を置くのは、優しさ。


 ――踏み込まないのは、配慮。


 そう信じてきた。


 でも。


 本当にそうだったか?


 *


 思い出す。


 久遠先輩のこと。


 一年のとき。


 俺が、書けなくなった夜。


 先輩は、

 距離を置かなかった。


「書けないなら、

 一緒に悩もう」


 そう言って、

 隣に座ってくれた。


 あれは。


 踏み込みすぎだったか?


 違う。


 救われた。


 *


「……ああ」


 小さく、声が漏れる。


 俺は。


 桜庭に、

 同じことをしていない。


 *


 翌日。


 文芸部のドアの前で、

 足が止まる。


 中に、

 桜庭の気配は、まだない。


 逃げることもできた。


 今日も、

 「ちょうど来なかった」で済ませればいい。


 でも。


 それは。


 優しさじゃない。


 *


 ドアを開ける。


 少しして、

 桜庭が入ってきた。


「こんにちは、先輩」


 いつもの声。


 いつもの距離。


 でも。


「桜庭」


 俺は、

 すぐに名前を呼んだ。


「少し、話していいか」


 彼女は、

 一瞬だけ戸惑う。


「……はい」


 *


「最近」


 言葉を選ぶ。


「俺、

 距離を取ってた」


「……」


「それを、

 優しさだと思ってた」


 正直に言う。


「でも」


 一度、深呼吸。


「間違ってた」


 桜庭の目が、

 わずかに揺れる。


「……どういう意味でしょうか」


「俺は」


 逃げずに、続ける。


「君が、

 一人で立てると思い込んでた」


「……」


「でも、

 それを決めるのは、

 俺じゃなかった」


 沈黙。


 長い、長い沈黙。


 *


「……先輩」


 桜庭が、

 やっと口を開く。


「私は」


 少しだけ、

 声が震える。


「先輩に、

 引かれるのが、

 一番、怖かったです」


 胸が、

 締めつけられる。


「それでも」


 続ける。


「先輩が、

 楽になるならって」


 視線を落とす。


「……そう思ってました」


 俺は、

 何も言えなかった。


 *


「ごめん」


 それしか、出てこなかった。


「俺は、

 君を守ったつもりで」


「……」


「一人にしてた」


 桜庭は、

 しばらく黙っていた。


 そして。


「……気づいてくれて、

 よかったです」


 その言葉が、

 痛かった。


 *


 優しさだと思っていたものは、

 ただの保身だった。


 距離を取ることで、

 俺は傷つかずに済んでいた。


 でも。


 その代わりに、

 誰かを、

 一人にしていた。


 *


「……これからは」


 俺は、言う。


「勝手に、

 距離を決めない」


「……はい」


「君が、

 離れたいなら、

 そのときは、ちゃんと聞く」


 桜庭は、

 小さく頷いた。


 *


 文芸部の空気は、

 すぐには戻らない。


 でも。


 少なくとも。


 俺は、

 間違いに気づいた。


 それだけで、

 大きな一歩だった。


 距離は、

 優しさじゃない。


 向き合うことだけが、

 優しさになる。


 俺は、

 ようやくそれを、

 理解した。






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