第6話 名前を呼ばないまま、憧れは残っていた
文芸部の部室は、今日も静かだった。
机に広げたノートを前に、俺はしばらくペンを動かせずにいた。
書こうとしているのは、新しい話の冒頭。
でも、言葉が出てこない。
「……だめだな」
独り言が、やけに大きく響く。
最近、桜庭しおりが入部してからというもの、
俺はよく、こうして手が止まるようになった。
理由は分かっている。
自分の書くものを、
ちゃんと読んでくれる人がいるからだ。
それは、嬉しい反面、怖くもあった。
*
ドアが開く音。
「こんにちは、先輩」
聞き慣れた声に、顔を上げる。
「こんにちは」
桜庭は、いつものように静かに入ってきた。
最近は、もう挨拶の仕方も自然だ。
「今日は、書いてますか?」
「……それが、全然」
「そうなんですね」
がっかりした様子も見せず、
桜庭は自分の席に座る。
ノートを開くが、すぐには書かない。
「先輩」
少し迷うようにして、声をかけてきた。
「文芸部って……
どうして続けているんですか?」
不意を突かれた質問だった。
「どうして、って」
「はい」
桜庭は俺を見ている。
評価する目じゃない。
探る目でもない。
ただ、知りたいという目。
「……急だな」
「すみません」
「いや」
俺は、少し考えた。
この質問をされたのは、初めてじゃない。
でも、ちゃんと答えたことはなかった。
「理由、か」
言葉を探す。
「最初は……流れだった」
「流れ?」
「一年のとき、先輩に誘われて」
そこまで言って、少しだけ言葉に詰まる。
桜庭は、続きを急かさない。
「……その先輩が、すごい人だったんだ」
自然と、過去の光景が浮かぶ。
静かな部室。
窓際の席。
背筋を伸ばして原稿を書く、年上の背中。
「文章が上手で、
考え方も大人で」
今思えば、理想化していた部分も多い。
でも。
「俺にとっては、
世界が少し広がる人だった」
桜庭は、黙って聞いている。
「その先輩が卒業して、
部員もいなくなって」
自然と、声が低くなる。
「……それでも、やめなかった」
「どうしてですか?」
「やめたら」
一度、言葉を切る。
「全部、なかったことになる気がして」
部活。
時間。
憧れ。
「その先輩と過ごした時間が、
意味を失う気がした」
それが、本音だった。
桜庭は、しばらく黙っていた。
そして、静かに聞いた。
「……その先輩のお名前、
聞いてもいいですか?」
少しだけ、胸がざわつく。
名前。
ずっと、心の中でだけ呼んでいた名前。
「……久遠、先輩」
口に出すと、不思議と現実味が増した。
「久遠……」
桜庭は、ゆっくりと繰り返す。
「下の名前は?」
一瞬、迷った。
でも、ここまで話して、隠す理由もない。
「久遠、玲奈先輩」
その名前を言った瞬間、
胸の奥に、懐かしい感情が広がった。
「綺麗な名前ですね」
桜庭は、素直にそう言った。
「……うん」
「その方は、今は?」
「もう、卒業してる」
そして。
「今は、三年の生徒会長」
正確には、
久遠先輩は、俺が一年のときの部長で、
今は三年生として生徒会長を務めている。
桜庭は、少し目を見開いた。
「すごい方なんですね」
「すごいよ」
即答だった。
「……憧れ、ですか?」
その質問には、少しだけ考えた。
「たぶん」
そう答えた。
「恋とかじゃなくて」
自分でも、はっきり言い切る。
「こうなりたい、っていう憧れ」
久遠玲奈先輩は、
俺の人生の分岐点みたいな人だ。
好きだったか、と聞かれたら、
答えは少し難しい。
でも、
追いかけていた背中だったのは、間違いない。
「……先輩」
桜庭が、少しだけ声を落とした。
「その久遠先輩に、
今でも、会うんですか?」
「たまに」
廊下ですれ違うことはある。
挨拶する程度だけど。
「……彼氏、いるんです」
俺は、先に言った。
変な誤解をさせないために。
「家族ぐるみで付き合ってる人」
桜庭は、驚いたようだったが、
すぐに納得したように頷いた。
「だから」
俺は続ける。
「文芸部を続けてる理由は、
期待とか、未練じゃない」
ただ。
「守りたかっただけ」
久遠先輩が大切にしていた場所を。
桜庭は、しばらく黙っていた。
それから、微笑んだ。
「……素敵だと思います」
「え?」
「その理由」
まっすぐな視線。
「誰かのために続けてきたことって、
すごいと思います」
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
「でも」
そう言って、続けた。
「今は」
言葉を選ぶように、
ゆっくりと。
「今は、先輩自身のためでも、
いいんじゃないですか?」
その一言が、
思った以上に深く刺さった。
「……自分のため、か」
「はい」
桜庭は、静かに頷く。
「久遠先輩が守っていた文芸部を、
今、先輩が守っている」
そして。
「そこに、私がいる」
その言い方が、
妙に自然で。
否定する言葉が、見つからなかった。
*
その日の帰り道。
校舎の階段で、
見覚えのある後ろ姿を見つけた。
背筋を伸ばして、
迷いなく歩く姿。
「……久遠先輩」
思わず、名前を呼んでいた。
久遠玲奈先輩は、振り返る。
「あら」
穏やかな笑顔。
「相沢くん。
まだ文芸部、続けてるのね」
「はい」
それだけで、十分だった。
先輩は、何も言わずに微笑んで、
再び歩き出す。
その背中を見送りながら、
俺は思った。
もう、追いかけているわけじゃない。
でも。
ここから先、
自分の足で進いてもいいのかもしれない、と。
第6話 名前を呼ばないまま、憧れは残っていた
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