第15話 境界線は、善意にも適用される


休日。

昼前。

佐伯ミナは、

駅から少し離れた通りを歩いていた。

商店街でも幹線道路でもない。

住宅地を抜ける、

信号機のない横断歩道。

白線は薄く、

気づかずに通り過ぎる車も多い。

ミナは歩道の端で立ち止まり、

左右を確認する。

一台の車が、

少し手前で停止した。

ミナは、

五秒ほど待つ。

ドライバーが止まった理由が、

減速なのか、譲歩なのか、

判断がつかない距離。

だが、

車は完全に停止している。

佐伯ミナは、

会釈もせず、

速足でもなく、

普段通りの歩幅で

横断歩道に足を踏み出したところで、

エンジン音が変わる。

車が、

発進した。

直後──

「ウー」

短いサイレン。

ミラー越しに、

パトカーの赤灯が見えた。

車が路肩に寄せられる。

ミナは振り返らず、

横断歩道を渡りきったところで自然に足を止めた。

警察官

「はい、停止してください」

ドライバー

「え? 俺ですか?」

警察官

「はい。

 今の横断歩道、

 歩行者がいましたね」

ドライバー

「いましたけど……」

ドライバー

「でも、

 あの人、

 譲ってくれたじゃないですか」

警察官

「譲った、という認識ですか」

ドライバー

「だって、

 止まったのに

 すぐ渡らなかったから」

ドライバー

「こっちに

 行けって合図されたと思って」

警察官

「確認します」

警察官

「横断歩道に

 歩行者がいる場合、

 車両は停止義務があります」

警察官

「歩行者が譲ったように見えても、

 それは免責にはなりません」

ドライバー

「でも、

 実際に事故には

 なってないですよね?」

警察官

「結果は関係ありません。

 道路交通法上は、

 違反です」

ドライバー

「そんな……」

ドライバー

「歩行者も

 気を使ってくれたのに」

そのとき──

佐伯ミナが、

静かに振り返った。

佐伯ミナ

「少し、よろしいですか」

警察官

「……はい?」

警察官は、

一瞬だけ言葉を選ぶ。

警察官

「あなたは、

 横断していた歩行者ですね」

佐伯ミナ

「はい」

佐伯ミナ

「確認したい点が

 あります」

警察官

「何でしょう」

佐伯ミナ

「今の説明では、

 “歩行者が譲ったかどうか”は

 判断要素に含まれない、

 という理解でよろしいですか」

警察官

「その通りです」

警察官

「歩行者の意思表示は、

 法的には

 優先権の放棄として

 扱われません」

佐伯ミナ

「ありがとうございます」

一拍。

佐伯ミナ

「では、

 もう一点」

警察官

「はい」

佐伯ミナ

「今の発進は、

 “私が譲った”と

 ドライバーが

 誤認した結果、

 という整理でよろしいですか」

ドライバー

「え……まあ……」

警察官

「そうなりますね」

佐伯ミナ

「承知しました」

ミナは、

視線を警察官から外さない。

佐伯ミナ

「では、

 この場で

 “歩行者が譲った”という

 説明を繰り返す必要は

 ありますか」

警察官

「……どういう意味ですか」

佐伯ミナ

「誤認であると

 整理されているなら」

佐伯ミナ

「それを

 正当化する説明は、

 事実確認としては

 不要だと思います」

沈黙。

警察官の表情が、

わずかに硬くなる。

警察官

「我々は、

 ドライバーに

 理解してもらう必要が──」

佐伯ミナ

「理解と、

 説明は別です」

警察官

「……」

佐伯ミナ

「違反の成立要件は

 すでに説明されています」

佐伯ミナ

「それ以上、

 “歩行者の善意”を

 材料にするのは」

佐伯ミナ

「事実の補強ではなく、

 感情の整理に

 踏み込む行為です」

ドライバーが、

戸惑った顔で

二人を見る。

警察官

「あなたは……」

佐伯ミナ

「第三者です」

即答だった。

佐伯ミナ

「当事者ではありません」

佐伯ミナ

「だからこそ、

 確認しています」

警察官

「……」

警察官は、

一度だけ深く息を吐いた。

警察官

「ご指摘は

 理解しました」

警察官

「では、

 手続きに戻ります」

それ以上、

歩行者の話題は

出なかった。

手続きが終わる。

ドライバーは、

まだ納得しきれない顔で

頭を下げた。

ドライバー

「……すみませんでした」

佐伯ミナ

「お気になさらず」

佐伯ミナ

「私は、

 譲っていません」

ドライバー

「……え?」

佐伯ミナ

「止まっているかどうかを

 確認していただけです」

それだけ言って、

ミナは歩き出した。

横断歩道の向こう側。

ミナは振り返らない。

(善意は、

 交通ルールを

 書き換えない)

(譲ったつもり、

 という認識も)

(法の前では、

 事実ではない)

彼女は、

休日でも同じだった。

相手が

一般人でも、

警察官でも。

感情ではなく、

定義と手続きを置く。

 

ナレーション

――ここは、コミュニケーション許可局。

善意は、

最も誤解されやすい行為だ。

助けたつもり。

譲ったつもり。

気を使ったつもり。

その「つもり」は、

しばしば責任を曖昧にする。

だが制度は、

“つもり”を事実として扱わない。

誰が止まる義務を負っていたのか。

誰が判断すべき立場だったのか。

それは、

感情ではなく

定義で決まっている。

佐伯ミナは、

善意を否定しない。

ただ、

善意に免責を与えない。

譲ったように見えた。

気を使ったように見えた。

それでも、

責任は移動しない。

だから彼女は、

説明を整理する。

誰かを庇うためでも、

誰かを責めるためでもない。

制度が、

感情に引きずられないように。

ここは、コミュニケーション許可局。

佐伯ミナは今日、

正しさを主張したのではない。

善意が

ルールを上書きしないよう、

境界線を

元の位置に戻しただけだった。

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