コミュニケーション許可局
53歳おっさんテケナー
第一章《許可のない会話たち》第1話 防壁、完成
幼稚園──噛み合わない歯車
園庭。
砂場。
佐伯ミナは、一人で山を作っていた。
壊れないよう、慎重に、静かに。
男の子が近づいてくる。
「ミナちゃん、すき! けっこんしよ!」
先生が声を上げる。
「きゃー、ミナちゃん人気者ね!」
ミナは言われた通りに笑った。
「ありがとう」
それで、その場は丸く収まった。
心の中で、幼いミナはそう理解した。
笑えば、世界は壊れない。
でも、それは会話ではなかった。
求められた反応を、返しただけだった。
その違和感の名前を、
彼女はまだ知らない。
小学生──壁の原型
昇降口。
下駄箱を開けると、
折り紙のハートが、ぱらぱらと落ちた。
「また? ほんと得だよね」
「今日だけで何通目?」
ミナは困って、正直に答える。
「うん……置く場所、なくて」
一瞬、空気が止まった。
足を止めた女子が、冷たい目で言う。
「自分で言う? それ」
すれ違いざまの声。
「いい子ぶり」
「無自覚が一番キツい」
ミナは理解できなかった。
事実を言っただけなのに、なぜ怒られるのか。
笑っても、
黙っても、
何かを言っても、
必ず誰かの機嫌を損ねる。
心の声。
(話すほど、ズレる)
その日から、
ミナは教科書を開くようになった。
最初は、勉強している“フリ”だった。
話しかけられないための、便利な壁。
だが、静かな時間は心地よかった。
小学後半──壁が習慣になる
ノートは埋まり、
テストは満点になる。
「佐伯、学年一位だぞ」
教師の声。
ざわつく教室。
誰も話しかけてこない。
それでよかった。
心の奥に、はっきりと刻まれる。
人と関わらなくても、生きていける。
それは、
佐伯ミナにとって初めての成功体験だった。
中学──善意は刃になる
放課後の廊下。
封筒を差し出される。
「好きです。付き合ってください」
ミナは、丁寧に答えた。
「ありがとう。でも、ごめんなさい」
翌日。
机に落書き。
「ぶりっ子」
「腹黒」
背後から、声。
「優しいフリすんなよ」
心の声。
断っても、殴られる。
受けても、消耗する。
善意は、相手の期待を裏切った瞬間、罪になる。
ここでミナは理解する。
感情を基準にすると、
必ず誰かが怒る。
高校──知性でも逃げられない
偏差値最上位校。
ここなら違うと思った。
だが、別の地雷があった。
グループ。
マウンティング。
人格の決めつけ。
どれにも参加しないミナは、
また孤立する。
心の声。
人間は、合理より所属を優先する。
──めんどくさい。
崩落
鏡の前。
摩耗した顔。
「もう笑わない」
「優しくしない」
「誰も、入れない」
正解なんて、
どこにもなかった。
静寂の避難所
暗い部屋。
布団の中で、
通知をすべて切る。
関わらない。
それだけが、安全だった。
テレビの光。
「断る権利」
「優しさの強要もハラスメント」
ミナの瞳が、わずかに動く。
「……私が、悪かったわけじゃない」
言葉の武装
机の上。
ノートと判例集。
ペンが走る。
・境界侵犯=暴力
・無断接触=侵害
・感情の押し付け=支配
・コミュニケーションは許可制
これは盾だ。
生き残るための、規程。
大学──鎧の設計
最難関大学。
心理学。
法学。
倫理。
人を嫌ったのではない。
人を理解しすぎた。
彼女は、人を学んだ。
脅威として。
防壁、完成
卒業式。
写真には入らない。
ノート最終頁。
『無許可コミュニケーション=侵害』
「私は、もう壊れない」
就職──理想の中枢
朝6時45分。
東京・新川。
ガラスの巨塔が、薄青の光を跳ね返す。
東都総合ホールディングス株式会社。
年商五兆円超。
金融・IT・物流・広告──
国家の中枢を動かす巨大体制企業。
ミナがここを選んだ理由は、
安定でも、名声でもなかった。
(理念と規程が、最も分厚い)
社訓パネル。
《人が語り、人が繋がり、未来を創る》
理想は、いつも美しい。
(理想がある場所ほど、逸脱は可視化される)
彼女は逃げなかった。
最も規律が必要な場所を、選んだ。
新入社員研修──異物の静寂
講師が語る。
「心理的安全性とは──」
ミナは、静かに手を挙げた。
「確認です。
心理的安全性は、
感情共有の義務ではありませんよね」
空気が止まる。
「……ええ」
「なら、“話さない選択”も尊重されるべきです」
その日の記録。
言語精度:異常値
集団緊張度:上昇
社会へ
名札。
佐伯ミナ/第一企画部
男性社員が言う。
「緊張しなくていいよ。笑って」
ミナは、静かに返す。
「境界を尊重してください。
それは心理的安全性の侵害です」
空気が凍る。
ナレーション
――ここは、コミュニケーション許可局。
それは、
誰かを裁く場所ではない。
誰かを導く場所でもない。
無許可で踏み込まれた感情、
同意なき期待、
善意の名を借りた侵入――
それらを、
ただ処理するための概念上の場所だ。
佐伯ミナは、
生まれつき冷たかったわけではない。
人を嫌っていたわけでもない。
彼女はただ、
「笑えば壊れない」
「黙ればやり過ごせる」
そうやって自分を削ることを、
ある日やめただけだ。
境界線は、攻撃ではない。
拒絶でもない。
それは、防壁だ。
許可のない会話から、
許可のない感情から、
自分を守るための、
最小限の構造。
ここは、コミュニケーション許可局。
この物語は、
誰かを正す話ではない。
誰かを救う話でもない。
ただ――
侵入を、侵入として扱う人間の記録だ。
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