第2話 再会
急にまた寒くなったな……。
そんなことを思いながら、緩み始めたマフラーに顔を埋めた。
辺りには人気がない。ひっきりなしに雨粒が傘に当たって、車道からは水を撥ねる音が聞こえてくる。仕事でもなければ外に出なかったというのに。
かじかんできた手をポケットに突っ込んだ。
ふと、向かいから来る人と目が合った。
「あ」「あっ」
今川だった。
◆ ◇ ◆
「――お待たせしました」
ブレンドのお客様と呼ばれ、軽く手を上げる。店員は木製のトレーからカップを手に取って、俺の前に置いた。
今川の前には、注文通りホットココアとショートケーキが並べられた。ココアにはクリームまで乗っていて、ケーキも大きい。
店員は伝票の紙を伏せ、会釈をして去って行った。
「甘ったるそうだな……」
「コーヒー、飲めなくて……」
今川は照れくさそうに笑った。
昔、学生の頃にはコーヒーばかり飲んでいた印象がある。よく誰彼からもらっていた。そのたびに笑って受け取っていたが――。
「飲めるフリはやめたのか」
「格好つけてたんだ」
今川はフォークを手に取る。
「そんなことしなくても良いんだって、やっと分かったんだ」
はにかみながらそんなことを言った。
カップを持ち上げ、コーヒーを一口飲んだ。今川が当時飲んでいたブラックコーヒー。苦く、コクのある味わい。湯気と共に立ち上る香り。冷えた体に温かさが染みていく。
今川はケーキの細い先端にフォークを差し入れて、一口分切り取った。それを食べて頬を緩めた。満面の笑みだ。
もう一口コーヒーを飲む。かじかんだ指先が少し熱を取り戻した。
今川がココアのカップを持ち上げて、
「元気だった?」
と聞いてきた。思わず笑いが零れる。
「それ、最初に聞くことじゃないか?」
「そうかも」
気恥ずかしげに今川も笑った。
コーヒーのカップをかちゃりと置く。
「まあまあだな。……お前は?」
「元気にしてるよ。君のおかげで」
「俺は何もしてない」
隣の通路を客が一人通り過ぎていく。
「そんなことないよ」
今川が微笑む。心の底からの穏やかな笑みだった。
「君に話を聞いてもらったおかげで、僕はあの日遠くへ行って、こうして戻ってこれらたんだ」
「大袈裟だな。そもそも、そうしようとしたのはお前だろ」
俺はコーヒーカップを手に取り、口を付けた。
「本当に感謝しているんだよ」
「分かった分かった」
ひらりと手を振れば、今川は目を細めて笑みを深めた。適当に返したというのにやけに嬉しそうだ。
雨は収まりそうにない。ただ、悪化している様子もない。
ケーキが徐々に小さくなっていく。ココアも減っていく。俺のコーヒーも。
からんとドアベルが鳴って、ありがとうございましたーと声が聞こえてくる。
ふと店内が明るくなった。赤みのあるライトが周囲を照らしている。
「辻くん――」
不意に名前を呼ばれて驚いた。名前を覚えているとは思っていなかった。
今川は微笑みながら、困ったように眉を下げていた。
「また……話を聞いてもらってもいいかな……?」
「喋りたければ勝手に喋れ」
今川は笑みを深める。下がっていた眉が上がって、小さく息をついた。
「ありがとう」
今川はココアを手に取る。クリームがココアと混じり合って、薄茶色になっていた。それを一口飲む。
「ずっと考えていたんだ」
ぽつりと呟かれる声は、独り言めいた響きがあった。
俺は伝い落ちる窓の滴を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
「僕ってどうして生きてるのかなって」
ちらりと横目で今川を見る。今川は手元のケーキに視線を落としていた。フォークが今にも転げ落ちそうなイチゴを押し上げている。
「ずっと分からなかったんだ。でも――」
今川と目が合った。店内の明かりに照らされて、輝いていた。
「気づいたんだ。僕の人生は、僕のものだって」
俺はぽかんとしてしまった。
「……何当たり前のこと言ってんだ」
今川は目を見開いて、それからじわじわと笑い始めた。
「ふふ……っ、はははっ……!」
口元を抑えて体を屈めて、本気で背中を震わせている。
俺はすっかり呆れて、珈琲を口に運んだ。温くなったそれは妙に甘く感じた。紛らわせるようにスプーンでかき混ぜる。
狂ったように笑い続ける今川は、十数秒ほどしてようやく顔を上げた。目尻を拭っている。
「ごめんごめん……、ふふ……」
「笑いすぎだろ……」
「ごめん、あの……面白くて……」
まだ目尻を拭いながら、今川は呼吸を整えるように息を吐き出した。
「そっかぁ……当たり前だったんだぁ」
呟いて、今川は天井を見上げた。
俺はカップを傾ける。もうほとんど残っていなかったので一気に飲み干した。
窓の向こうは雨脚が少し弱まったようだ。
今川はぼんやりした顔で窓を見ている。
雨粒が当たって流れていって、別れたり、別の雨粒と混じって大きくなったり、その場に留まったりしていた。
今川は正面に体を戻して、フォークを手に取った。イチゴはいつの間にかケーキの上から転がり落ちていた。今川はそのイチゴではなく、スポンジの方を刺した。
「僕、辻くんのこと好きだなぁ」
「……何言ってんだ、気色悪い」
「ははっ」
何笑ってんだ。
思いながら、俺は水を飲んだ。
今川はイチゴもひょいと平らげて、伝票を手に取る。
「良かったら奢るよ」
「いやいい。自分で出す」
「分かった」
財布から小銭を取り出して、今川に渡す。先に会計してくるね、と今川は手早く身支度を整えてレジへ向かった。俺も水をもう一口飲んでから、コートを羽織って荷物を持って追いかけた。
会計を済ませて、ありがとうございましたの声を背に店を出る。からんからん、とドアベルが鳴った。
天候は霧雨になっていた。
「本当にありがとう、辻くん」
「別に。俺は何もしてない」
今川は微笑んで、傘を広げる。シンプルな青い無地の傘だ。
「君と話せてよかった」
「そうか」
「じゃあね」
「じゃあな」
手を振って、今川は街中に消えていく。
俺は軽く伸びをして、大きく息を吸って吐き出した。真っ白く染まる息が消えていく。
雨がみぞれっぽくなってきた。
傘を差すか迷ったが、広げる。何の変哲もないビニール傘だ。それを肩にかけて、帰路についた。
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