第10話 窓辺の時間
朝は、静かだった。
目覚まし時計の音が鳴らない朝が、これほど落ち着かないものだとは思わなかった。
オサムはベッドの上で一度だけ身じろぎし、天井を見つめた。
白い。
やけに高い。
それだけで、自分がいつものワンルームにいないことを思い出す。
屋敷の朝は、音が少ない。
外の車の音も、人の声も、ほとんど届かない。
代わりに聞こえるのは、どこかで鳴る時計の針と、
遠くで風に揺れる木々の音だけだった。
着替えて部屋を出ると、廊下の先に柔らかな光があった。
カーテン越しの朝日だ。
――あ。
反射的に、足が止まる。
日和の言葉が、頭をよぎった。
「私は、朝の光を直接見ると、倒れちゃうの」
昨日、何でもない会話の途中で、
まるで天気の話をするみたいに言われた言葉。
オサムは、光の差す部屋を避けるように歩き、
リビングの反対側へ向かった。
キッチンでは、日和が椅子に座っていた。
窓から少し離れた位置。
カーテンは半分だけ閉められている。
彼女は紅茶のカップを両手で包み、
湯気を眺めていた。
「おはようございます」
オサムが言うと、
日和は顔を上げて、少しだけ微笑んだ。
「おはよう、オサムさん」
その呼び方に、まだ慣れない。
だが、嫌ではなかった。
「……よく、眠れましたか?」
「はい。久しぶりに」
嘘ではなかった。
夢を見なかった夜は、何ヶ月ぶりだろう。
オサムは、用意されていたトーストとスープを見て、
一瞬、戸惑った。
「これ……俺の分、ですか」
「ええ。飼ってるんですから」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
冗談なのか、本気なのか、まだ判断がつかない。
「……あの」
「はい?」
「俺、何をすればいいんでしょうか」
口に出してから、少し後悔した。
ここに来てから、何度も同じ疑問が頭をよぎっていたのに、
聞くのが怖かった。
日和は、少し考えるように視線を落とした。
「まずは、元気になることです」
「元気、ですか」
「はい。外に出て、働いて、帰ってきてください」
その言い方は、まるで
“それが当然”だと言っているようだった。
「……それだけで?」
「それだけで」
日和は、窓の方を見た。
カーテンの隙間から、光が床に細い線を描いている。
「私は、外を歩けません」
静かな声だった。
「だから、オサムさんが歩くところを、見せてください」
見せる。
それが、彼女の望み。
オサムは、なぜか胸の奥が締めつけられるのを感じた。
「……分かりました」
理由は分からない。
だが、この屋敷で、この少女の前で、
「嫌だ」と言う選択肢は浮かばなかった。
食事を終えると、日和は窓辺の椅子に移動した。
外がよく見える位置。
だが、光が直接当たらない距離。
オサムはスーツに着替え、玄関で靴を履く。
「行ってきます」
そう言うと、
日和は小さく頷いた。
「行ってらっしゃい」
扉を開けた瞬間、
外の光が一気に視界に流れ込む。
眩しさに目を細めながら、
オサムは一歩、外に出た。
背中に、視線を感じた。
振り返ると、
二階の窓から、日和がこちらを見ていた。
カーテン越しの、影のような姿。
――見られている。
だが、それは監視ではなかった。
どこか、祈りに近いものだった。
オサムは、深く息を吸った。
そして、歩き出す。
まだ、この生活の意味は分からない。
日和が何を望んでいるのかも、
自分がなぜ生きているのかも。
それでも。
誰かが、自分の「今日」を待っている。
その事実だけが、
足を前に進めさせていた。
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