#10 擬態





「オレ達を突き飛ばした時に、糸を付けたってことか?」

「その通り」


 溜口新一は、心なしかいつもの調子を取り戻しつつあった。桐崎の小指に巻きつけられた糸が、多少なりとも彼の焦りを緩和してくれたのだろう。

 ゲート施設の手荷物保管室で見た太い糸とは全くもって異なる、納豆のような細い糸だった。来訪者の野次馬に揉まれた際に絡まらず、千切れなかったのはなぜだろうか? と、桐崎は不思議に思っていた。

 もしかすると何本か糸が付けられていて、残ったものがこの一本だけだったのかもしれないが、真相は彼女に会ってみなければわからない。


 糸に導かれて辿り着いたのは、赤い郵便ポストだった。利用者を失ったポストを拘束するように、糸がぐるぐると巻かれ、光っている。


「終点だ」溜口は言った。「時間稼ぎのために、オレ達をここまで誘き寄せたんじゃないか?」

「何か、メッセージがあるはず」


 桐崎は近くの路地にライトの明かりを向けて、暗がりにひっそりと佇むアパートの入り口を見た。電球の並ぶ大通りの雰囲気から更に陰鬱になった、明かりのない日本の路地は、不気味な怖さがあった。

 虫型来訪者は光源をそこまで必要としない。むしろ暗がりを好む彼らにとって、照明のある大通りよりも、明かりのない路地の方が生活感があると言える。

 つまり、人間的視点からは廃墟のように見える建物こそが、虫型来訪者の住んでいる可能性が高いのだ。


 アパートのベランダを順番に照らしていって、その中で、桐崎は黄色いカーテンの一室を指差した。


「糸が出てる」


 ベランダの手すりに、風に揺れる白い糸が巻きつき靡いていた。


「よく見つけたな」

「蜘蛛型が起こした事件を捜査するのは、これで三回目」


 桐崎美涼はつかつかとアパートの入り口へ歩き、階段を照らして安全を確認すると、溜口を置いて上へとあがっていった。


 三階。外廊下から見る墜落区画の景色は重たく、ゲート入口に焚かれている自衛隊の照明が眩しく漏れているのが目を惹いた。

 宇宙から見る、地球の夜景データを眺めている気分になった。人間の多くいる地域が眩しく発光していて、自然の多い地域は暗く、押し黙っている。


 黄色いカーテンのあった部屋は、三〇二号室のはずだった。

 桐崎は軽くドアをノックして、「警視庁」と冷たく、機械的に言った。


 返事は、目の前ではなく、隣の部屋からあった。隣でドアが開かれて、恐る恐る顔を覗かせた、虫型来訪者の硬質な表情が顔を出して、彼は言った。


「おれか? ……おれじャないか」

「この部屋には蜘蛛型来訪者が住んでるはず」桐崎は隣人に訊ねた。「今さっきこの部屋に帰ってきたはず。合ってる?」

「物音はしタが、今は静かだ」

「どうも」


 桐崎はそう言うと、小脇に抱えた茶色い瓶をその来訪者に押し付けた。

 来訪者は驚いて押し返そうとしたものの、ニンゲンが押し付ける物を二度も押し返すのは気が引けたのだろうか。彼はしぶしぶ瓶を受け取ると、のそのそと自分の部屋へ戻っていった。


 桐崎はもう一度だけノックをすると、反応を待つ時間すら設けずドアノブに手をかけた。

 鍵は開いている。ドアを開けて、ライトの明かりを室内へと滑り込ませる。


 ワンルームの一室で、玄関のすぐそばにある洗濯機もキッチンも、放置されて久しかった。水道も電気も供給されていない墜落区画では、アパートの一室はただ仕切りと屋根のあるパーソナルスペースでしかないのだ。

 黄色いカーテンが風に靡いている。割れた窓ガラスから入り込む風が冷たく、二人の警察官の頬を寂しく撫で通っていった。

 中はかなり綺麗な状態を保っていた。割れたガラス片は部屋の角にまとめられて、ベッドは薄汚れていたものの、形は綺麗に整えられてあった。まるで、形だけでも人間のような暮らしぶりを目指したかのような、歪ながらも意思のある生活の痕が残されていたのだ。

 桐崎美涼は、ここがナギサの部屋だと確信した。

 太さの違う白い糸があちこちに散見された。脚が折れて倒れかけた液晶テレビを、壁と糸で繋げて補強している。割れたカラーボックスを糸で修繕した形跡も見受けられた。


 溜口新一が桐崎を追い越して、本棚に並んだ漫画の前にしゃがんだ。背表紙をつついて一冊を手に取ると、ペンライトを当てながら、中をぱらぱらとめくり始める。


「少女漫画だ」溜口は柄にもなく、蜘蛛型来訪者に想いを馳せていた。「憧れたんだろう。あんたにもそういう時期があったか?」

「そういう時期?」

「少女漫画とかを読んでさ、理想の恋愛を妄想するんだよ。白馬の王子様ってやつだ」

「漫画はあんまり。映画は観てきたけど」

「だからそんな感じなのか?」

「どんな感じ?」

「映画の中にいるみたいな喋り方と態度のことだよ。ドライで、無口で、白黒映画って感じだ」


「ナギサは恐らく窓から出て行ったんだと思う。カーテンが少し開いてて、手すりに糸が付着してる」

「ほら、そういうとこだよ」

「なにが」

「オレと雑談する気なし! 捜査捜査ってか? なあ、時にはリラックスしながら仕事することも大事だ。同僚と話をしながら、楽しく仕事を進めていくのさ」


 桐崎はベランダに出て外の景色をライトで照らしながら、反論した。


「さっきまで大慌てだったのはあなたのほう。視野が狭まって、叱られる前の子供みたいにそわそわして。私が気を利かせて屋台の変な食べ物を食べなかったら、いつまであの調子だったかわからない」

「気を利かせて食ったのか? あのドブの麻婆豆腐みたいなやつを?」

「そう。相棒が変な行動をしたら、自分は客観的になれるでしょう?」

「なるほどな」溜口は漫画を棚に戻して、立ち上がる。「確かにあれは冷静になった」


「溜口くん」

「何だよ」


 ベランダから階下を見下ろす桐崎は、アパートの下の路地裏の、一点を見つめて離さなかった。


「やっぱり、また慌てたほうがいいかも」

「だから何だよって」


 桐崎美涼は言った。


「マンホールの蓋が開いてる」

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