『完璧なインフルエンサー』の壊し方 〜密室のスマホと、ジャンクフードの復讐〜

いぬがみとうま

主役のいない祝杯

 都会の夜を地上百五十メートルから見下ろすタワーマンションの一室には、死骸のような静寂が横たわっていた。


 鼻を突くのは、飲み残された高級シャンパンの抜けた甘みと、冷えて凝固したオードブルの脂が混じり合った、ひどく不快な匂いだ。さっきまで鳴り響いていたアップテンポなダンスミュージックの代わりに、今は空気清浄機の低い唸りだけが聞こえる。


「……最悪だ」


 ソファに深く沈み込み、頭を抱えているのは健人だった。商社に勤めるエリートらしい隙のないスーツ姿も、今はあちこちに酒のシミが跳ね、見る影もない。


 私は、彼の足元に散らばった金色の紙吹雪を黙々と拾い集めた。指先に触れる紙片は無機質で、つい数時間前までこの場所が狂乱の渦にあったことが嘘のようだ。


「美咲、君はよくそんな冷静に掃除なんてできるな。エリカは、もう終わりなんだぞ」

「私はマネージャーですから。主役が倒れたあとの後始末をするのが仕事です」


 淡々と答える私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。寝室の重い扉の向こうでは、今日の主役であり、私の幼馴染でもあるエリカが泥酔して眠っている。


 今日は彼女の二十六歳の誕生日パーティーだった。フォロワー百万人を抱えるトップインフルエンサー、エリカ。彼女が笑えば流行が生まれ、彼女が指差せば商品が完売する。そんな彼女の絶頂を祝う宴になるはずだった。


 事態が暗転したのは、パーティーのクライマックス。会場の大型スクリーンに、彼女のスマートフォン画面がミラーリングで映し出されたときだ。


 最初は、ファンへの感謝を綴った動画が流れる予定だった。ところが、スクリーンに映ったのは彼女の『裏アカウント』の投稿画面だった。


『今日のゲスト、全員中身空っぽ。私の引き立て役だって自覚あるのかな?』 『美咲は相変わらず地味で、隣に置くと私の顔がより映える。最高の小道具』 『健人のプロポーズ、ダイヤの大きさが足りない。商社マンのくせにケチりすぎ』

『知り合いのシェフの店行った。めちゃまずい。帰ってハンバーガー食べよ』


 凍りついた会場。軽蔑と嘲笑の眼差し。招待客たちは蜘蛛の子を散らすように去っていき、エリカはパニックのあまりシャンパンを一気飲みして意識を失った。


 彼女の築き上げた華麗な虚像は、わずか数秒で、完膚なきまでに破壊されたのだ。


「誰かがハメたんだ」


 健人が、顔を真っ赤にして立ち上がった。


「エリカがあんなタイミングで、あんなヘマをするわけがない。スマホは、あのケースの中にあったんだぞ?」


 彼の視線の先には、リビングの中央に鎮座する特注の展示ケースがある。金色のフレームに縁取られた重厚なガラスケース。その中には、エリカがインフルエンサーとして駆け上がるきっかけとなった『伝説のスマホ』が、宝石のようにディスプレイされていた。


 エリカの美学により、パーティーの間、スマホは常にそのケースに収められていた。物理的な鍵がかかり、鍵はエリカ本人がドレスのポケットに隠し持っていた。


「外部からのハッキングか? それとも遠隔操作ウイルスか。ライバルのインフルエンサーなら、専門の業者を雇うくらい容易いだろう」


 健人の推理は、いかにもプライドの高い男が好みそうな陰謀論だった。私は掃除機の手を止めず、背中を向けたまま相槌を打つ。


「そうかもしれませんね。彼女には敵も多かったですから」

「そうだろう? 彼女はわがままで鼻持ちならないところもあったが、あそこまで詰めが甘い女じゃない。……いや、むしろ」


 健人の声から、怒りがふっと消えた。代わりに、湿り気を帯びた安堵が漏れ出す。


「……これで良かったのかもしれない」

「え?」

「実は、婚約を後悔していたんだ。彼女の傲慢さにはついていけなかった。でも、親の手前や世間体があって、自分からは言い出せなかった。今回の炎上は、婚約破棄をするには絶好の理由になる」


 私は彼の方を見なかった。鏡のような窓ガラスに映る健人の顔は、どこか救われたような、醜い笑みを浮かべていた。


 誰もが自分を守るために生きている。エリカを崇めていたファンも、彼女と結婚したがっていたエリートも、彼女が失脚した瞬間に牙を剥くか背を向ける。


 私は掃除機を止め、冷えたビールを二つ持って健人のそばに歩み寄った。


「お疲れ様でした、健人さん。少し、落ち着きましょう」

「ああ、悪いな。美咲、君は本当に気が利く」


 彼はビールを一気に煽った。


「それにしても不思議だな。一体誰が、どうやってあのスマホを操作したんだろう」


 私は彼の隣に座り、自分のビールを一口含んだ。喉を焼く炭酸の刺激が心地いい。


「健人さん、ハッキングなんて必要ないんですよ。ミステリー小説みたいに緻密なトリックも。もっと単純な方法があります」 

「……どういう意味だ?」

「エリカの『習性』を利用しただけです。彼女は、自分の顔しか見ていないから」


 私の静かな声に、健人が怪訝な表情を浮かべる。


「あの日……パーティーが始まる前。私はエリカのスマホを預かって、ケースに収めるフリをしました」

「フリ? だって、俺はこの目で見たぞ。彼女が鍵をかけて、中にスマホがあるのを……」

「ケースの中にあったのは、私が用意したダミーです。重さも質感もそっくりの、電源すら入らないただの塊」


 健人の動きが止まる。


「エリカは自分の成功の象徴がそこにあることに満足して、中身を確認することなんてしなかった。ガラスに映る自分の綺麗なドレス姿を見て、うっとりしていただけです。これが彼女の『習性』です」

「じゃあ、本物は……」

「私のポケットの中にありました。私を信じたんでしょうね。これも彼女の『習性』です」


 私はエプロンのポケットから、一台のスマートフォンを取り出した。


「私はキッチンの陰から、ミラーリングの設定をオンにして、適切なタイミングで裏アカウントの投稿一覧を開いただけ。鍵がかかったケースの中で、本物のスマホが動いていると誰もが思い込んでいた。でも、実際には私の手元で動いていたんです」


 健人は、信じられないものを見る目で私を凝視した。


「そんな……。じゃあ、君が、エリカを破滅させたのか? どうして……」

「どうして? ですか?」


 私は笑った。狂気ではなく、心からの解放感とともに。


「彼女、私のことを『便利な小道具』と言いました。私の家が貧しいこと、私が彼女ほど美しくないこと。それを強調するために、二十年間、私をそばに置き続けた。私が彼女の影でどれだけの屈辱を飲み込んできたか、あの方は想像もしたことがないでしょうね」


 エリカは、私が彼女を愛していると信じ切っていた。自分という太陽がいなければ、私は光を失う存在だと。その傲慢さが、彼女の目から真実を隠したのだ。自分の目の前にあるスマホが偽物であることすら気づかせないほどに。


「健人さん、あなたも同じです。彼女の性格の悪さを知りながら、その美貌と肩書きを利用しようとしていた。……だから、今の告白、録音させていただきましたよ」


 健人の顔から血の気が引いていく。


「婚約破棄、スムーズに進むといいですね。エリカが目覚めたら、この録音を聞かせてあげます。彼女、プライドだけは高いですから。裏切ったあなたを、ただでは済まさないでしょう」


 私は立ち上がり、部屋の隅に置かれた大きなゴミ袋を掴んだ。そこには、エリカが「美咲には似合わないわ」と言って私から奪ってきた数々のブランド品と、パーティーの残骸が無造作に詰め込まれている。


「さて、片付けは終わりです」


 窓の外では、夜の闇が薄れ始め、紫紺の空が白み始めていた。都会の輪郭がゆっくりと浮かび上がり、朝日がタワーマンションの窓を黄金色に染めていく。


 私はエリカのスマートフォンを、ゴミ袋の一番深いところへ放り込んだ。主役のいなくなったリビングは、余計な装飾が消え、今までにないほど清々しく、美しく輝いている。


「美咲……君、これからどうするんだ」


 震える声で尋ねる健人に、私はドアノブを掴んだまま振り返った。


「そうですね。まずは、ハンバーガーでも買って家で食べます。自分のためにかったハンバーガーを、誰にも邪魔されず、ゆっくりと」


 私は一度も後ろを振り返ることなく、その部屋をあとにした。背後でドアが閉まる音は、新しい人生の幕開けを告げる鐘の音のように聞こえた。

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『完璧なインフルエンサー』の壊し方 〜密室のスマホと、ジャンクフードの復讐〜 いぬがみとうま @tomainugami

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