第二章 【作者権限(オーバーライド)】:消えた英雄の謎

王都グランセルの路地裏は、雨とドブ川の混じり合った、不快な「未完の街」の臭いがした。 俺はエルナの手を引いたまま、追手の怒号が聞こえなくなるまで走り続け、放棄された地下貯水池へと滑り込んだ。


「はぁ……はぁ……、ここまで来れば、ひとまず……」


肩で息をしながら、俺は横にいる少女を盗み見た。 濡れた金髪が頬に張り付き、その瞳は恐怖と困惑に揺れている。聖女エルナ。俺が理想のヒロインとして描き、その設定(バックボーン)に数万文字を費やした存在。今、彼女の体温が、俺の手に生々しく伝わっている。


「……あの、助けていただいて、ありがとうございます。ですが……貴方は一体?」


エルナの細い声が、冷たい地下室に響く。 貴方は誰か。その問いに対し、俺の喉元まで「君の産みの親だ」という言葉が出かかり、慌てて飲み込んだ。今の俺は、自著の世界に迷い込んだ異分子。名乗るべきは、この偽りの肉体の名だ。


「……俺はカズ。ただの、通りすがりの情報屋だ」


「カズ、様……。でも、先ほど仰っていたことは一体……。あの男の剣が壊れることを、まるで予言者のように知っていらした……」


俺は答えに窮した。予言ではない。俺が「そう書いた」から壊れたのだ。 俺は意識を集中させ、先ほど浮かび上がったあの半透明のウィンドウを呼び出した。


【ステータス:天界院・L・カオス(一時介入モード)】

【現在地:第1章・第3シーン『地下での邂逅』】

【介入可能深度:15%(中盤までは漸増)】 【プロット整合性:危険(主要キャラ『アルス』の欠落により、物語の因果が崩壊中)】


やはり、アルスの不在が致命的なエラーを引き起こしている。 本来、アルスはここでエルナを救い、彼女を自分の旅へと誘う。それが『エターナル・レジェンド』の根幹だ。主役がいない以上、この先にあるイベントはすべて「発生しない」か、あるいは「強制終了」する。


「エルナ、君に聞きたいことがある。……銀髪の剣士、アルスという男に心当たりはないか? 今日、君を助けに来るはずだった男だ」


俺の問いに、エルナは悲しげに首を振った。 「アルス……? いえ、聞いたこともありません。この王都の騎士団にも、そんな名前の方は……」


「そんなはずはない! 彼はこの物語の、いや、この世界の希望として設定されているんだぞ!」


俺の激昂に、エルナはビクリと肩を揺らした。 俺はハッとして、自身の傲慢さを自覚する。そうだ、ここは紙の上じゃない。彼女にとってはこれが残酷な現実なのだ。


俺は頭を抱えた。アルスが存在しない? いや、俺の書いた世界設定は絶対のはずだ。 考えろ。俺は第1話で、アルスをどう描写した? 『銀髪の英雄は、過去の記憶を失い、ただ一本の聖剣を携えて辺境の村を出発した』


……。 …………まさか。


「……あいつ、まさか『出発すらしていない』のか?」


嫌な汗が背中を伝う。俺はアルスの旅立ちを「記憶喪失」という便利な言葉で片付けた。しかし、その記憶喪失のきっかけも、村を出る動機も、詳細を詰めるのは「中盤以降でいいや」と投げ出していたのだ。 設定が「白紙」である以上、彼は出発する理由を見つけられず、今も辺境の村で呆然と立ち尽くしている可能性がある。


「……くそっ、なんてことだ。俺のズボラが、世界を滅ぼそうとしているのか」


その時、地下室の入り口が激しく蹴り破られた。


「見つけたぞ……。ネズミ共、あんな小細工で逃げられると思ったか」


現れたのは、先ほどの暴漢たちではない。漆黒の法衣を纏い、顔を不気味な仮面で隠した二人組。 俺の脳内に、詳細な設定(データ)が流れる。 暗殺教団『黒い福音』の処刑人。レベル20。序盤のカズなら、指先一つで肉塊にされる相手だ。


「エルナ、下がってろ!」


俺は前に出た。腰の短剣を抜くが、手が震えて止まらない。 死ぬ。今、ここで首を撥ねられれば、俺という作家の人生は「未完」のまま終わる。


だが、俺の視界に再びあのウィンドウが展開された。

【介入権限:エピソード・オーバーライド実行可能】

【対象:処刑人の武器および周辺環境】


「ふん……。震えているではないか、無能なモブめ」 処刑人の一人が、黒い毒を塗った大鎌を振り上げた。


俺は叫んだ。それは祈りではなく、創造主としての「命令」だ。


「黙れ! このシーンの主導権は、俺(天界院)にある! 設定変更(リライト)――! その鎌の強度は、今この瞬間から『劣化した粗悪品』以下に低下する!」


【オーバーライド:承認。物理法則を記述通りに再定義します】


「な……っ!?」


振り下ろされた大鎌が、俺の短剣とぶつかった瞬間――。 まるで乾いたビスケットのように、処刑人の得物が粉々に砕け散った。 それだけではない。俺は地面を指差す。


「さらに、足元の石畳は数百年分の腐食を受け、底が抜ける!」


メキメキと音が響き、処刑人の足元の床が崩壊した。 「なっ、馬鹿な!? なぜ地面が――ぎゃあああっ!」 叫びと共に、処刑人たちは地下の暗闇へと消えていった。


静寂が戻る。 残されたのは、俺の荒い呼吸と、信じられないものを見るようなエルナの視線だけだ。


「カズ様……貴方は、神様……なのですか?」


「……違う。神じゃない」


俺は砕けた大鎌の破片を拾い上げ、苦々しく吐き捨てた。 「俺は、責任を取らなきゃいけない……最低な『書き手』だよ」


中盤までは、俺が書いた設定がある。介入権限さえあれば、どんな強敵も「設定の矛盾」を突いて無力化できる。まさに無双だ。 だが、その優位性は「俺の記憶に設定がある場所」までしか通用しない。


「エルナ、俺についてこい。主役がいないなら、俺がこの物語を終わらせる。……あいつを、アルスを見つけ出し、俺の手で『完結』まで導いてやる」


俺は決意した。 この第1章のラストシーンを、俺自身の意志で書き換えることを。


だが、俺はまだ気づいていなかった。 アルスが消えた真の理由が、単なる設定不足ではなく――俺自身の「深層心理」が招いた、更なる闇の伏線であることを。

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