私は車道側を歩きたかった
@hayate12sukoshi
第1話
「あの、落としましたよ」
そんなよくある台詞を私の人生で発する機会があるとは、夢にも思っていなかった。
前を歩いていた伊東君は体ごとこちらに振り返る。パスケースを持っている手に力が入る。
「あ、ありがとう」
伊東君は一瞬時間が止まったかのように、動かなかった。もしかして、私のことが分からないのかな、と不安がよぎる。
すっと手が私の手前まで伸びてきた。伊東君の掌が触れられるくらい近くにあるなんて、初めてだ。何もかもを受け止めてくれそうな大きくて分厚い。私はその上にパスケースをそっと乗せた。
「やっぱ伊東君だったんだ。後ろ姿で自信がなかったけど……」
自信がないなんて嘘だ。この後ろ姿が伊東君だと確信していた。私が御手洗いから出ると、くるくるとした癖毛で、見覚えのある黒のトレーナーにブルーのジーンズ。それに黒のリュックを背負っている人が前を歩いていた。その後ろ姿は一緒の講義の時に必ず見ている、後ろ姿だった。
「佐藤さんも帰り?」
私は「うん」と静かに頷く。
見たところ、伊東君は一人だ。私は淡い期待をしてしまう。
男女のペアが私たちを追い抜いていく。楽しそうな笑い声はすぐに私の耳には届かないくらい離れて行ってしまった。
太陽が雲に隠れようとしているのか、落ち葉を照らすオレンジの光が少し淡くなった。
「嫌でなければ、一緒に帰る?」
伊東君の少し低い心地良い声が私の耳にくっきりと届く。
頬が熱くなる。太陽は隠れるのを止めて、煌々と木々を照らし始めた。
伊東君の後ろを歩いている間、追いかけて、声をかけたかった。でも、友達と約束があるかもしれない。そもそも、普段は挨拶くらいしかしていないのに、わざわざ追いかけて声をかけても引かれると思っていた。そんなことを考えていたら、伊東君がパスケースを落としてくれた。
「うん。私の方こそ嫌でなければ……」
「嫌なわけがないよ。ごめん、変な聞き方しちゃって……」
伊東君は早口で言った。
『嫌なわけがない』
その言葉に私の口角は反射的に上がる。否定の否定ということは、強い肯定だと受け取るのは都合が良すぎるだろうか。でも、受験で古文を勉強していた時に、そう習ったのだから仕方がない。
私は伊東君の右側に並ぶ。イチョウの木々が私たちをそっと優しく見守ってくれるように感じた。イチョウが陽光を浴びてキラキラしている。
今日は運がいい。そう思った時、朝の情報番組で流れていた星座占いを思い出す。私の星座は恋愛運が最高得点で、『今日は気になっている人と距離が縮まるかも』と書いてあった。
たかだか情報番組の占いに一喜一憂するのも馬鹿らしい。でも、今日は当たっていると言って良いのではないか。私は何にお礼をすれば分からないけど、とりあえず神に感謝した。
伊東君が左にいる。こうやって並んで歩いているだけで、心臓がトクトクといつもより体内で鳴り響く。
横目で伊東君を見ると、この先の道路を見据えていた。私も道路を見ると車が1台、通り過ぎて行った。
ふと、昨日の昼休みの一幕を思い出す。
「男はね、優しい子が好きなんだよ」
大学に入ってすでに二人の男の子と付き合い、別れている友達が卵焼きを頬張りながら言っていた。私より経験が豊富な友達が言うのだから、間違いないのだろう。
だとすれば、私は車道側を歩きたい。車道側を歩くのは優しさの定番だ。このままの並びをキープしていれば、私が自然に車道側を歩ける。
伊東君に優しくできる。そう思うだけで、ほんのりと心が温かくなった気がした。
ふと左を見ると、伊東君がいない。私は立ち止まり、後ろを振り返る。すると、何やらしゃがんでいた。
「大丈夫……?」
私は反射的に声をかけた。体調が悪いのか、と不安になる。
足元にあった落ち葉を踏んだのか、カサリと音が鳴る。
伊東君は少し顔を上げて、「あ、ごめん。靴紐がほどけて……」と言った。
「良かった」
そう言って、私は息を長めに吐いた。スッと体が軽くなったような気がする。思っていたよりも、体が強張っていたみたいだ。本当に無事で良かった。
「ごめんね」
伊東君はそう言って、私がいる所まで駆け寄ってくる。クルクルした髪が少し揺れて、それが犬みたいで愛おしく感じた。
アスファルトを軽快に蹴って、伊東君はさっきまでの私の左側ではなく、右側に向かってくる。このままだと伊東君が車道まで飛び出してしまう。でも、伊東君に車道側を歩かせるのは申し訳ない。
公道を車がびゅうっと通り過ぎる。
「あっ」
私は歩道側に寄った。その隙に伊東君は車道側に収まってしまった。
せっかく、優しさをアピールできると思ったのに。伊東君は気が利かない私をどう思うだろう。
「大丈夫?」
伊東君はこちらの表情を窺っている。
「大丈夫だよ。って、何で伊東君が聞くの?」
私は努めておどけて言ってみた。伊東君の表情がやわらぐのに、私も安心する。
私は肩にかけていたトートバッグを伊東君と反対の肩にかけなおす。少しでも、伊東君を感じていたかった。気持ち悪いかもしれないけど、これくらいは許してほしい。こんなチャンス二度とないかもしれないのだから。
私たちはどちらからともなく、改めて駅に歩みを進めた。
大学から駅までの道は、閑静な住宅街だ。通勤や通学の時間はとっくに過ぎているからか、実は誰も住んでいないのではないか、というくらい静かだ。本当に二人きりになったかのような感覚に、ドギマギする。
「そういえば、伊藤君も今日は午前中で大学、終わりなんだね」
私は自分の緊張を隠すように口を開いた。この時間に帰っているから当たり前なのに、どうしようもない質問をしてしまう。
「うん。水曜日は午前中に集めたんだ」
「そっか。私は午後の講義が休講で、この時間までなんだ」
ということは、この時間に一緒に帰ることは、そうそう無いことだ。その事実に残念な気持ちが湧き上がる。
「そうなんだ」
伊東君の表情が少し陰ったような気がした。都合よく解釈したらダメだとは分かっている。でも、こうやって一緒に帰れることがあまりないことを残念がってくれているなら、これほど嬉しいことはない。そんなことを思うはずないのに、私の都合が良い脳みそは、無駄にポジティブな解釈をしようとする。
太陽がちょうど一番高いところに到達しようとしているのか、暖かさが増してきた。朝は手がかじかむくらい寒かったのに、今は少し汗ばむ暑さだ。
「朝は寒かったのに、お昼になると暖かいね」
暖かいはずなのに、鳥肌が立つ。私の頭に浮かんでいた言葉をそのまま声に出してもらったみたいだった。
伊東君はトレーナーを軽く腕まくりしていた。露わになった腕は筋張っており、男らしく見えた。
「そうなんだよね。服選びとか難しいし、朝とか悩んじゃった」
天気予報を見ながら、本当に悩んだ。ニットじゃない方が良いかな、と思った。でも、せっかく秋と呼ばれる時期なのだから、そういう服を着たかった。温度調整がしやすい服装にすれば良かった、と後悔がないわけではない。けど、今日はこの服にしたかった。伊東君と並んで歩けるのだから、秋らしい服を選んでいて良かったと思う。
私が伊東君の方を見ると、伊東君も私の方を向いた。予期せず目が合って、私の心臓はトクリと音を立てた。
彼に私はどう見えているのだろう。私を可愛いと思ってくれているのかな。一緒にいたい、と思ってくれないかな。そう思ってくれるように振舞いたいのに、この帰る時間だけでは難しい。私は意気地がない。
もうすぐで住宅街を抜ける。そうすると、すぐに駅に辿り着いてしまう。伊東君との二人の時間が終わってしまう。
私の足取りは段々とゆっくりになってしまう。こんなことをしては、伊東君に迷惑がかかると分かっているのに、足の速度は落ちる。明らかに遅くなっているのに、伊東君は気にする素振りがない。むしろ、私に合わせてくれるようにも見える。
不意に、伊東君からグウ、という少しまぬけな音が響いた。
太陽が雲に隠れて、空気がヒンヤリとする。
この音はもしや、お腹が空いた時に鳴るあの音ではないか。静かな住宅街のおかげで、しっかりと私の耳にも届いた。
チラリと伊東君を見ると、耳まで赤くなっている。そんな伊東君が愛おしくなる。
「お腹空いたね」
私の言葉に伊東君は反応しない。聞こえなかったのかな。もう一度言うのは少し恥ずかしかったけど、もっと恥ずかしい思いをしているだろう、伊東君のためだ。
「私も……、お腹空いたかも」
伊東君が立ち止まり、私の方を振り向く。その目は見開いていた。
「ご飯……、一緒に行かない?」
伊東君がぼそりと呟くように言った。でも、その声は私の全身に深く届く。
近くの軒先に植えられた葉が揺れた気がした。優しい風が私たちを撫でて行った。
『今日は気になっている人と距離が縮まるかも』
占いの結果が脳裏をよぎる。まさか、こんなことが起きるなんて、占いの結果を見ていた時には、思いもしなかった。
私は、自分に感謝した。いや、私は伊東君に感謝しないといけない。パスケースを落としてくれたこと。一緒に帰ってくれたこと。そして、誘ってくれたこと。全て伊東君のおかげだ。
そう気づいた時、何故か私はひどく自分が情けなく思えた。今の状況とは相反する感情に私は戸惑ってしまう。
「ごめん、何でもないよ」
おどけたような口調が伊東君から聞こえた。そして、すぐに駅の方に歩き出そうとした。
「行こう」
私は反射的に、声を出していた。
「え?」
伊東君が立ち止まって、こちらを振り向く。
「誘ってくれるなんて思わなかったから……。驚いちゃって……」
私がすぐに返事をしなかったせいで、伊東君は断られたと思ったんだ。やっぱり私はダメだな。
やっぱり、私は優しくない。車道側も譲っちゃったし。誘ってくれたのも、踏みにじろうとしちゃった。
私はそんな気持ちを払拭するために、小走りで伊東君のところまで、駆け寄った。
風が私の体に当たってくる。むき出しの手が冷たく感じる。
「いや、ごめんね、急に。本当に、嫌じゃない?」
伊東君は本当に優しい。気を遣ってくれる。
「嫌じゃないよ。むしろ、誘ってくれてありがとう」
私は精一杯に笑顔をつくって言った。
伊東君の不安そうな顔が、優しい顔に戻って私はホッとした。
太陽が再び顔を出し、私たちを温かく包む。
「何か食べたいものある?」
伊東君は私の表情を窺うように聞いてくれる。
「何でも大丈夫だよ」
そう、伊東君と一緒なら何でも大丈夫だ。嫌いなものもないし、伊東君が好きなものを選んでほしいな。きっと、それが優しさだと思う。
そう思うけど、胸の中では引っかかりがある。魚の小骨が喉に引っ掛かるような痛みのようなものも生じる。
伊東君はリュックの肩ひもを強く握り締めて、難しそうな表情をしている。
「もしかして……、色々考えてくれてる?」
伊東君の表情を見て、私は自分の中のつっかえに気が付いた。
「本当にごめん。ダメだよね。頼りきりになっちゃって。甘えちゃって。何してるんだろう」
私のは優しさじゃない。
「いや、僕の方こそ、ごめん。お店とかあまり知らなくてさ……」
伊東君は頭をかきながら、申し訳なさそうにしている。
トートバッグの紐を掴む手に、力がこもる。
私が優しさだと思い込んでいたことは、ただの自意識過剰だ。本当に情けない。
せっかく誘ってくれたのだ。
私は辺りを見渡した。コンビニすらなく、ひたすら家が立ち並ぶ。ここはそういう立地なのだ。
「そういえば、この辺りってそもそもお店が少ないよね」
私は握りしめていた手を緩め、トートバッグからスマホを取り出す。そして、そのままグーグルマップを開いた。行ってみたいお店をいくつか保存している。
「伊東君って嫌いなものある?」
少しの間があった後、伊東君は「ない」と答えてくれた。
それなら、と、私は今一番行きたいと思っていたお店を選んだ。木々に囲まれたテラス席のある、レンガ造りの小奇麗なカフェだ。一度だけお店の前を通ったことがあり、行ってみたい、と思っていた。後で口コミを見ると、ランチメニューのオムライスが美味しいと書いてあった。でも、ここに行くには繁華街まで電車を使わないといけない。伊東君も私も最寄り駅ではなく、わざわざそこに行かないといけない。伊東君をそこまで連れて行って良いのか、一抹の不安がよぎる。
私は伊東君の表情を一瞥した。そこには、何でも受け入れてくれそうな、私の好きな笑顔があった。挨拶をしてくれるたびに作ってくれるその笑顔に勇気が出てくる。この人になら、大丈夫だ。
「あのさ。私のわがまま、聞いてもらってもいい?」
私の声だけが住宅街の中に響いて、いやに強調される。
「いいよいいよ。何でも言って」
優しい風が私の頬をかすめた。
「実はさ、繁華街の方に行きたいと思ってたお店があってね、そこに行っても大丈夫? 電車での移動になっちゃうけど……」
心臓の音が体中に響く。太陽が私の頬を容赦なく照らしているように火照ってくる。
私はスマホから目を離せない。
「よし、そこに行こう。決めてくれて、ありがとう」
伊東君は親指を立てて言った。その姿がなんか可笑しくて、少し笑ってしまう。
「ううん」
魚の小骨が喉に引っ掛かっていたのが綺麗に取れたような感覚になる。
「楽しみだな」
気づいた時には、声に出ていた。でも、良いんだ。本当にそうだから。
伊東君を見ると、心なしかさっきよりも雰囲気が明るくなっている気がした。やっぱり私は伊東君の笑顔が好きだ。
私たちはまた駅に向かって、歩を進める。心なしか、そのスピードは速くなっていた。
駅に着くと、伊東君はポケットからパスケースを取り出した。私はそのパスケースに心の中で拝んだ。
目の前にはホームに上がるためのエスカレーターがある。これは、前に立つのか、後ろに立つのか、どっちが優しいのだろうか。
伊東君の歩みが遅くなる。そうか、これは前に行くのが良いんだな。私は伊東君の前に出る。
「ありがとう」
私は伊東君の振り向き、お礼を言う。優しくしてくれたら、素直にお礼を言えばいい。そんな関係が一番暖かい。
私たちを乗せたエスカレーターは、心地よい速さで私たちをホームまで運んでくれた
私は車道側を歩きたかった @hayate12sukoshi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます