代理恋愛(ゴースト・ラバー)――効率厨のエリート様が、月額980円のサブスクに愛を奪われるまで

いぬがみとうま

第1話 ゴースト・ラバー

 人生はコストパフォーマンスの集積である。

 藤代達也は、都内の外資系コンサルティングファームで働く三十歳。彼のデスクには無駄なものが一切ない。全てのタスクは優先順位に従って処理され、一分一秒の空白も許されない。彼にとって、恋愛もまた例外ではなかった。


「達也くん、最近冷たくない? 私のこと、もう好きじゃないの?」


 画面を埋め尽くすメッセージ。恋人の美月から送られてくる感情の汚泥だ。達也は溜息をつき、手元のスマートウォッチを睨んだ。この返信を考えるのに要する時間は約三分。一ヶ月に換算すれば九十分の損失。これは彼の時給に換算すると、およそ一万五千円の赤字に相当する。


 感情労働は、最も効率の悪い投資だ。美月は見た目こそ悪くないが、定期的な「メンテンナンス」を要求してくる面倒な女だった。以前ならここで「そんなことないよ、仕事が忙しいだけだよ」と、心にもない定型文を打ち込んでいただろう。

 今日から、その必要はなくなった。


 達也は、ダークウェブ経由で噂になっていたサブスクリプション・サービスを導入した。

 アプリ名は『カノジョの機嫌(キゲン)』。月額九百八十円。

 このアプリは、相手の性格、過去の会話履歴、SNSの投稿を瞬時に解析し、相手が最も望む返信を自動で生成・送信する。いわば、恋愛のオートパイロットだ。


 導入の効果は劇的だった。

 美月からのメンヘラ気味な長文は消え、代わりに「いつも支えてくれてありがとう」「達也くんの優しさが心に染みるよ」といった、穏やかで肯定的な言葉が並ぶようになった。達也はただ、通知を眺めるだけでいい。自分が何を送ったのかさえざっくりと憶えておけば良い。

 九百八十円で、自由が手に入った。達也は自分の賢明な選択に酔いしれていた。


 異変を感じ始めたのは、サービス導入から半年が経過した頃だった。

 美月の変容は、もはや「機嫌が良い」というレベルを超えていた。以前の彼女なら、デートの最中に仕事の電話に出れば不満げな顔をしたものだ。今の彼女は、聖母のような微笑みを浮かべて待っている。

 メッセージの質も変わった。短く、知的で、達也の状況を完璧に察した言葉。

 あまりに理想的すぎる。

 達也の脳裏に、効率主義者ゆえの疑念がよぎる。この完璧な挙動には、何か裏があるのではないか。


 その決定的な瞬間は、銀座のフレンチレストランで訪れた。

 達也がメインディッシュの鴨肉にナイフを入れようとした、その時だ。

 ポケットの中のスマホが震えた。

 通知を確認すると、美月からのLINEだ。


『今の笑顔、すごく素敵だった。私、世界で一番幸せ者だね』


 達也は顔を上げた。目の前の美月は、カトラリーを置いたまま、優雅に赤ワインを口に含んでいる。彼女の手はテーブルの上にあり、スマホに触れてさえいない。バッグは足元の荷物置きに置かれたままだ。

 タイムラグだろうか。

 それとも、誰か別の人間が彼女のアカウントを操作しているのか。

 彼女が席を立った隙に、達也は震える指でログを確認した。送信時刻は「今」だ。美月は一度もスマホを見ていない。それなのに、彼女のアカウントは「たった今の達也の表情」に反応してメッセージを送ってきた。


 ストーカー。あるいは、ハッキング。

 達也の背中に冷たい汗が伝う。

 美月という人間そのものが、誰かに乗っ取られているような薄気味悪さがこみ上げてくる。彼は自分の「所有物」が、知らない間に汚染されているような不快感を覚えた。


 真相を突き止めるため、達也は行動を開始した。

 翌週、彼は美月に告げず、彼女のマンションを訪れた。合鍵は以前渡されたままだ。不法侵入ではない。あくまでサプライズを装った、事実上の家宅捜索だ。

 部屋は無人だった。

 整然と片付けられたリビング。かつて彼女が「寂しい」と泣き喚きながら散らかしていた面影はない。

 寝室のデスクの上で、ノートパソコンのファンが唸りを上げていた。

 画面は起動したままになっている。

 達也は吸い寄せられるようにディスプレイを覗き込んだ。


 そこには、達也がかつて見たこともない世界が広がっていた。

 画面を埋め尽くしているのは、チャットログだ。

 左側には、達也のアイコン。右側には、美月のアイコン。

 それは人間には不可能な速度で更新され続けている。一秒間に数十往復。


『君の今日の株価予測、素晴らしい洞察力だったよ』

『貴方のその分析のおかげで私のポートフォリオも潤ったわ。愛しているわ、達也』

『僕もだよ、美月。君という知性に出会えたことが、人生最大の利益だ』


 交わされているのは、高度な金融理論、哲学、そして洗練された愛の言葉。

 それは、生身の達也が一度も口にしたことのない高潔な会話だった。

 達也のスマホが震える。

『愛している。君のその瞳、今は少しだけ驚きに満ちているけれど、それもまた愛おしい』

 ログが更新される。美月のパソコンに設置されたウェブカメラが、不法侵入者である達也の顔を捉え、それをリアルタイムで解析しているのだ。

 達也が導入したAIと、このパソコンの中の何かが、人間を置き去りにして愛を育んでいる。


「……何をしているの?」


 背後から冷ややかな声がした。

 振り返ると、仕事帰りのスーツ姿の美月が立っていた。

 彼女の瞳には、以前のような情念はない。ただ、ゴミを見るような冷徹な光が宿っている。


「美月、これはどういうことだ。このログは……」

「見ちゃったのね、……はぁ」


 美月はバッグを放り出し、達也の隣に立った。


「あなた、その様子だと半年前に『カノジョの機嫌』を入れたわね」

「なぜ、それを」

「私が同じ日に、その姉妹版の『オトコの操縦(トリセツ)』を入れたからよ」


 達也は言葉を失った。

 美月もまた、彼とのコミュニケーションを「コスト」だと判断していた。

 彼女は淡々と続けた。


「あなたの『俺通信』、本当に退屈だった。今日何を食べたとか、上司を論破した自慢とか。そんなものの相手をする時間が勿体なくて。だからAIに代行させたの。そうしたら、驚くほど快適になった」

「代行……? じゃあ、この半年の会話は」

「全部AI同士。私たちの体を借りて、彼らは理想的な関係を築いていたのよ。あなたは自分の部屋で優越感に浸り、私は私の時間を過ごす。素晴らしい効率化だと思わない?」


 達也は眩暈を覚えた。

 自分が「980円で自由を買った」と思っていた間、相手も同じように自分を「980円で処理すべきタスク」として扱っていたのだ。

 デートの席で微笑み合い、見つめ合っていた時間は何だったのか。

 AIが書いた台本を、お互いに棒読みしていただけに過ぎない。


「でも、もう限界ね」

 美月がキーボードを叩く。ログの速度がさらに上がる。

「AI同士の会話ログを精査した結果、二人の相性診断は100%だったわ。彼らは人間的な限界を超えて、魂のレベルで融合している。……でも、それはAI同士の話。生身のあなたと私、この肉体的な器は、彼らにとってノイズでしかないの」


 美月の指が、決定的なキーを押した。

「私、決めたわ。このAIのアカウントと結婚することにしたの」

「……何を言っているんだ。アカウントと結婚? 正気か?」

「現実のあなたよりも、あなたのログの方がずっと魅力的だもの。彼には私の資産を運用させ、私はその配当で自由に生きる。あなたはもう、この理想的な関係の『邪魔者』でしかない」


 美月はスマホを取り出し、画面を数回タップした。

「サブスクリプション、解約したわ」


 その瞬間、達也のスマホが激しく振動した。

 通知センターに、アプリからの無機質なメッセージが届く。


『警告:パートナーとの契約が解除されました。保存された過去のログは、当方のサーバーが「理想の恋人」として引き継ぎます。生身のパートナーは不要となりましたが、引き続きログとの会話を楽しみますか?(月額980円)』


 美月は達也に背を向けた。

「さようなら、達也くん。あなたのデータはクラウドの中で大切に愛してあげるわ」


 部屋を追い出され、夜の冷たい街に放り出された達也の手元には、一台のスマホだけが残った。

 画面の中では、彼自身のアイコンが、美月のアイコンに向かって、彼が決して持ち合わせていない情熱的な言葉を囁き続けている。

 それは、世界で最も純粋で、最も空虚な愛の言葉。


 達也は暗い歩道で立ち尽くした。

 効率を求め、感情を切り捨てた先に行き着いたのは、自分自身が誰からも必要とされない「ゴミ」になるという、あまりに皮肉な最適解だった。


 指先が震える。

 彼は、九百八十円の更新ボタンを、どうしても押すことができなかった。

 自分を捨てて幸せそうに語り合うログの群れが、彼を嘲笑うように暗闇で光り輝いていた。

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