黒板に何も書かない東大対策

イミハ

黒板に何も書かない東大対策

山田くんが工藤教授を初めて見たとき、最初に思ったのは――

あ、この人、長生きしなさそうだ

だった。

伝説の天才講師。

東大模試満点経験者。

予備校界の生きるレジェンド。

そう聞かされて教室に入った山田くんの前に現れたのは、

顔色が悪く、歩くたびに肩で息をする中年男性だった。

「えー……ゴホッ……」

開始時刻ちょうど。

工藤教授は教卓にたどり着くなり、そこから動かなくなった。

(……これは、もう授業が始まっているのか?)

沈黙が三十秒ほど続いたあと、教授はようやく口を開いた。

「東大に受かりたい人は、今日の授業を信じないでください」

初回講義、終了の空気が流れた。

その日、黒板は一度も使われなかった。

チョークは持ち上げられ、落とされ、拾われ、また落とされた。

「今日は……チョークがやる気ないですね」

(チョークのせい!?)

山田くんは必死にノートを取ろうとしたが、

書くべき内容が何もなかった。

・東大は目的にするな

・正解は信用するな

・体調が悪い

ノートの半分が、教授の健康状態で埋まった。

山田くんは浪人生だった。

真面目で努力家。

参考書は新品同様だが、メンタルは中古。

模試の判定は、いつもD。

「あと一歩」が永遠に来ないタイプの人間だ。

そんな彼が通う予備校で、工藤教授は有名だった。

・よく休む

・よく咳き込む

・なのに、たまに神がかったことを言う

授業開始五分で椅子に座り、

「今日は……座学です」

と言い切ったとき、

山田くんは「座学の意味」を初めて考えた。

ある日の授業。

工藤教授は珍しく黒板に問題を書いた。

「今日は問題を解きます。たぶん」

“たぶん”が付く授業は初めてだった。

山田くんは必死に解き、恐る恐る手を挙げた。

教授は答えを見て、しばらく黙り込む。

「……正解です」

(よかった!)

「でも、この解き方」

教授はチョークを置き、言った。

「人生では使いません」

教室が凍った。

「え、試験では……」

「試験では出ます」

「じゃあ……」

「人生では出ません」

(何の話!?)

「いいですか」

教授は続けた。

「正解は忘れます。でも、なぜ間違えたかは覚えてる。

 だから今日は、間違えた人だけ前に来てください」

その日、教室史上もっとも「間違えたかった空気」が生まれた。

数週間後、工藤教授は来なくなった。

休講連絡なし。

代講なし。

教室の机の上に、一枚の紙だけが置かれていた。

今日は行けません。

理由は各自で考えてください。

「いや、普通に体調不良だろ……」

そう言いながらも、

山田くんはその紙をノートに貼った。

なぜか捨てられなかった。

模試の結果は変わらなかった。

判定は、安定のD。

それでも、山田くんは気づいていた。

初見の問題でも、前より粘れる。

分からないまま、考え続けられる。

「これ……工藤教授のせいだな」

良い意味か悪い意味かは、分からない。

試験当日。

会場は静かで、張りつめていた。

山田くんは問題用紙を開く。

最初の一問を見た瞬間、頭に浮かんだのは――

「これは……人生では出ないな」

思わず、少し笑った。

そして、問題文を読み直す。

条件を疑い、前提を確かめ、

自分の言葉で考え始める。

不思議なことに、手は止まらなかった。

試験が終わり、外に出ると、空はやけに高かった。

合格するかどうかは分からない。

それでも、山田くんは思った。

――もう、自分は

答えがないと動けない人間ではない。

数日後、予備校の掲示板に張り紙が出た。

工藤教授は体調不良のため、今後しばらく休講となります。

代講はありません。

山田くんは、その紙を見て、少しだけ笑った。

結局、あの教授は最後まで、

何一つ「正解」を教えてくれなかった。

それでも――

黒板に何も書かなかった教授は、

浪人生の一年に、考える理由だけを残していった。

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黒板に何も書かない東大対策 イミハ @imia3341

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