元天才プログラマー、モンスター育成士になる

グリゴリ

プロローグ

 これが、俺の人生の終わりだと思っていた。


 深夜2時。横浜市西区の安アパート、6畳一間の部屋。窓の外は雨。パソコンの青白い光だけが、この薄汚れた部屋を照らしている。


 机の上には空のエナジードリンク缶が10本以上転がり、コンビニ弁当の空容器が山積みになっている。部屋の隅には洗濯物の山。いつ洗ったのか、もう覚えていない。


 画面に映るのは、終わりの見えないプログラムコードの羅列。バグを潰せば新しいバグが湧いてくる。まるで俺の人生そのものだ。


「はぁ……」


 深いため息をつく。目の奥が痛い。肩が重い。頭がぼんやりとしている。


 スマートフォンの画面を見る。午前2時15分。そして、日付が今日に変わっていることに気づく。


 2075年3月15日。


 俺の、23歳の誕生日だ。


「ああ、そうか。今日で23歳になったのか……」


 誕生日を祝ってくれる人間は、もういない。


 会社の同僚?冗談じゃない。あいつらは俺のことを「便利な道具」としか思っていない。上司は俺に月300時間の残業を強いて、それが当然だと思っている。


 友人?大学時代の友人たちとは、就職してから疎遠になった。いや、正確に言えば俺が距離を置いた。「楽しそうに生きている」彼らを見るのが、辛かったから。


 恋人?いるわけがない。恋愛をする余裕なんて、この人生のどこにもなかった。


 鏡を見る。そこに映っているのは、目の下に深いクマを作った、やせ細った青年。黒髪はぼさぼさで、頬はこけている。


 これが、かつて「天才」と呼ばれた原田春斗の姿だ。


***


 天才。


 そんな言葉が、どれほど空虚なものか。


 俺は確かに、プログラミングの才能があった。高校時代、全国プログラミングコンテストで3年連続優勝。大学は東京工業大学の情報理工学院に首席で入学し、首席で卒業した。


 だが、それが何になった?


 就職した会社は「最先端のIT企業」を謳っていたが、実態はブラック企業も良いところだった。月給28万円、残業代込みでも月40万円程度。しかし労働時間は月300時間を超える。


 時給換算すると、コンビニのバイト以下だ。


 それでも俺は耐えた。なぜなら――


「お父さん、お母さん……」


 8年前の、あの日から。


***


 フラッシュバックが襲ってくる。


 15歳の春斗。中学3年生。高校受験を控えた、普通の少年だった。


 両親は二人とも探索者だった。母、美咲は天災級の魔導士。父、達也は天災級の剣聖。世界でも屈指の実力者として知られていた。


 それでも、家では普通の両親だった。優しい母と、豪快な父。温かい家庭。幸せな日々。


 あの日、両親は重要な任務に向かうと言っていた。


『春斗、お母さんたち、すごいダンジョンに挑戦することになったの』


 母の声が、まだ耳に残っている。


『心配するな。必ず帰ってくる。お前の18歳の誕生日には、特別なプレゼントを用意してるからな』


 父の力強い声も。


 それが、最後の会話になった。


 天災級ダンジョン「深淵の螺旋塔」——両親たちのパーティは、70階層で消息を絶った。


 1ヶ月の捜索活動の後、全員が死亡したと判断された。


 俺は、天涯孤独になった。


***


 両親の死亡保険金は、約5,000万円。


 それで高校、大学の学費を賄った。一人暮らしの生活費も、そこから捻出した。節約に節約を重ね、大学卒業時点で残っていたのは約300万円。


 就職して、社畜として働いて。


 気づけば8年が経ち、俺はこんな人間になっていた。


「お父さん、お母さん……俺、ちゃんと生きてるよ」


 空のペットボトルに、自分の声が虚しく響く。


「でも、これが『生きてる』って言えるのかな」


 朝7時に起きて、8時に会社に行って、終電で帰ってくる。休日は疲れて寝ているだけ。趣味もない。楽しみもない。


 生きているのか、死んでいるのか、もうわからない。


 いや、わかっている。


 俺は、もう死んでいるんだ。心が、とっくの昔に。


 スマートフォンが震える。会社からのメッセージだ。


『原田くん、明日も終電コース確定ね。新プロジェクトが佳境だから。頼りにしてるよ!』


 上司からの、何の悪気もないメッセージ。


 画面を見つめる。返信する気力も湧かない。


「もう、いいかな……」


 そう呟いた瞬間。


 部屋が、揺れた。


***


 最初は地震だと思った。


 しかし、これは地震じゃない。もっと異質な、何か不吉な揺れだ。


 窓の外を見る。


 雨が止んでいる。いや、雨粒が空中で静止している。


 そして、夜空に——


「なんだ、あれは……」


 巨大な「裂け目」が、出現していた。


 漆黒の闇。しかしその周囲は、虹色に歪んでいる。まるで空間そのものが引き裂かれたような、異様な光景。


 街中に、サイレンが鳴り響く。


『緊急警報。緊急警報。ダンジョン出現を確認。西区全域の住民は速やかに避難してください。繰り返します——』


 ダンジョン。


 50年前、突如として世界各地に出現した、異世界への入口。その中には魔物が跋扈し、人類に牙を剥く。


 そして今、そのダンジョンが、俺のアパートの真上に出現したのだ。


「冗談だろ……」


 立ち上がろうとした瞬間、部屋の床に亀裂が走った。


 ミシミシと音を立てて、床が崩れていく。


「うわあああああ!」


 次の瞬間、俺は闇の中へと落下していた。


***


 落ちる。


 落ちる。


 落ちる。


 闇の中を、どこまでも。


 不思議と、恐怖はなかった。


 むしろ、妙に落ち着いていた。


「ああ、これで終わりか……」


 人生の走馬灯が、脳裏を駆け巡る。


 幼い頃の記憶。母に抱かれて眠った夜。父に肩車をしてもらった公園。


 中学時代。プログラミングに目覚めた日。初めてコンテストで優勝した時の興奮。


 高校時代。両親が消えた日の、あの絶望。


 大学時代。必死に勉強した日々。でも、心のどこかが空っぽだった。


 社会人になって。希望を失って。生きる意味を見失って。


「両親にも会えず、誰も愛せず、誰にも愛されず……」


 声にならない言葉が、闇に溶けていく。


「俺の人生って、何だったんだろう」


 答えは、出ない。


 そして、闇の中に——


 光が、見えた。


***


 瑠璃色の光。


 美しい、あまりにも美しい光。


 宝石のように輝き、まるで俺を呼んでいるかのように、優しく揺らめいている。


 落下速度が緩やかになる。いや、何か見えない力に支えられているような感覚。


 そして、俺はその光の前に、ふわりと着地した。


 痛みは、ない。


 怪我も、ない。


 ここは——洞窟の中だ。天井からは、淡い光を放つ苔のようなものが生えている。空気は冷たいが、湿っている。


 そして、目の前にあるのは。


「これは……卵?」


 直径30センチほどの、卵。


 表面は瑠璃色に輝き、まるで宝石のよう。内側から光を放っているようで、脈動するように明滅している。


 なぜか、惹かれる。


 なぜか、触れたくなる。


 俺は、吸い寄せられるように手を伸ばした。


 卵に触れた瞬間——


 世界が、光に包まれた。


***


 視界が真っ白になる。


 そして、頭の中に声が響いた。いや、声ではない。何か、概念のようなものが直接流れ込んでくる。


『特異現象検知』


『あなたは特殊適性を持っています』


『職業:モンスター育成士』


『希少度:★★★★★(世界で5人目)』


「なんだ、これは……」


 目の前に、半透明の文字が浮かび上がる。まるでゲームの画面のような。


 いや、これは——探索者システムだ。


 探索者になると、自動的に発動するシステム。レベル、スキル、ステータスなどが可視化される、不思議な力。


 俺は今まで探索者ではなかったから、見たことがなかった。だが、今、確かにこのシステムが俺に反応している。


『職業適性判定完了』


『原田春斗——モンスター育成士として認定』


『固有スキル取得:天恵育成(レベル1)』


『固有スキル取得:生態系超越(レベル1)』


『固有スキル取得:魔物の絆(レベル1)』


 次々と表示される文字。


 モンスター育成士?そんな職業、聞いたことがない。


 いや、待て。確か、数年前にニュースで見たような——


 世界で4人目の「モンスター育成士」が発見され、各国が争奪戦を繰り広げたという話。


 モンスターを育て、進化させ、究極の力を引き出す。探索者の中でも最も希少で、最も価値のある職業だと。


 そして、俺が5人目……?


 混乱する思考の中、卵が激しく震え始めた。


 ピキ、ピキッ。


 表面に、亀裂が走る。


「孵化するのか……?」


 亀裂がどんどん広がっていく。


 そして——


 パリン、と音を立てて、卵が割れた。


***


 光の中から、小さな影が現れた。


 体長30センチほどの、龍。


 瑠璃色の鱗が宝石のように輝き、小さな翼が可愛らしく震えている。額には七色に輝く突起——いや、これは宝珠のようなものだろうか。


 そして、何より印象的なのは、その瞳。


 深い紫色の瞳が、じっと俺を見つめている。


 知性がある。確かに、この小さな生き物には、明確な知性がある。


 生まれたばかりのはずなのに、その瞳には深い何かが宿っている。


「ルルルゥ……?」


 小さな鳴き声。


 そして、俺の頭の中に、声が響いた。


『これが……外の世界?』


 テレパシー。


 モンスターとのテレパシー通信——これも「魔物の絆」スキルの効果なのだろうか。


 小さな龍は、きょろきょろと周囲を見回した後、再び俺を見つめた。


 そして。


『お父さん……?』


 心臓が、跳ねた。


「お、お父さん?」


 俺が、この子の?


 小さな龍——彼女は俺にてくてくと近づいてきて、俺の足元で身体を擦りつけてきた。


「ルルルゥ♪」


 嬉しそうな鳴き声。


 温かい。


 小さな身体から伝わってくる体温が、確かに温かい。


『お父さん、お腹空いた』


 無邪気な声。


 生まれたばかりで、お腹が空いている。当然だ。


 俺は、気づいたら両手でこの小さな命を抱き上げていた。


「……温かい」


 8年ぶりに感じる、命の温もり。


 8年ぶりに触れる、生きているものの体温。


 涙が、零れそうになった。


「お前……俺を、お父さんだって……」


『うん。お父さん』


 迷いのない声。


 この子は、生まれた瞬間から俺を親だと認識したのだ。


 刷り込み——動物が生まれて最初に見た存在を親と認識する現象。それと同じなのかもしれない。


 だが、理由なんてどうでもいい。


 この子は、俺を必要としている。


 俺を、信頼している。


 俺を、慕っている。


 ずっと、ずっと誰にも必要とされなかった俺を。


「そうか……お前は、俺を選んでくれたんだな」


 小さな龍を、そっと抱きしめる。


「なら、俺は……お前を守る」


 心の底から、そう思った。


「もう二度と、大切なものを失いたくない」


『お父さん、大好き』


 純粋な想い。


 打算も、裏もない。ただ純粋に、俺を慕ってくれている。


「ありがとう」


 生まれて初めて、心からそう思えた。


「ありがとう……」


***


 洞窟の中で、俺は立ち上がった。


 腕の中には、小さな龍。


 もう、死んでいる場合じゃない。


 もう、諦めている場合じゃない。


 この子を、守らなければ。


 この子と、生きていかなければ。


「お前の名前……ルリでいいか?」


 瑠璃色の鱗を持つ、美しい龍。だから、ルリ。


「ルルルゥ♪」


 嬉しそうに鳴くルリ。


『ルリ、いい名前!お父さん、ありがとう!』


 その笑顔——いや、龍に笑顔という表現が正しいかわからないが——を見て、俺も自然と笑みがこぼれた。


 何年ぶりだろう、心から笑えたのは。


「よし、ルリ。まずはここから出よう」


 俺は、小さな命を胸に抱いて、洞窟の奥へと歩き出した。


 ここがダンジョンの中だとしたら、どこかに出口があるはずだ。


 そして——


 俺の新しい人生が、今、始まった。


***


 後から分かったことだが、あの瞬間、俺は「死」ではなく「生」を選んだのだ。


 絶望の淵で、俺は希望に手を伸ばした。


 そして、運命は俺に、世界で最も希少な力を授けてくれた。


 モンスター育成士——原田春斗。


 これが、全ての始まりだった。


 やがて俺は知ることになる。


 ルリがどれほど特別な存在なのか。


 「天恵育成」がどれほど強力なスキルなのか。


 そして、俺とルリの物語が、世界をどう変えていくのか。


 だが、この時の俺は、そんなことは知る由もなかった。


 ただ、胸の中の温かさだけが、確かに実感できた。


「ルリ、一緒に頑張ろうな」


「ルルルゥ♪」


 小さな鳴き声が、洞窟に響いた。


 これが、俺たちの物語の、プロローグ。


 23歳の誕生日に、俺の人生は生まれ変わった。


 絶望から、希望へ。


 終わりから、始まりへ。


 そして——孤独から、絆へ。


 俺たちの冒険が、今、幕を開ける。

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