ネクロジック 〜死者のための弁明〜

西嶽 冬司

英雄の鎧と、沈黙の臓器


「……で、何か分かったのか? 私はもう三十分も突っ立ってるんだけど」


腐った卵と、焦げた鉄の匂いで満ちた世界。

初夏の陽射しが容赦なく照りつけていた。

死臭と熱気が混ざり合い、むせ返るような空気を作り出している。

その中で、女騎士——クリスティナ・アイアンサイドが苛立ちを隠さずに言った。

フルプレートの鎧は、蒸し風呂のように熱を溜め込む。

額から流れ落ちる汗が、目に染みた。


国の騎士団きっての『腫れもの』扱いされている女。

その曰くつきの美貌に目を向ける事もなく、這い回る男。

痩せぎすの体躯。 青白い肌。

まるで自分も死体の一部であるかのような、生気の薄い風貌。

黒いロングコートの裾を泥に汚してもお構いなし。

大地に穿たれた、直径十メートルの穴の周囲を、忙しなく動き回っている。


「焦るな、牛。 今日も鎧の上から胸が揺れている。 控えめに言って目障りだ」


周囲に散乱するのは、かつて人間だった肉片と、飴細工のように捻じ曲がった金属片。

蠅が黒い雲のように群がり、肉塊の上を旋回している。

その羽音が、不快な低音となって耳に纏わりついた。


男が、焦げた肉片をピンセットで摘まみ上げる。

汗の滲むクリスのこめかみに、ビキリと青筋が浮いた。


「……殺されたいのか?」


「愚か者。 私が死んだら誰がこの挽肉ミンチを読む?

 君に読めるのは酒場のメニューか、賭場のオッズくらいだろう」


最初は本気で剣を抜いていたクリスも、今では拳の骨を鳴らすだけで済ませている。

成長か、あるいは諦めか。 おそらく後者だろう。

この男に常識を期待するだけ無駄だと、数ヶ月の付き合いで骨身に染みていた。


「おい、見ろよ。 グレイヴ家の変人だ」

「英雄の遺体を弄んでやがる。 罰当たりな」

「騎士団の恥さらしと、あの男か。 お似合いだな」


遠巻きの騎士たちが囁き合う声は、隠すつもりもないのか風に乗って届く。

クリスは聞こえないふりをした。

だが、握った拳がさらに固くなり、手甲の内側で金属が軋む音がする。

彼らの言う『恥さらし』が自分のことだと分かっている。

分かっていて、何も言い返せない自分が腹立たしかった。


クレーターの縁では、副団長ガルシアが部下たちに指示を飛ばしていた。

恰幅の良い体躯。 脂ぎった頬。 典型的な教会派の騎士だ。

その声だけが、やけに大きくクレーターに響いている。


「アレクシス卿の訓練中に魔力が暴走した——報告書にはそう記載しろ」


「まさか……英雄が事故死だと?」


「他に何がある。不名誉な噂が立つ前に現場を封鎖するんだ」


アレクシス卿。

王党派の旗頭として、民衆からも慕われた英雄。


その最期が、自分自身の魔力を制御できずに自爆した事故死。


あまりに呆気ない幕切れ。出来すぎた悲劇だ。


民衆は嘆き、王党派は声を失い、そして——教会派は密かに胸を撫で下ろすだろう。


クレーターの底から立ち上がり、男が鼻を鳴らす。

その横顔は、獲物の痕跡を追う猟犬に似ていた。


「……事故ねぇ」


「何か気になることでも?」


「魔力の影響なら、雷が落ちた直後のような鋭い匂いがするはずだ」


男が、空気を嗅ぐように顔を上げる。

風が吹き、死臭と土埃がクリスの鼻を突いた。

だが男は、その中に別の何かを嗅ぎ取っているらしい。

こと死体に関しては、この男の鼻は猟犬よりも鋭い。


「だがここは違う。 腐った卵と……舌に残るような金属系の味がする」


男が、クレーターの放射状の痕跡を目でなぞる。

クリスも釣られて、クレーターへと目を向けた。

確かに、爆発の痕跡は中心から外側へと広がっている。


「これは何かが体内で——いや、『鎧の中』で燃えた証拠だ」


「おい、あれはなんだ?」


男の講釈を横に流し、クリスは瓦礫の山で足を止めた。

爆心地の端、黒ずんだ土砂の中。

そこに、奇跡的に原形を留めたものがある。


フルフェイスの兜だ。


英雄アレクシス卿が愛用していた、白銀の兜。

今は煤けて見る影もないが、その形だけは辛うじて保っていた。


男は躊躇なく拾い上げ、焼き付いたバイザーをこじ開けた。

金属が悲鳴を上げる。

中には、蒸し焼き状態ながらも形を留めた頭部が残っていた。


「……ゴールデン・アワーだ」


男の口元が微かに歪む。

宝石商が極上の原石を見つけた時、あるいは美食家が最高の熟成肉を見つけた時、きっとこんな顔をするのだろう。

気味が悪い。心底そう思った。


「気持ち悪い顔して笑うな」


その笑みを前に、クリスが思わず一歩下がる。

この男が本当に嬉しそうな顔をするのは、良質な死体を前にした時だけだ。


「失敬な。これは弔いの笑みだ」


「貴様ら! 神聖な遺体に何をする!」


ガルシア副団長の怒声と共に、騎士たちが駆け寄ってくる。

その姿へ一瞥もせず、男は革手袋を外し、素手で兜の中の頭部に触れた。


「黙れ」


静かな、しかし有無を言わせぬ響き。

男の指先から、青白い燐光が走るが——


「……チッ」


舌打ちと共に、男は魔力を解除し、兜を乱暴に置いた。

燐光が消え、クレーターに再び死の静寂が戻る。


「どうした? 好みではなかったか?」


「巫山戯た事を。目が白身みたいになっている。

 視神経が焼き切れていては、記憶を読み取れない」


クリスが兜の中の英雄に向かって、呆れたように肩をすくめた。

白濁した眼球が、虚空を見つめている。


このまま英雄の最期は、誰にも語られることなく闇に消えるのか。


「随分とご大層な能力だな。 流石だよ検死官どの」


「君は人と会話する時、目を合わせないのかい? やはり牛だな。 マナーのなってないヤツだ」


クリスの手甲が不穏な音を立てて軋む。


「……殺していいか?」


「駄目だと言っているだろう。

 しかし、英雄どのが心を閉ざした以上、別の証人に話を聞くしかない」


男が再び地面に這いつくばり、肉片の山を漁り始めた。

蠅が飛び立ち、新たな悪臭が立ち上る。

周囲の騎士たちが顔を背ける中、男だけが平然と腐肉を掻き分けていく。

目当ての物はすぐに見つかった。


奇跡的に形を留めた袋状の臓器——胃袋だ。


懐からメスを取り出し、その場で切開。

ぐじゅり、と湿った音。 内容物が溢れ出し、酸っぱい臭いが立ち込めた。

その臭気に、クリスの顔が歪む。 胃の奥から、何かが込み上げてくる。


「見ろ」


「……本気で言ってるのか?」


男が胃の内壁を指差す。

まだ滑りの残る肉色の内壁が、そこにはあった。

クリスの喉を、酸っぱいものが駆け上がる。 こらえるのに精一杯だった。


「胃壁には焦げ跡一つない。 だが外側は、真っ黒に炭化している」


続いて男が、胃袋を裏返して見せた。

確かに、外側は見事なまでに黒焦げだ。 およそ人間のものとは思えないほどに。


「つまり、爆発は体内——飲んだ薬が原因ではなく、体表で起きたということだ」


男が立ち上がり、鎧の残骸を拾い上げた。

内側にこびりついた白い粉末が、クリスの目にも映った。

そして男は、それを指先で掬い、鼻を近づけ——舐めた。

クリスの顔が、三度目の嫌悪に歪む。


「ツンとくる刺激臭と、舌先に感じるピリピリとした金属の味。やはり燃える金属だな」


鎧の破片をクリスに見せる。


「水に触れると激しく反応し、高熱を発する物質だ。その化合物が鎧の内側にたっぷりと塗られている」


「水? でも今日は晴れだぞ」


「寝ぼけてるのか? 水ならあるだろう——運動すれば、必ず出るものが」


男が、クリスの額を指差す。 その指先が、答えを示している。


「英雄が飲んだのは中和剤じゃない。 強力な発汗剤だ」


クリスが目を見開いた。

パズルのピースが、音を立てて嵌まっていく。


「増強剤で体を熱くさせ、中和剤と偽って発汗剤を飲ませる。

 噴き出した汗が鎧の内側の白い金属粉と反応し——」


男が、一拍置く。

そして、パンと手を叩きながら続けた。


「人間蒸し焼きの完成だ」


実に反吐が出るほど芸術的な手口。


ターゲットに自ら引き金を引かせる、悪趣味な処刑法。


被害者は自分の汗で、自分の鎧の中で、生きながら焼かれたのだ。


「これは三十年前、『マダム』が得意とした手口だ。

 まさか現代で、こんな古典にお目にかかるとは」


クリスの記憶の底で、女の高笑いが聞こえた気がした。

モルグで今も生かされている、あの毒婦の声だ。

背筋を、冷たいものが走る。


「という事は、あの女の仕業ということか」


「早合点するな、牛。 これだから単細胞は」


そう吐き捨てながら、男は足元に落ちていた薬瓶の破片を拾う。

瓶の口に残った封蝋。 そこには微かに、独特の甘い香りが残っていた。


「騎士なら、この匂いに身に覚えはないか?」


突き出される便に、クリスがイヤイヤ鼻を寄せる。

微かに感じるのは、甘く独特な刺激臭。 消毒の際に嗅いだ記憶のあるものだ。


「役者は揃った」


男が、ガルシア副団長のいるテントへと歩き出す。

その背中を追いながら、クリスは鎧の中で拳を握りしめた。

嫌な予感がする。この男が動く時、必ず何かが起きる。


そして大抵、それは血の匂いをもたらす。




***




演習場の指揮テントは、事故処理の喧騒に包まれていた。

入口の布を払って入ると、副団長ガルシアが書類にペンを走らせているところだった。

ランプの灯りが、彼の脂ぎった顔を照らしている。


「掃除は終わったか、穢らわしい墓守」


ガルシアはこちらに気づき、露骨に顔をしかめた。

その目には、汚物を見るような嫌悪が浮かんでいる。


「ええ、終わりました」


男は淡々と答える。

その机の上に、回収した胃袋と、薬瓶の破片、そして白い粉の付着した鎧片を並べた。

腐臭が、テント内に広がる。


「——あなたが英雄を殺したという証拠の回収が」


テント内の空気が凍りついた。

書記官がペンを落とす音が、やけに大きく響く。


「『騎士殺し』を模倣するとは、随分と勉強熱心だ。 だが、詰めが甘い」


薬瓶の封蝋を指差す。


「この封蝋には聖堂区の香樹脂が使われている。

 そして鎧に細工できたのは、装備を点検する権限を持つ者——

 副団長、あなただけだ」


ガルシアの顔が歪み、脂汗が浮く。

その手が、微かに震えていた。


「……貴様、何を言っている。私が部下を殺す理由がない」


「理由はまだ分からない。 だが、物証があなたを指している」


「——黙れ!」


ガルシアが絶叫し、剣を抜いた。

それは合図だった。

テントの周囲を囲んでいた布が切り裂かれ、六つの影が雪崩れ込んでくる。

軽装の剣士たち。その目は、人を殺すことに慣れた暗殺者のそれだ。

殺気が、テント内を満たす。


「英雄の名誉を守るためだ! この掃除屋と女を消せ!」


「——下がってろ、ヒョロガリ」


クリスが前に出た。ここからは自分の領分だと言わんばかりに。

男は一歩下がり、冷めた目で状況を観察する。


「任せたとも、番犬ブラックドッグくん。……だが紳士の矜持にかけて言っておく。一般的な基準で言えば、私はヒョロガリじゃない。君や騎士が戦車チャリオットなだけだ」


クリスが魔力を解放した。

青白い光が鎧の隙間から溢れ出し、周囲の空気がビリビリと震える。

テントの布が風もないのに揺れ、ランプの炎が大きく揺らいだ。

圧倒的な魔力の放出。7ゲージ——団長クラスの一歩手前。


最初の剣士が斬りかかる。

並の人間なら、間違いなくお陀仏な剣筋。

だがそれを前に、クリスは剣を抜こうともしなかった。

襲いかかる剣——ではなく手首を受け止め——そのまま握り潰した。

人体が紙のように歪み、千切れ飛ぶ。

男の顔面を通り過ぎてく行く剣のリカッソに、炎の刻印が見えた。


「は?」


剣士が間の抜けた声を上げた瞬間、クリスの右拳が鎧ごと男の胸板を粉砕した。

肋骨が砕ける音。肺が潰れる音。心臓が破裂する音。

それらが混ざり合い、一つの不協和音となる。

人体が布切れのように吹き飛び、テントの支柱をへし折った。


二人目と三人目が同時に襲う。左右から、連携の取れた動き。

だが——


クリスは脚を踏み込んだ。


ただそれだけで、石畳が爆散し、衝撃波が二人を弾き飛ばす。

続け様に繰り出される、フルプレートの重量ごと叩き込まれたタックル。

背骨が逆方向に折り曲がる、嫌な音が響いた。


残り三人の足が、縫い付けられたように止まる。

生物としての本能的な恐怖。目の前にいるのは、人間の形をした災害だ。


「終わり?」


クリスが首を鳴らす。

堪らず逃げようとした三人に向かって、彼女は床を蹴った。

閃光。 そして、肉が潰れる音が三度。

十秒。 いや、五秒か。

テント内には血と骨の破片が散乱し、立っているのは彼女だけだった。


「こいつらの身元も調べる?」


クリスは息一つ乱していない。 ただ、倒れた暗殺者たちを一瞥していた。

その手甲には、返り血すらほとんど付いていない。


「君が粉砕した頭蓋骨の中身を? 冗談じゃないよ。

 それに、死因こたえの分かっている肉塊に興味はない」


「……あんたの性格、本当に最悪ね」


腰を抜かして震えているガルシア副団長に歩み寄る。

彼の足元には、失禁の跡が広がっていた。


「さて、副団長。洗いざらい吐いていただきましょう。

 誰の指示で英雄を殺した?」


「わ、私は……」


「嘘は無駄ですよ。 私には聞こえるのです。

 ——嘘をつくとき、心臓は一拍、遅れる」


副団長の顔から血の気が引いた。

彼は剣を取り落とし、両手で顔を覆う。

観念したのか、あるいは恐怖に耐えられなくなったのか。


「英雄は……器が大きすぎた。王党派の次期団長候補として、力を持ちすぎて——」


その瞬間、副団長の表情が恐怖に凍りついた。

まるで何かを見た——いや、何かに支配された顔だ。


「あ、あが……っ!」


副団長の右手が、意志とは無関係に動き始める。

さながら操り人形のような動きで、その手が腰の短剣を逆手に持った。

白目を剥き、泡を吹きながら、彼は自分の手を止めようともがいている。


「——遅効性の神経毒。 あるいは暗示か」


眉をひそめる。 口封じ。 古典的だが確実な手だ。


「た、助け……」


涙を流しながら、副団長は自分の喉を深々と突き刺した。

頸動脈が破れ、鮮血が噴水のように舞う。

テントの天幕に、赤い染みが広がっていく。

彼はのたうちまわり、数度痙攣し——そして、動かなくなった。


クリスが駆け寄ろうとしたが、男は手で制した。


「もう手遅れだよ」


死んだばかりの副団長の頭に、男の手が触れる。

青白い燐光が走り、男の目が虚ろに濁った。

鼻から、ツーと血が垂れる。


「あぁ……頭痛が痛い」


白目を向いて痙攣しながら、間抜けな事をほざく男に、クリスは深いため息を吐いた。


「バカな言い回しだな。 心配して損した気分だ」




——男の視界が歪む。


『死にたくない』

『喋らせてくれ』

『私は騙された——あの薬は本物のはずだった——』

『助けてくれ、止まれ、止まってくれ——』



——白目を向いていた男の視界が元に戻る。

それと同時に、接続されていた意識も彼へと帰った。


「……思考は『生』を求めているのに、肉体は『死』を選んだ」


男は立ち上がり、ハンカチで鼻血を拭いながら続ける。

その顔は、わずかに青ざめていた。


「やはり自死ではない。 口封じだ」


「つまり、副団長は——」


「実行犯ではなく、利用された駒。 そして、用済みになって捨てられた」


副団長の遺体を見下ろす。

恐怖に歪んだ顔。 自分の手で自分の喉を突いた男。

彼の最期の思考——『あの薬は本物のはずだった』。


「副団長は、渡した薬が本物の中和剤だと信じていた。

 つまり、薬は納入段階ですり替えられていたんだ」


男が再び副団長の脳に触れる。

燐光を放つ男の顔は青白さを増し、その視界が揺らいだ。

鼻血が、顎を伝って滴り落ちる。


「やめろ、いつもより顔色が悪い。 死ぬぞ」


クリスが肩を掴んだ。 その手の熱さが、男を現実に繋ぎ止める。


「あと少しだ……」




——三日前の記憶。

副団長が薬師ギルドからの荷物を受け取る。

届けたのはギルドの制服を着た人物。 顔はフードに隠れて見えない。

だが、その手首に、一瞬だけ見えた刺青。

暗殺者の剣のリカッソにもあった、炎——聖火を模した意匠。


——教会関係者の証だ。




男の意識が再浮上する。

その身体が崩れそうになるのを、クリスが支えた。

彼女の腕の中で、男は荒い息を吐いている。


「……薬を届けた人物は薬師ギルドの者ではない。 教会の関係者だ」


「教会が騎士団の英雄を……なぜ?」


「愚問だな。 アレクシス卿は王党派。

 その台頭を、教会派が阻止したかった——そう考えれば辻褄は合う」


崩れたテントの出口に向かう。

外の空気は冷たく、夜の帳が下り始めていた。

血の匂いから逃れるように、男は深く息を吸った。


「だが、それを調べるのは私の仕事ではない」


男は振り返らずに言った。

その言葉に、クリスの眉間に険が走る。


「私は『誰が殺したか』を明らかにしたいだけだ。

 政治的な陰謀を暴くのは、別の誰かの仕事だ」


クリスの視線が、テントの中の副団長の遺体に向く。


「……悼ましいことだ」


教会に踊らされ、自刃を強いられた哀れな男。

恐らく今回の件は、副団長の独断として処理される事だろう。


「ふん。 この世界では珍しくもない、悲劇の一つだよ」


男は面白げもなく鼻を鳴らし、夜風の中、修練場に背を向けた。




***




遺体安置所モルグは、夜闇よりもさらに静謐な空間だった。

冷たい石壁に囲まれ、ホルマリンの匂いが薄く漂う。

並べられた石台の上には、今日回収された遺体——英雄アレクシス卿の頭部。

それが、白い布に包まれて安置されていた。


ランプの灯りが揺れ、影を壁に長く伸ばす。

炎の揺らめきに合わせて、影もまた踊っていた。


「……あなたは英雄であろうとした」


誰もいない空間に、男の声が落ちる。

皮肉でも、ポーズでもなく。ただの事実として。


「その重圧に耐えるために、禁じられた力に手を出した。

 だが——責められるべきは、その重圧を強いた者たちだ。 あなたではない」


白い布に包まれた頭部は、当然ながら何も答えない。

しかしその沈黙こそが、最も雄弁な肯定だった。


「痛かったでしょう」


男の声が、わずかに震えた。

自分の鎧の中で、自分の汗で、生きながら焼かれる痛み。

助けを求めても、誰も来ない絶望。

リーディングはできなかったが、それを想像することは難くなかった。


「……安らかに」


背後で、かすかな物音がした。

男が振り返ると、入り口にクリスが立っていた。

鎧は脱いでいる。 簡素なシャツとズボン姿だ。

ランプの灯りが、その横顔を照らしている。


一瞬の沈黙。

男は即座に表情を消し、いつもの皮肉な仮面を被り直した。


「……いつからいた」


「見てない」


クリスは素っ気なく答えた。


「死体に話しかける変態なんてな」


「結構。 君に見せるものは何もない」


クリスの横を通り過ぎ、安置所を出る。

その後ろ姿を、クリスも黙って追いかけた。


階段を上がりながら、クリスが口を開く。

石段を踏む音が、二人分重なる。


「……あんた、本当は死者に同情してるんじゃないのか?」


足を止めずに答える。


「私は死体が語る論理ロジックを楽しんでいるだけだ。

 死者の感情に興味はない」


クリスは特に追及しなかった。

ただ、少しだけ——ほんの少しだけ、この変人への見方が変わった気がしただけだ。


冷徹な変人。 死体を弄ぶ異常者。

そう思っていた。

だが、今見たものは——


「何をニヤニヤしている」


振り返ると、クリスは慌てて顔を背けた。


「別に」


クリスは男を追い越し、先に階段を上がっていった。

その背中を見送りながら、男は小さく息をついた。




***




グレイヴ邸の書斎は、暖炉の火で温かく照らされていた。

壁一面の本棚。 革張りの椅子。 窓の外には、王都の夜景が広がっている。

星明かりが、遠くの尖塔を銀色に染めていた。


帰宅した男を、彼の弟——オーガスト・フェルディナンド・ド・グレイヴが迎えた。


「兄上、また現場で殺されかけたそうですね」


オーガストは、兄とは対照的に身なりが整っている。

グレイヴ家の当主として、社交界での評判も悪くない。

ただし、胃薬を手放せない体質になってはいたが。


「ああ、怖かったよ」


書斎の椅子に身を沈め、ワイングラスを傾ける。

赤い液体が、暖炉の光を反射した。


「野蛮な連中は苦手だ」


オーガストは呆れてため息をついた。


「とぼけないでください。『8ゲージ』もの魔力なら、彼らなど造作もないでしょう」


「さあ、どうだろうね」


「リーディングだけでなく、少しは魔力を身体強化に回してください」


弟の苦言に、男はニヤリと笑う。


「それじゃ、死者の繊細な声が聞こえんだろう?」


「……それで、例の女騎士はどうでした? 今回が初めての大きな事件でしたが」


オーガストは椅子に座り、兄の顔を観察した。


「暗殺者6人を30秒で肉塊に変え、私の服に血を飛ばさないよう気を遣っていた。

 実に使える牛だよ。飼い続ける価値はある」


オーガストは深いため息をついた。

この兄は、人間関係というものを根本的に理解していない。

あるいは、理解した上で楽しんでいる。


「……その呼び方、本人の前でもしてるんですか? いつか本当に殺されますよ」


男は、意にも介さずワインを一口含む。


「私のことはいいから、アイリーンとはどうなんだ?

 ちゃんとエスコートしてるのか?」


「ええ……今日もお茶会をしましたよ」


オーガストの声が微妙に曇った。

その視線が、窓の外の曇天を凝視する。


「そもそも、元を正せば彼女は兄さんの婚約者ですよ」


「私が当主をするより、お前の方が向いている」


グラスを揺らす。 赤い液体が、小さな渦を描いた。


「彼女の幸せを考えるなら、当主であるお前と結婚するべきだ。

 ——私はね、お前だけでなく、彼女にも幸せになってほしいんだ」


「……それ、アイリーンに伝えました?」


「いいや? 貴族同士の結婚だぞ。 個人の感情は関係ない」


オーガストは窓の外に目を逸らしたままだった。

ただ鈍い痛みを感じるように、胃のあたりをさすり続けている。


「どうした、我が弟よ。 急に黙り込んで」


「……」


ふと、男は風を感じた。

椅子に座ったまま、ゆっくりと首を背後へ回す。


書斎の入り口に、深紅のドレスを纏った少女——アイリーンが立っていた。

人形のように整ったかんばせ。 蜂蜜色の巻き毛。 薔薇のように赤い唇。

しかしその瞳は、獲物を前にした肉食獣のように据わっている。


「……ふむ」


男はワインで唇を湿らせ、オーガストを見た。

明らかに顔色が悪い。 どちらの男も。


「お前がずっと窓の外を眺めている理由が、どうやら私にも分かったようだ。

 脳を見ずに人の機微が分かるとは、私も成長したとは思わないか?」


「……さっき言いましたよね? 『今日もお茶会をした』って」


オーガストは立ち上がり、書斎の出口に向かった。


「ちなみにお茶会の内容は、終始、常に、兄さんの話題です」


「待つんだ愛弟よ。 このままでは、兄は蝋燭を折るより簡単に潰されてしまうぞ」


男の声に、わずかな焦りが混じる。

その声を振り切るように、オーガストはドアノブに手をかけた。


「これに懲りたら、少しは身体強化に魔力を回すことですね」


オーガストは決して振り返らなかった。

彼の姿が扉の奥へと消えていく。

代わりに男の視界を塗りつぶしたのは、アイリーンの華やかな美貌。

ただしその瞳には、一切の光がない。


「存分に二人で語り合ってください。 私は二時間くらいは席を外します」


書斎の扉が閉まった。 カチャリ、と鍵がかかる音がした気もする。


静寂。

暖炉の火だけが、パチパチと音を立てている。


「……『個人の感情は関係ない』……そうおっしゃいましたね?」


アイリーンの声は、低く、静かだった。

嵐の前の凪のような静けさ。

ゆっくりとグラスをテーブルに置く。 手は震えていない。 たぶん。


「……アイリーン嬢。盗み聞きは淑女の嗜みではないな。

 それに、今の発言には文脈というものがあって——」


小気味よい破裂音が、書斎の空気を凍らせた。

目の前で、アイリーンが自分のドレスの胸元を、素手で引き裂いたのだ。

厚手のシルク布地だけでなく、コルセットまで無惨に裂けて飛び散る。

白い肌が露わになり、男の思考が一瞬停止した。


「……さ、最新の流行は、紙で出来たドレスなのかな?

 そ、それと、じ、上位貴族が、異性の前で肌を晒すのは、外聞が——」


「ベネディクト様」


アイリーンが鋭く息を吐いた。

たったそれだけで、その身分に相応しい魔力の一端が発露する。

床板が割れ、窓ガラスがビリビリと震え、亀裂が走る。

空気が軋み、本棚の本がバタバタと床に落ちた。


そして、目の前にいた男——ベネディクトは、座っていたカウチごと書棚へと吹き飛ばされた。


「ひっ……! あ、あー……クリス! どこだクリス! 番犬! 破城槌!!」


ひっくり返ったカウチから這いずり、ベネディクトはなりふり構わず、喉が裂けんばかりに声を張り上げる。


「誰かこの暴走列車を止めてくれぇぇ!」


広い書斎に、あまりにも情けない絶叫が木霊する。

ハードボイルドだの、背伸びだの、そんなメッキは剥がれ落ちて粉々だ。


死者の声を聴く異能も、皮肉な仮面も、この暴走する十八歳の激情の前には何の役にも立たない。


だが、助けは来ない。

どうやら、夜はまだ始まったばかりらしい——

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