2.動き出す時間

––––会長室にて


 先程まで目の前に座っていた光希さんが居なくなった部屋は静けさを取り戻していた。壁に掛けられている電波時計は午後九時二十分を指している。


 ゆっくりと立ち上がり、デスクの前に戻る。硬い表情を浮かべていた彼女の姿を思い出す。


「これで、良かったのかな……?」


 決断を下したのは自分自身だ。ついいましがた彼女の承諾まで得たというのに。未だ自問自答を繰り返している。

 彼女が唯一の肉親である母親を亡くした経緯を知っていながら。我ながら、酷い頼み事をしたものだ。


 彼女の異動先の責任者、葉月環奈には先程連絡を入れておいた。全てを伝え終わるか、終わらないかのうちにがちゃりと電話は切られてしまった。


––––納得、していないだろうね。あれは。


 その直後だった。微かな足音の後ドアの外に足音が止まった。誰なのかは大方予想がついている。ノックも無くドアが開けられた。


「葉月室長。せめてノックくらいはしてくれないか?」

「……お父さん。さっきの電話。何?」

「光希さんの異動の件だね。彼女は了承済みだよ」

「何で……光希ちゃんなの?」


 じっ、と此方を見つめる環奈から震えた低い声が漏れた。怒鳴られた方がいっそ良かったかもしれない。協会内では会長と呼ぶ様に、と再三言ってきた。だが今はそこまで考えが至らないようだ。


 怒りもある。だが戸惑いと悲しみが勝っている。まだ環奈が幼い頃、母親が亡くなった時も『どうして』と言葉にならない声で見上げる視線を思い出した。


「協会のためだよ」


 そう吐き出した声が僅かに震えた。嘘を吐く事は苦手ではなかった筈だ。こんなところを見せたくはなかった。


「……それは、お父さんの本心なの?」


 環奈が此方の挙動に気づかない筈がない。飛んできたのは確信をつく言葉だった。何かを言おうとしたが、言葉は出てこなかった。


「光希ちゃんがウチに来た理由、忘れたわけじゃないよね?」

「うん。勿論覚えているよ」

「……お父さん、光希ちゃんに仕事させることすら嫌がってたよね。どういう風の吹き回し?」


––––納得する理由を、聞き出そうとしている。


 何故、危険を承知で零協会の【核】に異動させるのか。そして何故このタイミングなのか。挙げていけばキリがないが、大方考えているのはこの二つだろう。


 まだ二十五歳。この若さで特殊犯罪対策部門、通称【トクハン】のトップ、室長にまで上り詰めた。物事の根幹を見抜く早さには、相変わらず驚かされる。


「何度でも言うよ。協会のためだ」

「だから何でかって聞いてるの」


 環奈はまだ食い下がる。だが本当の事をここで話す気は毛頭無い。協会の為。その一点だけで押し切るつもりだった。


「良いかい?現状は私が思っていたより深刻なんだ。環奈もそこは分かっているよね」

「それは……」

「鏡穴の発生予知と異形出現に伴う対策。管理システムも覚束ない。人員の確保は最優先事項だ」

「……っ」


 ぎゅっ、と拳を握り環奈は黙り込んだ。本当の事を話すまでも無い。今話した事は全て事実だ。圧倒的な人手不足は、どう理由を付けた所で否めない。


「光希さんはシステムの構築に関して深い知識がある。適材適所だろう」

「……光希ちゃんにはどこまで話してるの?」

「詳しい内容はまだ。事務作業を担ってもらうとしか」

「そう。わかった」


 環奈は未だ納得していない。だが、此方が一度決めたら折れない事は理解している。それ以上、食い下がる事はやめた。


「ああ、それからもう一つ」

「何……?」

「協力を打診していた黒妖星から一時間ほど前に返答があった」

「そう……。今度は大丈夫なのかしら」


 状況の好転に繋がりそうな情報であるにも関わらず、環奈は表情を曇らせた。【今度は】の部分をやけに強調している。


「どうかな。実際に会ってみない事にはね」

「……誰が来るのかは?」

「恐らくは【彼】だろう。環奈の想像しているような事は起こらない筈だよ」


 環奈の前に一枚の用紙を置く。


 協会に登録されている個体識別データを打ち出しておいたものだ。


 用紙を手に取った環奈は目を細める。


「この男が何で今更?」

「さあ?そこは私にもわからないね。ただ……彼の中で何かしらの変化があった事は間違い無いだろう」


 写真の中の男、宮凪和葉は緋の瞳でこちらを見ていた。時間の経過は確かにあるはずだ。だが二十五年経つ今も、見た目は若々しいまま。美しいという言葉は、彼のような者の為にあるのかもしれない。


「懸念点は今までと同じね……。意思の疎通が出来るかどうか」

「過去二度の交渉はそれが出来なくて決裂しているからね」

「逆に仕事増えたから。あれなら来なくても良いって思ったわよ」


 訝るような目で環奈は写真を見ている。誰が来たところで同じ、とでも言いたそうな表情だ。


「まあまあ。和也殿曰く彼が最も適任との事だ。三度目の正直と言うし……信じてみようよ」

「二度ある事は三度ある、とも言うわよ」


 ため息を吐いた環奈から、そんな言葉が返って来た。随分と疑心暗鬼になっているようだ。前回と前々回の協力者は、協力云々の問題ではなかった。環奈が後ろ向きの感情を抱くのは当然だろう。


「葉月室長」

「……はい」

「彼が来るまでの一ヶ月は大変だとは思うが堪えて欲しい。何かが変わるはずだ。彼が来る事で何かが、ね」

「ええ、分かりました」


 失礼しますと一礼した環奈が背を向け、部屋を出て行った。彼女は今から夜勤のはずだ。人手が足りない為に、他の協会員と同じようにシフトに入り現場に出ている。室長としての仕事は山積みだ。このままの状況が続けば、倒れてしまうかもしれない。


「ふぅ………」


 何はともあれ、漸く一通りの準備は終わった事になる。後は二人の異動でどうなるかだ。


「やっぱり、悪い事したかな……」


 全てを知っていながら知らないフリをして、嘘をついてまで押し通した。


 宮凪和葉が、こちらの要請を飲むことも。


 そう判断するに至った理由も。


「ここまで長かったけど……やっと何かがはじまりそうだ」


 誰にともなく、そう呟いた。


 あの雪の日に止まった時間が、少しずつ動き始めたような気がした。

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